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2011年2月 4日 (金)

『街場の現代思想』も面白いのは前半です

 けっこう言っていることは普通だったりして。

『街場の現代思想』(内田樹著/文春文庫/2008年4月10日刊)

 中身は大きく二つに分かれていて、第1章と第2章が「文化資本」というものについての論評。第3章が人生相談を装った「生き方論」のようなもの。で、この生き方論が割りと普通で、内田式トンデモ話にはなっていないということが、まあ人生論である以上当然だし、その一方内田式トンデモ論になっていないことに、少しガッカリ。

 コンテンツは『第1章 文化資本主義の時代 「越すに越されぬ、バカの壁」「文化資本とは何か」「一億総プチ文化資本主義戦略」「文化資本の逆説」』『第2章 勝った負けたと騒ぐじゃないよ 「『負け犬の遠吠え』のクールなあり方」「負け犬は二一世紀のランティエ」「女子大回帰を勝ち犬シフト」』が前半、『第3章 街場の常識「第1回 敬語について」「第2回 お金について」「第3回 給与について」「第4回 ワーク・モチベーションについて」「第5回 転職について」「第6回 社内改革について」「第7回 フリーターについて」「第8回 結婚という終わりなき不快について」「第9回 他者としての配偶者について」「第10回 離婚について」「第11回 離婚について(承前)」「第12回 贈与について」「第13回 大学について」「第14回 学歴について」「第15回 想像力と倫理について」 「あとがき、あるいは生きることの愉しさについて」』というもの。

 前半の「文化資本」についての記述は面白い。フランス社会というのは「階層社会」であって、つまりその「階層」というものは「生まれつき」であるということなのだ。つまり、本人が上層階級に生まれたのか、そうじゃないのかということ。あらかじめ上層階級に生まれた子供は、例えば子供のころから芸術作品が「身の回りにある」のが当たり前の世界で生きて、食べ物も高級食材で作られた高級な食べ物を「当たり前のもの」として食べて成長してきた。つまり『ワインの味について語るときにも、同じような差が出る。ある人は、どのワインについても、それを前に飲んだときの料理の味わいや、会食者の話題や、食器の触れあう音や、演奏されていた音楽や、着ていた服の肌触りの記憶をありありと思い出すことができる。ある人は「ワイン本」を読んで、「どこのシャトーの何年物は逸品」というような「知識」を網羅的に語ることができる。ここに露呈するのはワインとの「親しみ深さ」の違いである。(中略)「知識」を語る人間が「経験」を語る人間に対してつねにある種の「気後れ」を覚えることは事実である。そんなことを意図しないで、自然にふるまっている人間に「気圧される」こと、自分の感覚や判断に迷いを感じてしまうこと、自分がどこかで「いてはならない場所に踏み込んだ」ような異郷感を覚えてしまうこと、この微妙な「場違い」感のうちに文化資本の差異は棲まっている』ということなのだ。

 私が食味評論家の山本益博氏に感じていた違和感というのがそれである。つまり、いろいろな料理店でその店の味が良いとか悪いとか言っている山本氏が、じゃあそんなに人の作ったものを評論できるほどに子供の時からいいものばかりを食べていたのかと考えると、いくら北海道育ちだとはいえ「1948年生まれ」の山本氏が子供の時にそんないいものを食べていた筈はないのだ。子供の時にいいものを食べてこなかった人がなんで大人になってから、人の作ったものを評論できるのだろう。というのが私は疑問だった。人の「舌」ってそれだけ子供の時に出来上がるのだ。そんな意味で、もし1948年生まれの人で食味評論ができるのは皇族だけだろう、というのがその頃の私の考え方であった。

 それだけ、芸術とか、食事とかという感覚的な部分での感性ってものは、幼い時からの蓄積しかそれを育てるものはないということなのだが、それが最近日本でもそうした「階層」のようなものが出来つつあるというのが内田氏の観点なのである。

『東大生の一方には、幼少時から豊かな文化資本を享受してきた階層の子どもたちがいる。芸術作品についての鑑識眼が備わっているとか、ニューヨークとパリにセカンドハウスがあるとか、数カ国語が読めるとか、能楽を嗜んでいるとか、武道の免許皆伝であるとか、自家用ン外洋クルーザーがあるとか・・・・・・そういう豊かな文化資本を潤沢に享受してきた学生がいる一方に、ひたすら塾通いで受験勉強だけしてきて成績以外にはさしたる取り柄のない大多数の学生がいる』ということなのだ。つまり、日本にもそうした階層化社会が出来つつあるということ。「一億総中流化」ではないが、みんな例えば東大を出れば同じような機会が均等にあった社会から、あらかじめ、始めから「階層」として分かれてしまうような社会になって来ているのではないかという観察である。

 その意味で「負け犬」論はそれを後押しする論である。『「負け犬」は二一世紀のランティエ』という部分で、内田氏は『「負け犬」は二一世紀日本が生みだした新しい「ランティエ」(女性だから「ランティエール」だね)ではないだろうか』ということ。「ランティエ」(rentier)とは「(主に国債による)金利生活者」のこと。つまり『新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアーしなければならない。(中略)結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエたちだったのである』ということである。

 つまり、江戸時代までは士農工商という(実際はかなりユルい)身分制度によって「階層社会」が存在していた日本だが、明治になってそうした階層社会的なものは次第になくなっていき、第二次世界大戦の敗北によって皇族以外の階層がなくなってしまった日本という社会に、ふたたび階層社会が出来始めたということなのだろう。

「階級社会」という「ホット」でだれでも自由に階級間を行き来できる社会(だからこそ階級闘争なんでものも簡単に起きるわけだ)じゃなくて、その階層間の移動には数世代の関わりが必要になる「階層社会」というのは、いまや「成長しない」日本にとっては一番の方法論なのかもしれない。上には上の生活・文化があり、下には下の生活・文化がある。これは停滞する社会における、上および下のそれぞれの階層における自分たちの身を守るための方法論なのかもしれない。

 勿論、そんな社会でも「階級闘争」を行う人たちは出てくる。フランスの68年革命みたいにね。そこに期待しようかな。

 えっ、後半部分についても論評せよと? 後半は人生相談の形でやっている人生論なのです。で、人生相談というのは、内田氏自身も書いているけれども、要は相談者は実は殆ど自分でどうするか決めているのであって、そうじゃないまだ自分でどうしようとも決めていない人は相談してこないのだ。つまり、人生相談の当事者は相談者の方をポンと押せばいいのであります。相談者なりに「こうしたいんですけど」というのがあって、じゃあ「そうしなさい」と言ってしまえば人生相談はおしまい。この辺は内田樹だろうが加藤諦三だろうが同じ。ってことで、いいでしょ。

 さあ、暫くは内田樹とはお別れだ。本の大海はもっともっと広いぞ。

 

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