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« 『進撃の巨人』はどこまで進撃するのか、というかどこまで進撃を抑えるのか | トップページ | 内田樹と上野千鶴子の違いってなんだろう »

2011年2月 1日 (火)

『ためらいの倫理学』でも取り敢えずは「戦争論」から

 内田樹の最初の著書が本書の親本である。『街場の大学論』のついでに『疲れすぎて眠れ二夜のために』を買ってしまったのだから、もう仕方がないね、ってところで読んだんだが・・・。さすがに最初の単著だじぇに内容は多岐にわたる。

『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』(内田樹著/角川文庫/2003年8月25日刊)

 つまり『なぜ私は戦争について語らないか』という「戦争論/戦後責任論」、『なぜ私は性について語らないか』という「フェミニズム/ジェンダー論」、そして『なぜ私は審問の語法で語らないか』『それではいかに物語るのか――ためらいの倫理学』という「他者/物語論」という三つの論理にこの本はわかれている。つまり、この三つの論理を一緒に論評出来るわけはないので、これはやはり論評も三つに分ける必要があろうということで、今日から三日は同じ本について語ります。

 ということで、今日はまず第一の課題。『戦争論/戦後責任論』であります。

 つまり、日本における「戦争論」あるいは「戦後責任論」がまるでなされていないというとろに内田氏はいらだちを覚える。

 それはそうである、日本は第二次世界大戦に負けたということで、それで戦争責任を果たしたと思ってる国家なのである。広島や長崎でアメリカの原爆攻撃を受けたじゃないか、それでアジアの国々に対する侵略的攻撃に対するオトシマエを受けたじゃないか、だから我々は戦争責任を果たしているんだというのが、ごく普通の発想である。そうでなくても、取り敢えずアジアに対しては借款やら国家支援でもってその独立やら自立やらを支援しているのである。あのGDPで日本を追い越した中国に対しても、日本はいまだに借款という援助をしているのである。これだけアジアの国々に一生懸命支援をしている日本が、なんで戦争責任を果たしていないなんてことを言われるんだろう、というのが普通の人の戦争責任論であろう。

 しかし、それは戦争責任ではなく、『「豊かな国から」「貧しい国」への資本(資産)の移動』というのにすぎない。少なくとも、そんな「貧しい国」の人たちはそんな風に考えているだろう。それも「資本の移動」である。ということは、我々はまたしても日本資本に収奪されるのだろうかという、疑心暗鬼にかかっても仕方がないということなのである。

 内田氏は文学的な方法で「敗戦後責任論」を言っているけれども、実はそんな文学的論議は別として、上記のような実質論としての「日本に対する戦争責任」論というものがあるのだ。

 第二次世界大戦が終わって65年が過ぎている。これを「もう65年」とするのか「まだ65年」とするのかはその人個人個人、その国民の思いだろうけれども、もうボチボチそんな「戦後論議」をやめましょうよという意見が出て来るのはわかる。しかし、65年なんてものは、国家の歴史から見てみればホンの一瞬かもしれない。少なくとも日本が2000年の歴史があるという人たちから見ればそんなもんであろう。

 だったら、その65年間の中で、そうたかだか65年の間に、日本人はアジアの人々に何をしてきたのか。1960年代のベトナムの人たちに何をしてきたのか、その後のフィリピンやタイ、ビルマの人たちに何をしてきたのか、考えればとんでもないことをしてきたのではないか。もっとも、それは自分たちが直接行ってきたことではないが、でも間接的には(あるいは会社的に直接的に)行ってきたのである。

 つまり、加藤典洋氏のような文学的敗戦後責任論の前に、戦後企業のアジア進出論議があって、そこでは「アジアの人々のため」という名の下に「アジア人収奪」が行われている現状がある。そっちの方が重要なんじゃないかと思うのだが、基本的には文学的な論議なのである。ことが文学的な論議である以上はいい。

 しかし、現に行われている「アジア人収奪」に対してどういう行動を起こすのか。それが文学者に問われているのじゃないだろうか。アルジェリア戦争の際にフランス文学者たちがおこした運動のようなものを、いま日本の文学者がアジアの同胞に対して起こすことは可能だ。まあ、しかし、そんなことは起きないだろうな。要は日本は今明確な「戦争」を行っているわけではないし、アジア人に対する収奪も巧妙な形で行われているわけなので、見えないわけなのだ。

 基本的に、資本主義の経営の在り方は「労働者の仕事の収奪」である以上、どこに行こうが、資本主義的な対外進出は「労働者の仕事の収奪」なのである。いまや社会主義はないということなので、対外進出は資本主義しかないじゃないか。

 ということは、敗戦後責任の取り方としては、日本が政体を変えて、天皇制廃止、共和制を実施し、最後には日本と言う政体を辞める、ということでしかないんじゃないか・・・と思えるんだが。

 それでも、我々は全然困らないよ。

 

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