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2011年4月14日 (木)

『映画の構造分析』と言う以上に大事なのは「映画の経済分析」なのだが

 すぐれた映画評論(批評)というものは、「映画について語ったおしゃべり」ではなくて「映画を使って自らの哲学を語るもの」なのである。

『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』(内田樹著/文春文庫/2011年4月10日刊)

 つまり、内田氏が「文庫版のためのあとがき」に書くように、『映画のレビューは雑誌や通販のカタログでいくらでも読めるし、ネット上でも個人で映画評を書いている人がいくらもいるからです。けっこう面白い映画評が無料で読めるときに、わざわざお金を払って映画評だけの本を買う人はあまりいません』という、映画の本が雑誌やなにかでは評判ではあっても、その書籍は売れないということを書いているのだが、じゃあ何でそうした「映画評」の本が売れないかと言えば、それは読者が映画を見てしまえばそこで「映画評」は終息してしまうからなのだ。そうした「映画評」は結局、読者がまだ映画を見る前の段階で「これはどんな映画なのか」を知るためだけに使われてしまい、映画を見た後はその読者(映画の観客)自身の個々の「映画評」が出来てしまうからなのだ。つまり、それは、実は「映画評」ではなくて「映画評判」でしかないのだ。まだ見る前の映画についての「評判」を高めるだけの、言ってみれば「映画のパブリシティ」なのであります。こうした、「映画のパブリシティとしての映画評」という発想は、なるほど映画の配給会社からしてみれば当たり前なのであるが、その実態に私もあったことがある。

 私が学生評論家として『キネ旬』なんかに映画評を書いていた時、あるジャンルの作品群をずっと評価していたのだけれども、そのおかげでそのジャンルの映画を配給というか製作もしていた会社から、毎回新作が出来るたびに試写状が送られてきた。「いやあ、俺もこれで少しは映画評論家の仲間入り(?)」なんて喜んでいたと思いねえ。しかし調子に乗って、ある作品をクソミソにケナシ、それが『キネ旬』の編集者が面白がって掲載しちゃったんですね。まあ、そしたら見事に次からは試写状が来なくなてしまったので、またまた金を払ってそのジャンルの映画を見なければならなくなった、というオソマツ。まあ、要は「映画評」なんてその程度の「パブリシティ」でしかないのだ。ということもあったので、自分が映画製作者になった時には、そんな批判的な人たちにも気を配ったのだが、もはや時代はそんな時ではなく、体制翼賛的な批評ばっかりの時代になっていて、いやあ残念。もっと「アキラ」とか「ああっ 女神さまっ」を批判してくれてもいいのになあ。

 ま、ということですぐれた映画批評というものは、映画そのものを語ることではなくて、映画そのものを語るようにしていながら、実は自らの哲学やら、実存やら、構造主義やら、現象学やら、記号論やら、存在論やら、やらやらを語っている文章なのだ。古今の書籍として出版された映画評論というものは、実は作家などが書いた映画評(池波正太郎氏なんかは有名ですね)を除いて、すぐれた評論家が書いた評論集としてはみんな「映画とは別の価値を示した」評論なのだ。

 ということで、内田樹氏の映画評論もその系統に入る『映画について語っているようでいて実は自分の哲学を語っている評論』なのである。例えば『エイリアン』(リドリー・スコット監督)について語るとき、シガニー・ウィーバー演じるリプリーを『ハリウッド映画がはじめて造型に成功した「ジェンダー・フリー」ヒロインなのです』と持ち上げる。しかし、同じリプリー(やはりシガニー・ウィーバーが演じている)が『エイリアン2』(ジェームス・キャメロン監督)では「闘うヒロイン」としては目立っていたが、一方ではやはり昔風の「女」になっていることについての論究はない。でも、私個人的にはこの『2』の方のシガニーがいいんだけれどなあ。セクシーだし。

 同じように『大脱走』(ジョン・スタージェス監督)についても、その「脱走」の気持ちよさ、特にスティーブ・マックウィーンのカッコよさではなく、その他の出演者の「様々な生き方」に注目するのだ。要は「ドイツ語」なのだ。当然、ドイツ国内の捕虜収容所に置かれていたアメリカとイギリスの将校連中が収容所から脱走してその後にどうやって生きてきたのかを注目するのだが、しかし、基本的には観客の眼はスティーブ・マックウィーンに注がれているのだ。それでも、その他のキャストの動きに目を配ることは何の問題もない。それは、そうした観客もいるとういうことで許されるのである。つまり、観客の自由さ。何を、何処を見ようがそれは観客の自由さであり、当然それは批評家の自由である。

『北北西に進路をとれ』(アルフレッド・ヒッチコック監督)に関しても、いろいろ言いたいことはあるけれども、もうどうでもいいのだ。問題はこの作品の原タイトル"North by Northwest"というのが、所詮、ノースウエスト航空のキャッチフレーズだったというのはどうだろうか。要は「北へ、ノースウエストで」と言うのがこの映画のタイトルなのだ。何だ、タイアップかよ、というのは簡単。当時は「タイアップ」なんて言葉もなかった時代なのだ。

 ということで、内田氏が実はとんでもない間違いを犯していることが分かるのであった。つまり、ハリウッドでは(というかアメリカ映画では)「ディレター」や「ライター」ではなくて「プロデューサー」が唯一の「クリエイター」なのだということ。勿論、ヒッチコックのように自らプロデューサーも兼ねていた人もいるわけで、『エイリアン2』を作ったジム・キャメロンなんかはその後には自らプロデューサーも兼ねているディレクターになった、要は、そうでなければハリウッドでも自分の作りたい映画は作れないからなのだ。

 内田氏の映画評は良くわかるし、魅力的だ。しかし、映画というものが産業的に作られるものであるということにも配慮をしてもらいたいのだ。そう、映画は文学とは大いに違うのだ。個人で創造する文学とは映画は全く違うのだ。それは、内田氏も書いているじゃないか、『映画は集合体としての「フィルムメーカー」による集団的創造の産物です』と。それが、「資本」がからんでいるのが映画の世界なのだ。

 したがって、映画評論はすぐれて資本評論でなければいけないし、その結果としての資本構造論的な評論でなければいけないし、人によっては反資本評論になるだろうし、またある人によっては資本大切評論になるだろう。私なりに言えば、映画評論はすぐれて「資本主義経済評論」になってなければいけないと考えるのだ。

 文芸評論と映画評論の大きな違いはそこにある。要は、そこに「資本」の介在があるかどうか。勿論、いまや文学においても「資本」がからんで、いろいろ書きづらいものを抱え込んでいる作家がいることは知っている。しかし、あらかじめ「資本」がからんでいる「商業映画」の世界はそれとは全く違う。

 内田氏の映画評が面白いのは、そんな産業世界とは関係ないことろで存在しているからなのだろう。しかし、実在の映画は産業世界と一緒にいる世界なのだ。そこのところを分かっていないと、今後の映画評論は「単なる映画好きのおしゃべり」になってしまう可能性もあるのだ。

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