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2011年2月18日 (金)

『休戦』の明るさと重さ

 アウシュビッツ体験を持つ作者のユダヤ系イタリア人はシオニズムにも反対したのだ。

『休戦』」(プリーモ・レーヴィ著/竹山博英訳/岩波文庫/2010年9月16日刊)

 1943年12月にイタリアのパルチザンに参加していた主人公(わたし/プリーモ・レヴィ)はユダヤ人であることを認め、ナチス・ドイツに引き渡されアウシュビッツに送られ、1945年1月27日のお昼頃あらわれたロシア軍兵士によって「解放」され、ポーランド、ベラルーシ(白ロシア)、ルーマニア、ハンガリー、チェコスロバキア、オーストリア、ドイツ、オーストリアを巡る長い長い旅を終え、10月19日にトリノに帰ってきた。その前半は『アウシュビッツは終わらない』として書かれ、「解放」されてからトリノに帰りつくまでの部分がこの『休戦』という作品である。

 この小説はひとつの詩で始まり、その詩のなかに含まれる一つの言葉で終わる。つまり「フスターヴァチ」という言葉。ポーランド語で「起床」という意味。

『それは夢の中の夢という、二重の形をとっていた。細かい部分はそのつど違ったが、本質は同じだった。私は家族や友人と食卓についていたり、仕事をしていたり、緑の野原にあり。要するに穏やかで、くつろいだ雰囲気で、うわべは緊張や苦悩の影もない。だが私は深いところにかすかだが不安を感じている。迫りくる脅威をはっきりと感じ取っている。事実、夢が進んでいくと、少しずつか、急撃には、そのつど違うのだが、背景、周囲の状況、人物がみな消え失せ、溶解し、不安だけがより強く、明確になる。今ではすべてが混沌に向かっていて、私は濁った灰色の無の中にただ一人でいる。すると私はこれが何を意味するか分かる。いつも知っていたことが分かる。私はまたラーゲルにいて、ラーゲル以外は何ものも真実ではないのだ。それ以外のものは短い休暇、錯覚、夢でしかない。家庭も、花咲く自然も、家も。こうして夢全体が、平和の夢が終わってしまう。するとまだ冷たく続いている、それを包む別の夢の中で、よく知っている、ある声が響くのが聞こえる。尊大さなどない、短くて、静かなただ一つの言葉。それはアウシュビッツの朝を告げる命令の言葉、びくびくと待っていなければならない、外国の言葉だ。「フスターヴァチ」、さあ、起きるのだ。』

 アウシュビッツから解放されてもまだ、残るアウシュビッツの影。まさにトラウマとして残るアウシュビッツの影なのだ。

 しかし、作品はそんなアウシュビッツ体験の重さよりは、もっと明るく前向きに生きようとする人たちが数多く描かれている。ギリシア人のモルド・ナフムは雄弁な商売人だ。ローマ出身のチェーザレはペテン師だ。あらゆる人を単純な、友愛の情で愛していたヴィータ夫人。医師のレオナルド。ロシア人側にも看護婦のマリア・フョードロヴナや、事務員のガリーナがいる。

 ベラルーシのスターリエ・ダローギというところで約二か月の停滞をせまられた時にも、収容所(といっても食べ物以外は何の制限もない)から外に遊びに行ったり、収容所内で行われた演芸会や映画会の話など、それはそれで単なる無聊を慰める、お定まりの機会にすぎないことは分かっているのだが。

 更に、ロシア人のおおらかさや無秩序、気まぐれなどが、それによってアウシュビッツの経験から失われた人間性を取り戻す主人公の姿が見えてきて、まさにレーヴィにとってはロシア軍というのは「解放軍」なのだという感覚があるのだなということが分かる。ただし、ロシアの代わりにソヴィエトという言葉を使うときは、その官僚制に対する批判が込められているようだ。このロシア人のおおらかさとソヴィエトの官僚的態度という二面性が、その後の冷戦の始まりをどう理解すればいいのか、主人公にも分からない。

 しかし、そんな朗らかとも言っていい小説の最後が上記の言葉である。それだけアウシュビッツ体験というものは、主人公に重くのしかかっているのだろう。「あってはならない」などという通り一遍の言い方ではすまされない、人類全体の罪である。

 と同時に、そんなアウシュビッツ体験への償いのようなシオニズムへの援助は、逆にアウシュビッツ体験をパレスチナの人々に強いている。まことに、人間というものは「飽きない」生き物なのである。

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