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2011年4月23日 (土)

『江戸の春画』といったってここ10年位で日本人がみられるようになったってのはどうかな

 群馬県の太田に行ってきた。北関東自動車道の脇になんか芝桜らしい岡が見える。

Dsc_00071 太田市の「芝桜」ったって、今年初めて作った感じなのでまだまでですね。遠くから見ればいいのだが、近ずくとかなり「すき間」があってまだまだこれからだな、と言う感じ。あ、でも芝桜を見るために太田まで行ったんじゃないですよ。仕事の打ち合わせのついでにちょっとね・・・。

SHARP IS03 (c)tsunoken

 で、高崎までの行き帰りに読んだ本がこれ。

『新版 江戸の春画 江戸人の性愛を描く』(白倉敬彦著/洋泉社歴史新書y/2011年4月21日刊)

 真昼間からなんていう本を読んでいるんだというお叱りは、まあ普通に受けるとして、しかし、面白いじゃないか、春画(浮世絵春画)を通して江戸の人間がどんな「性春」を送ってきたのかを見るのである。結構、今と変わらないかもしれないし、変わっていることもあるかもしれないし。

 一番の問題は春画はポルノグラフィかポルノグラフィじゃないのかという 論争が過去にあったということ。実にくだらないね。別に春画がポルノであろうがなかろうが関係ないじゃないか。要は「ポルノは悪」「藝術は善」という二分法なのであるけれども、そんなに「ポルノ」と「藝術」を分ける方がおかしいのであって、「ポルノも表現」「藝術も表現」ということで、そのどちらにも表現における優劣は付けられないのだ。要は「猥褻であって何がいけなのだ」ということである。

 しかし、面白いのはジェンダー論である。

『浮世絵春画を見ると、その初期から若衆相手の交合図が女の年齢差なしにところに散見できる。いかに江戸の女たちにとっても若衆が憧れの対象であり、なおかつ女の男子を見る眼差しがそこに集中していたかがわかる。女の欲望の眼差しから見ると、大人の男、それもマッチョな男などはその眼中にないかのようだ』というように、普通の男が女を凌辱するという普通の「ポルノ」的な表現形式は、実は春画の世界では普通の表現でもあるけれども、意外とそうじゃない表現もあったのだというところにも思い当たる。

 まあ、でも基本的には「春画」と言うものは男の欲望に応えるものだったんだろうな。大体、男根をやたら大きく描くという方法論からして、それは男性の巨根伝説によるものなのだろう。しかし、男性の巨根伝説に応えるためには女も巨マン伝説にならざるを得ない。ということで、春画の世界では男女ともに大きいマラと大きいホトを持った女がおおいんだろうな。

 いずれにせよ、それだけ自由な男と女の関係があった時代あったのだよなということである。まあ、江戸と言う時代はいろいろ不自由なことが多かった時代ではあるが、その不自由な時代であっても、その不自由さをうまく自分用に作り変えてうまくやっていた連中もいたんだな、ということでおしまい。

 

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