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2011年2月

2011年2月28日 (月)

森博詞氏にはご心配していただいていますが、所詮出版なんてものはバクチだってこと

「職業」という観点から見た「小説論」なのであるけれども、つまりそれは「小説」は「芸術」ではなくて、多くの人にエンターテインメントを届ける「娯楽設備」なのであるということである。

『小説家という職業』(森博詞著/集英社新書/2010年6月22日刊)

 したがって、予告していた時期に本が出ないということは許されることではなくて、作家は「締め切り」を守れ、編集者は締め切りを守れない作家に対しもっと厳しく当たれ、締め切りを守った作家に対しては報奨金を出し、締め切りを守れなかった作家からはペナルティをとれともの申す。たしかにそれはビジネス感覚からは当たり前のことである。予定していた時期に本が出なければ、それは出版社の経営計画(出版計画)に齟齬をきたすことになるわけで、それは経営上の大きな問題だ。ということで、それを守らせる要諦ということで、出版各社は「文芸誌」とか「コミック誌」というものを出す。

 文芸誌(とかコミック誌)を出すというのは、単なる経営的な判断ではなくて、というか経営的判断だったら赤字の文芸誌なんてものは出さない方がいいのだが、そこにはこうした作家と出版社の間の「締め切り」を巡る攻防戦があるのだ。つまり、編集者としては作家に対して「この日までに原稿を入れてくれなかったら雑誌が出せない。そんなことになったら、アンタ訴訟問題ですゼ」(まあ絶対にそんなことはしないけど)というプレッシャーを作家に与えるわけですね。単なるプレッシャー。それ以上の意味はない。つまりそんなプレッシャーを与えても作家の方はまんま慣れているし、編集者の方もいつも言っていることだけだし、ということで毎月(毎週)のよくある作家vs編集者の攻防戦にすぎない。なかには「私が原稿を落とす(締め切りに間に合わない)ことによって、新人が出てこれるかもしれないじゃないですか」なんて開き直った漫画家が実際にいたのであります。

 何故か、出版社の編集者が締め切りを守らない作家をしっかりフォローし続けるのは何故か。要は、出版業なんてものは所詮バクチにすぎないからなのだ。エンターテインメント産業というのは最終的にはバクチなんだけれども、でも、映画なんかは基本的に資本がかかる。当然、資本が多くかかっている業界はそれなりにマーケティングなんかをして、取り敢えずいまの観客は何を望んでいるのかを見たうえで、映画の方向やら、宣伝方向を「こうしたら」という風にもっていくのである。クルマとか家電とか金がかかっている産業はやはりマーケティングでもって「取り敢えず今のトレンドはこうでしょ」というものを見てから開発か、あるいは最後の味付けを変えるわけだ。

 小説はそうじゃない。取り敢えず作家が個人で書いたものは基本的に人件費ゼロであろう。まあ、中にはスタッフをおいて書く人もいるからそうじゃない人もいるのかもしれないけど。基本的にはゼロである。そんな基本的に資本ゼロの小説に「宣伝費」なんてものがあるのかということが問題である。当然、宣伝費はあるわけども、それはやはり資本の少なさが関係して当然少ないわけだ。映画の場合は「製作宣伝費」と「配給宣伝費」というものがあって、それぞれ使い道が違う宣伝費があるわけなのであるけれども、出版の場合は元々の資本が少ないので、それなりの宣伝費になってしまうのだ。新聞宣伝は新聞社との提携によって他の宣伝よりだいぶ安い宣伝費で広告を掲載してもらえる。ということで、そこがほとんどの宣伝費の使い道になってしまうのですね。あとは、その新聞宣伝にのせられた新聞関係者がその本を読んで、新聞やテレビで書いたり喋ったりしてもらう、いわゆる「パブリシティ」がたよりなのだ。

 で、そんなことをしても結局は小説が売れるか売れないかはまだ分からない。あとは結局「読者が判断する」ってことね。って、つまりそれはバクチってことじゃない。例えば、講談社から出版されている『進撃の巨人』なんてコミックは、映像化とかなんにもしていないのに、いまや講談社最大のヒット作なのだし、 『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』 はそれなりのプロモーションが効いた作品だとは思うが、同じプレジデント社のドラッカー著『マネージメント(抄訳)』が売れたのは、まさに「もしドラ」効果としか言えないバクチ性だろう。

 要は出版社に来る新人なんてのはこのバクチ性に乗って来るわけで、所詮、実業なんてものを目指しているわけではないのだ。所詮、「虚業」。出版に関してそんな感覚を持っているものだけが実はこの業界で生きていけるものなのだ。

 ということで、森博嗣氏はもうちょっと出版業界も「普通の業界」になれば、ということを言っているのだが、多分それは無理でしょうね。だって、この業界にいるのはヤクザ稼業のバカばっかりなのであるからね。

 まあ、そんなところ。

 出版業界なんてものは一流大学を優秀な成績で卒業した人達が来るところではないのです。

2011年2月27日 (日)

歴博に行ってきた

「歴博」なんて書くといかにもニックネーム風なんだけれども、実は「歴博」自身がそんな呼び方をしているんだな、というのが下の写真。

2011_02_26_070_2

 正しくは「国立歴史民俗博物館」という、いわゆる歴史学(文献史学)と考古学、民俗学の三つを関連させて日本史を研究しようというのが目的の博物館である。大学共同利用機関として全国の大学や研究者とともに研究を行い、同時に研究者を育てようというのも目的で、現在は総合研究大学院大学の日本歴史研究先行も開いている。

 ただし、問題は千葉県佐倉市という場所の問題で、日暮里から京成佐倉まで特急で約1時間かかるという距離が問題だ。私もその存在は知っていたしどんなものかを見に行こうと思いつつ、出来てから30年の間行かなかったというのも、やはり東京からの距離が問題だった。私の家から2時間はかかるわけで、それだったらもうちょっと時間をかけて、もっと田舎に行きたいと思うじゃないですか。そんな、中途半端な距離というのが佐倉市なんだなあ。

 ということで、今日初めて行ったわけなんだけれども、場所は佐倉市の旧佐倉城址、帝国陸軍佐倉連隊跡にあり、佐倉城址の一部を使って歴博があるわけだ。

しかし、普通の展示だと思っていたのだが、ジオラマ展示が実に多い。

2011_02_26_009_2

 第1展示室は石器時代から縄文、弥生時代、古墳時代から律令国家の時代まで、なんか一気呵成という感じで展示がされているのだが、やはり見ものは三内丸山遺跡のジオラマだろう。これを見ると三内丸山遺跡にやっぱり行きたくなるものだ。東北新幹線も新青森まで全通したことだし。

2011_02_26_056_2 京四条室町

2011_02_26_076_2

 次にすごいのは、やはり江戸のジオラマ。江戸橋から日本橋を望む一帯を作ったものであろう。まあ、江戸図はかなり細かいものまで残っているので、やれば作れるのだろうが、ここまで細かく再現して作りこんであるのは初めて見た。これだけ見るためにも歴博に行った価値があるってもんですね。

 で、あとの近現代なんかはどうでもいいのだが、一か所だけ見たのがこれ。

2011_02_26_089_2 ミッチェルNCマークⅡ

 1955年公開の成瀬巳喜男作品『浮雲』のセットとカメラ他機材一式である。いまや「なき」ミッチェルNCマークⅡ(多分)ですよ。すごいよねこのカメラ。ファインダーは単なる「勘」で映像を想像するためのものでしかなくて、フォーカスはメジャーで図ってそのまま移動。とにかくピントがあっているか、露出はどうだなんてのはラッシュを見るまで分からないというワイルドなカメラなのだ。ファインダーを覗いてみたけれども「ボウ」っとしか被写体は見えないし、まあ、そこはライトをいっぱい当てて何とかしたのだろうけれども、昔の映画屋さんの技術力というものに感心したのであります。

 って、それは「歴博」の本来の目的じゃないでしょ。

EPSON RD1s+Elmarit 28mm (c)tsunoken

2011年2月26日 (土)

ライカウィルスとその亜種の罹患者たち

 カメラヲタクのジジイどもが大集合している。松屋銀座で開催中の『第33会 世界の中古カメラ市』である。

2011_02_25_006_2

2011_02_25_008_2 EPSON RD1s Summicron 35mm (c)tsunoken

 ライカウィルスとその亜種に罹患した患者たちが一堂に会し、一生懸命自らのウィルスを慰め、あまり体内で暴れないように少しだけ小物を買ったり、出店しているカメラ店の社員とカメラ蘊蓄競技なんかをしてウィルスを多少は満足させるための大集会なのである。勿論、そこに店を広げている各診療所は普段は街のそこここで開業しているので、普段からそこに行けば癒されるのであるが、たまにはこうして一堂に会してさながら大病院のように展開することで、多くの人々に施しを与えるのである。夏に東急東横店で開催されるのと、この松屋銀座のと、年2回ある。

 しかしまあ、ここに出店しているカメラ店はこのイベント開催中も営業をしているわけで(あ、早田カメラはお休みしてます)、ここに出ているカメラの量とお店にも置いてあるカメラの量を足したら、相当の分量の「フィルムカメラ」の量なのである。フィルムカメラは35mm判に関してはコシナとフジフィルム、ニコンが生産しているだけなので、相当数のフィルムカメラはこうした中古なのである。ところが街を歩いていると、こうした中古カメラを持って歩いている人はあまり見ない。時たま銀座を歩いているとライカあたりを首から下げている人がいるだけだ。フィルムカメラを持つ「カメラ女子」も最近多いが、だいたい見るとニコンのNew FM2あたりを下げている。ということは、こうした中古カメラ市なんかでカメラを買うオジンたちは買った後写真を撮らないのかしら。

 昔から、写真を撮らないカメラヲタクというのはいたわけで、中には一度も元箱から取り出さないで大事に大事に保管だけしているという、カメラメーカーにしたら飛びつきたくなるような人がいたそうな。しかし、元箱から取り出さなくて、よくその元箱にカメラが入っていることを確認できるものだ。買って数十年して元箱を開けてみたら、中に入っていたのは石だったりして。それをしも「おお、カメラは生きものだ。もはや石化している」なんて喜んだりするのかなあ。

 ここに並んでいるカメラは皆金属の塊である。最近のプラスチック製のカメラと違って、こうした金属性の高いカメラは要するに「重い」。そんな重いカメラを下げて街を歩けますかいな、というのがジジイの言い訳だとすると、それはそれで情けない。重いカメラを下げて街をいっぱい歩けば、いい運動になるじゃないですか。

 街を歩いて運動をしましょう。撮影をしましょう。それが健康のタネです。

HPはコチラ→http://ics1972.jp/

2011年2月25日 (金)

要は「オタク」の力をどう使うかということなんだけど、潜在力はあるのか

 要はオタクおよびオタクカルチャーに関しての本なのだ。つまり、それまで「陰」の存在を強いられてきた「オタク」なるものが、ようやく表に出てきて、なおかつそれが今後の日本の文化を代表するようなものになってきている、と持ち上げられている現状についての本である。

 なんか、バカバカしいね。今さら。

『ゼロ年代の論点 ウェブ・郊外・カルチャー』(円堂都司昭著/ソフトバンク新書/2011年2月25日刊)

 オタクとかオカクカルカーということでいえば、1980年代の初めからOAV(オリジナル・アニメーション・ビデオ)やらTV版、劇場版のアニメーション作品を作ってきて、十数点の「○○付きチケット」を販売してきたりしてオタクを食い物にしてきたわたしにも、すこしは話をさせてもらおうかな。

 で、本書はゼロ年代の批評文を集めた本なのでどんな本を扱っているのかを取り敢えず紹介;

第1章 ゼロ年代批評のインパクト

 東浩紀『動物化するポストモダン』/宇野常寛『ゼロ年代の想像力』/濱野智史『アーキテクチャーの生態学』/佐々木敦『二ッポンの思想』

第2章 ネットの力は社会を揺さぶる

 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』/梅田望夫『ウェブ進化論』/鈴木謙介『ウェブ社会の思想』/荻上チキ『ウェブ炎上』

第3章 言葉の居場所は紙か、電子か

 津田大介『Twitter社会論』/前田塁『紙の本が亡びるとき?』/佐々木俊尚『電子書籍の衝撃』

第4章 データベースで踊る表現の世界

 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』/前島賢『セカイ系とは何か』/福嶋亮大『神話が考える』

第5章 変容するニッポンの風景

 森川嘉一郎『趣都の誕生』/三浦展『ファスト風土化する日本』/速水健朗『ケータイ小説的。』

終章 2010年代にむけて

 ということである。 

 つまり、1900年代には「陰花植物」としてしか思われていなかった「オタク」および「オタクカルチャー」が、2000年代になって、日本のの閉塞状態の中でなんか突然日本のこれからを担うカルチャーとして期待されてしまったという皮肉な状況変化なのだ。そんなに「オタク」に期待ばっかりすんなよ、ということであるが。

 確かに、地方都市郊外にヤマダ電器とか家電店がいっぱい出来て秋葉原の優位性はなくなったのは事実であるし、その結果、秋葉原が「アキバ」になっていまや「AKB」なのであるから、いまやどういうこともない。

 しかし、このオタクおよびオタクカルチャーなんてものが日本のこれからの中心的な文化になるのであろうか。確かに現在は「オタク=クール」ということになっているが、そのオタク連中が世界性をもっていないことが気になるのである。一部のオタク連中でSFマニアとかアニメマニアの中には英語でコミュニケーションすることをさほど気にしていない人たちがいる。そいつらは平気でとんでもないブロークンイングリシュを話しても、「いやあこれで案外通じるんですよ」なんて言ってる。それは知っている。SFワールドコンベンションを日本で開催した人たちだ。

 しかし、その他の、それもアニメ系のオタクたちはどうなんだ。アニメワールドコンベンションをこの日本で(アニメの聖地日本で)やろうという人はいないのか? 多分、それに協力する親父たちはいっぱいいると思う。要は、オタクたちに儲けさせてもらった大人たちだ。そいつらをスポンサーおよびパートナーにして、そんなイベントは出来そうだ。でも、そんな話はない。何故だ?

 要は、この国のオタクたちはそんな力もないし、ヤル気もないし、ただ単に自分が「萌え」たいだけなのか。とすると、それは企業の思惑通りの展開のなかに収まってしまうだけなのだ。だとしたら、もうそんな会社の思惑だけに入ってしまうだけの活動はやめようよ。もっと、自分たちで運動を起こそうよ。オタクの力を(アメリカみたいに)ちゃんと見せるようなイベントを起こそうよ。

 テーマはそれだけ。自分たちでムーブメントまではいかなくても、とりあえずイベントだけでも、それも国際イベントだけでも起こそうよ。

 単に、それだけ。その協力はいくらでもします。

 

2011年2月24日 (木)

「ソーシャルネイティブ」ったって、問題はそいつらの世界性なのだ

 デジタルネイティブの次はソーシャルネイティブか。しかし、問題はそんなところにあるのではないのだがなあ。

『ソーシャルネイティブの時代 ネットが生み出した新しい日本人』(遠藤諭著/アスキー新書/2011年2月10日刊)

 たしかに、生まれた時からパソコン、ケータイがあったデジタルネイティブから、今や生まれた時からブログ、2チャンネル、ミクシィ、モバゲー、ニコニコ動画、YOU TUBE、U STREAM、ツイッター、フェイスブック、グーグル、そしてそれらを閲覧、検索するためのスマートフォンがある世代はまさにソーシャルネイティブであるのはその通りである。

 著者の遠藤諭氏はアスキー総合研究所の所長であるから、そうした新しいメディアを擁護し、そうした新しいメディアを使いこなす人たち(若者だけではない)を擁護するのは無理もなことだろう。ただし、そうした新しいメディアを使いこなす日本の人たちが、どんなコンテンツと向き合っているのかが重要なのだ。

 本来はインターネットというのは国境を軽々と越えることが出来るメディアなのである。国境を越えて世界中の人たちと「繋がる」ことができる。例えば、日本の若者がアメリカのオバマ大統領と直接話をすることができる(といっても、多分向こう側にいるのはオバマ大統領自身ではなくて大統領の側近だろうけど)。そんな夢のようなメディアがネットなのである。

 ところが今の日本の若者が繋がっている先は、その大半が日本の若者でしかないんじゃないか? 

 例えば、サウジアラビアの政変に際して、サウジの若者とコンタクトをとった日本の若者はどの位いたのだろうか? まあ、たしかにアラビア語を使える日本人は少ないだろうから、多少はしょうがないにしても、英語を使えるサウジアラビアの若者は多いわけで、2月19日のエントリーで書いた通り、グローバルイングリッシュでいいからサウジアラビアの若者とコンタクトをとることは可能なのだ。両方ともネイティブではないのだから、ことは簡単だ。お互いブロークンイングリッシュで結構は話せると思うのだがな。まあ、たまたま私の周辺でサウジアラビアの若者と連絡をとった日本の若者がいなかったからなのだが、しかし、多分少なかったんだろうな。

 勿論、日本人同士のコミュニケーションがいけないというのではない。ただ、それだけではネットの特性を生かしてないでしょ、ということなのだ。ネットの特性あるいは優位性とは、かつて吉本隆明が『ハイイメージ論Ⅰ』で言った「世界視線」を獲得できるということなのだ。グーグル・アースで衛星上からでも見たような世界が見える。そうすると、意外と日本と世界は繋がっているのだということがよくわかる。たしかに、その間には海があるが、そんなに海って広くはない、それこそ東京の対岸はメキシコだという感覚、北海道の対岸はハバロフスクだしロサンゼルスだという感覚。そんな感覚にとらわれないだろうか。要は、総体としては、地球って意外と小さいんだな、という感覚。まあ、この小さい地球に60億人の人が住んでいるんだな、という感覚。そこから、エコを考えなきゃいけないんだ、という感覚。

 要は「世界視線」を獲得するというのはそんな感じ。そういう中にいることが認識できれば、世界中の若者と繋がろうという気分にならないほうがおかしい。地球上の60億人のうち20億人は英語を使える人たちなのだ。それも若者のほうが英語を話せる人たちが多いことを考えるならば、60分の20(33%)じゃなくて、その確率は倍以上になるのだ。つまり、世界中で英語を使える若者の割合はほぼ7割である。

 だったら、もう英語でコミュニケーションしましょう。え? 外国人の友達がいないって? そんなのは大丈夫、そのためにTwitterがあるんでしょ。ツイッターに英語でつぶやいてみましょうよ。フェイスブックでもいいです。とにかく英語でそうしたSNSに書きこんでみましょう。しっかり反応があります。その反応に応えてあげれば、相手は喜んで自分の友達を紹介するかもしれない。そうやって友達の輪を広げていけばいいのです。

 それが本来の楽しいネットの使い方ではないのだろうか。「国境を楽々越える」というネット本来の楽しい使い方を書かないで「ソーシャルネイティブ」なんて言葉を勝手に作るんじゃないよ。あるいは遠藤氏は、ケータイみたいに日本の若者をガラパゴス化させたいのだろうか。だったらその意図は奈辺にあるのだろか?

 そうすることによってアスキーは何か有利な立場になれる部分と言うのがあるというのだろうか。まあ、だったらまあ仕方ないけど、でないのであったら、やはり日本のネットを利用する若者たちの「内向き指向」と、海外に目を向けないがための「国粋主義」をきちんと批判すべきである。

 インターネットというのは基本的に「国際主義」(というかもっとすごい「世界主義」かもしれない)の大きなメディアなのだし、であるからこそ我々(要は親父世代)はそこに大きな可能性を夢見たのだし、そんな大きな可能性を持ったメディアを、矮小な日本主義の中だけに終わらせてなならない。

 世界は大きい。しかし、その大きさは確実に狭まっている。つまりその理由がインターネットなのである。その時に、日本の若者が確実に世界に出ていけるようにするのが、われわれ親父世代の仕事なのである。

 遠藤氏もそういう世代だということを自覚してほしい。

2011年2月23日 (水)

こんな講座のある今の大学生がうらやましい

 いやあ大学の先生っていいな、というのが最初の感想。だって、この本の半分は学生が書いた文章(黒田先生の言い方では「日常文」)なのだ。

『大学生からの文章表現 無難で退屈な日本語から卒業する』(黒田龍之助著/ちくま新書/2011年2月10日刊)

 でも、本書による印税を受け取るのは黒田先生だけなのだ(多分)。でも学生に優しい黒田先生だもの、多分採用して本書に使った学生の論文相当の御馳走はしているんだろうな。という、勝手な憶測だけでもってこの論を始める。

 しかし、今の学生は羨ましいな。こんな楽しい講座があるんだものな。

 で、目次は以下の通り;

第1章 目標 どんな文章を書いたらいいのか

第2章 準備 もう小学生はないんだ!

第3章 形式 ワンパターンからの脱出

第4章 技術 ただ書けばいいってモンではない

第5章 内容 思ったことを素直に書かない

第6章 発展 チャーミングな文を目指して

第7章 特別編 最終課題に挑戦!

 黒田氏がこんな講座を始めたのは『退屈な文章を読まされることほどの苦痛はない。/だがわたしは、この苦痛に日々悩まされている」というところからの発想なのである。何故か、それはつまり小学生の時に出会った「作文」というやつと、中高でよく書かされた「小論文」というやつが問題なのである。『小学生は、先生から誉めてもらうことを目指して、作文を書く。/要するに「優等生」なのである。/優等生の文章は、正しくて真面目でさえあれば、それでいい。内容が立派なら、楽しくなくても許される。表現が稚拙で読み難くても、むしろ素朴だということでかえって歓迎される。/ということで、優等生は退屈極まりない文章を書く。読みやすさとか、楽しさとか、そういうメンドウなことはいっさい考えない。下手な挑戦をするよりも、真面目に書いておいたほうが無難なのだ』という態度が大学生になっても続いているということなのだ。

 ということで、「楽しい文章」を書きましょうというゼミが始まった。ということで、楽しい文章とはなんなのか、ということが学生が書いたエッセイを実例として語られるのである。

 ということで、ようするに学生が書いたエッセイを集めた本なのだが、そのエッセイが、読み進むとだんだんと「面白い文章」になってくるという実例面白エッセイの書き方、とでもいう本である。とにかく、「面白い文章」を書くというこの黒田ゼミの方向はいい。

 そして黒田氏の最後の結論は『日本語母語話者の大学生や社会人が、日本語を学びたければ、書くことを目指すのがいい。漢字の読み方とか、熟語の意味とか、そういうクイズ番組のような断片的知識をいくら蓄積したところで、日本語を知ったことにはならない』というものだが、これにはまったく賛成だ。

 それはこのブログでもそうであるし、要は、どれだけ沢山の人に読んでもらえるかなというのが、基本的にブログの立場である。その為には当然、自分のブログをどうやってプロモーションするかという問題もあるのだろうが、それ以上にどうやって自分のブログを人が読んで面白いものにするか、という大事なことがある。

 つまり、自分のブログをちゃんと毎日書き改め、毎日書いていくことでしかないんじゃないでしょうか。という単純な結論に行くのであります。そう毎日ね。

 まあ、そんなもんでしょう。

2011年2月22日 (火)

日本アカデミー賞は何故子役に賞を与えるのか、ということ。儲かりゃいいのか?

 日本アカデミー賞ってやっぱりひどいね。

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 日本アカデミー賞が、単なる日本テレビによる「アカデミーショー」であることは前々から知っていたのだから、例えば『キネ旬グランプリ』ほどの価値観は始めからもって見ていない。とはいうものの、今年ほどひどいアカデミー選択はないんじゃないか。

 まあ、作品賞とか主演女優賞、主演男優賞なんてのはどうでもいい。というか、まあそれぞれそれなりの人が選ばれたんだからいいんじゃないの。寺島しのぶが本来は主演女優賞なんだろうけど(ベルリンに対するオマージュもあるしね)、それが深津絵里であってもいい。それが日本アカデミー会員の総意なのだからね。

 問題は新人賞なのだ。仲里依沙はいい。あれだけ存在感を出した女優はいないだろうし、演技力も何の問題もない。それこそ、最初から助演女優賞あたりをとれてもおかしくはない女優である。日本映画もいい女優を見つけたもんだ。ただし、問題はもう二人の新人賞だ。芦田愛菜、大野百花って、両方とも「子役」でしょ。

 映画で出しちゃいけない「お約束」ってのがあって、それが「子ども」と「動物」なんである。子どもと動物が出てきたら、それでストーリーは全部そっちにもっていかれてしまって、監督の言いたいことは、結局「子役と動物の『可愛いねえ』」で終わってしまうのだ。

 芦田愛菜と大野百花もまったく同じである。おばさんたちは「愛菜ちゃん可愛いわねえ」ですんじゃうのである。演技力とか、当然そんなことを要求される年齢でもないし、それこそ存在感だけの勝負である。その意味では芦田愛菜は存在感のある「女優」ではあるのかもしれない。しかし、まだ「女優」ではない。単なる「子役」である。

 ということは、芦田愛菜が今後10年位過ぎて本当の「女優」になった時に、とてもすごい芝居をして存在感を示した時に、日本アカデミー協会は彼女に「新人賞」を与えることは出来ないのだ。そう、過去に与えたからね。ということは、芦田愛菜は狙うのは主演女優賞か助演女優賞しかないってことなのだ。

 これは、可哀相じゃないの? いくらなんでも。

 まあ、ここはいくつでも特別賞をだしちゃう日本アカデミーだから、そこでは何か理由をつけて特別賞を出しちゃえばよかったのにね。でも、もうだめ。賞をだしちゃったんだから。

 彼女はいくら頑張っても「新人賞」はとれないのだ。どうすんのよ。

 まあ、そのくらいの平衡感覚を持ちましょうよ、日本テレビのみなさん。

2011年2月21日 (月)

結局は「憎しみの連鎖」なのだが、それがいつまで続くのかということ

 結局は憎しみの連鎖でしかない。

『ウォール・ストリート 金は決して眠らない』(監督:オリバー・ストーン/脚本:アラン・ローブ、スティーブン・シフ/製作:エドワード・プレスマン、エリック・コペロフ)

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(c)2010 Twentieth Century Fox.

 結局、前作「ウォール街」で悪役を演じたゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)は、やっぱり悪役のままだし、本作で最後は連邦裁判所によって起訴されそうなブレトン・ジェームズ(ジョシュ・ブローリン)は多分(誰かオリバー・ストーンじゃない誰かによって作られる)次作では復讐の鬼になって、自分を陥れて、多分そのころにはウォール街の大物になっているであろうジェイコブ・ムーア(ジャイア・ラブーフ)を追い詰めるのだ。そして、その復讐を・・・、という具合に。つまり、そこには相手を陥れない限り自らの勝利はないというマネーゲームがあるだけなのだ。ウォール街というのはそういう町なのだ。

 よく考えてみれば、マネーゲームで誰かが得をすれば、当然、その反対側には損をする人間がいるのだ。良く言う「Win Winの関係」なんてのはあり得ない。もしあっても、それはごく狭い自分たちだけの関係論なのであって、その外側には誰から損をしている。それが、流通量が決まっている貨幣の世界のおこなわれ方でしかないだろう。誰かのところに「富」が集中すれば、誰かのところから「富」は流失してしまい、「貧」になるということだ。その繰り返しをやっているだけというのが、ウォール街という資本主義社会なのである。

 しかしこのゲッコーって親はまったくとんでもない親だなあ。娘(ウィニー/キャリー・マリガン)のために娘名義でスイス銀行に預けていた1億ドルを、娘の婚約者であるジェイコブを通してかどわかして引き出させて、引き出したとたんマネーロンダリングが必要と言う理由でいったん自分に引き渡させて、それが引き渡されるとすぐにロンドンの株式市場で投資に回してしまうという悪辣ぶりである。そんな悪漢ばっかりの世界に生きているジェイコブはそれを批判することはできない。

 そんなこんなでジェイコブとウィニーは別れてしまうのである。そりゃそうだよな、親父の策略にのって1億ドルを簡単に乗っ取られてしまうような男とは別れたくなるのはよくわかる。それも悪人ゲッコーの娘だからな。

 しかし、そのゲッコーが最後に自分が奪った1億ドルをジェイコブのいうエコ・エネルギーに投資しておしまい、ジェイコブとウィニーの仲も再び戻っておしまい、ってそりゃないだろう。最後に善人になろうったって、その前に1億ドル(確かにそれはゴードン・ゲッコーが稼いだ金だが)を横領しといて、それが11億ドルになったから「たかだか1億ドル」を娘の婚約者に投資しただけだろう。そんなのは盗人が、盗んだ金を投資したらそれが大きな利益を出したので、盗んだ分を元の持ち主に返しただけじゃないか。

 しかし、それがウォール街、投資の世界の常識なのかもしれない。そうして、それはやはり「得した者」と「損した者」の闘いの世界なのだろう。これを「憎しみの連鎖」と言ってしまっては、問題を矮小化するだろうか。もうちょっと皆前向きの「闘争の世界」なのだといえばいいのだろうか。

 いいや、やはりそれは「憎しみの連鎖」なのである。何が、モチベーションになるのかと言えば、一番は「憎しみ」であるし、過去、誰かに傷つけられた思い出なのである。

 これが国と国の(あるいは国と解放戦線とかの)戦いであれば、戦争が終わってしまってみれば、誰が誰を憎むということはない。俺の親父を殺したジェームズやマイクを殺すというような復讐の連鎖は生まれないのだが、こういう誰が誰をツブしたのかが良くわかる闘いの場合は、完全に憎しみの連鎖の世界なのだ。

 面白いなあ。こうしてウォール街では憎しみの連鎖が次々に巻き起こって、ウォール街資本主義の世界が動いて行くなんて、なんて素敵な世界でしょう。とはいうものの、こうした世界には終わりはないのでしょう。とにかく、アメリカの大学は次々にこうした世界に入り込む人士を送り出し続けているのだ。第二、第三のゴードン・ゲッコーやらブレトン・ジェームズやら、ジェコブ・ムーアをである。

 で、ハリウッドは20年から30年に一度は、こうしたウォール街のバブル崩壊から起きる悲劇を、「喜劇にも・悲劇にも」どんな劇にも作って金を稼げるのである。つまり、ハリウッドを作ったユダヤ人たちも、結局東海岸のユダヤ人の浮沈をネタにして稼いでいる、という面白い構図なのである。

 最後にひとつ。実はゴードン・ゲッコーが投資から遠ざかった時期に書いた本のキャンペーンでサイン会をやっていた本屋さんがボーダーズだったということ。実はボーダーズというのはバーンズ&ノーブルに次いでアメリカ第二の書店チェーンなのだが、つい最近の2月12日に連邦破産法第11条を申請して倒産した書店なのだ。まあ、11条というのは見本で言う民事再生法とか会社再生法のようなものなので、ボーダーズがなくなっちゃうわけではないけれども、相当数の支店はなくなるだろうし、当然、経営者は「斬首」である。

 いやあ、おもしろいなあ。

で、映画の公式サイトはコチラ↓

http://movies.foxjapan.com/wallstreet/

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2011年2月20日 (日)

ようは哲学には女はいらないってことでしょう

 問題は、女子大で哲学を教える意味ってことなんだよな。

『あたらしい哲学入門 なぜ人間は八本足か?』(土屋賢二著/文藝春秋/2011年2月10日刊)

 なぜ人間は八本足じゃないか、といったって八本も足がないからというしかない。しかし、こうした普通の人間の感覚では答えられないテーマを考えるのが哲学だと言ってしまえば、それはそうである。とはいうものの、そうした普通の感覚で答えられないテーマでも、発して意味のあるテーマと、まったく意味のないテーマもある。つまり「なぜ人間は八本足じゃないのか」というのはまさにここの問題において意味のないテーマなのである。つまり「バーカ」と言ってしまえばいいという問題。

 例えば、子どもが「空は何故青いの?」と聞いた時の反応。そこで土屋氏はある詩とその変化したものを示す。

 『なぜ星が輝くかを教えておくれ

 なぜツタがからまるのか教えてくれ

 なぜ空が青いのかを教えておくれ

 そうすれば、なぜわたしがあなたを愛するのか教えよう

 この詩は二番になると、これらすべては神の御業だと歌うものだったらしいんですけど、MITの学生が次のように書き換えたんです。

 星が輝くのは核融合のため

 ツタがからまるのは屈性(tropism 植物が曲がって成長する性質)のため

 空が青いのは光散乱法則のため

 あなたを愛するのは睾丸ホルモンのため』

 要は、こういうのを「身も蓋もない」というんですね。前者の詩に関しても前三行と最後の一行との関連はない。当然、後者のものは「詩」とは言えないものなのだ。無意味。

 で、哲学とは何かと言えば、ひとつには自然科学では証明できない事柄について、多分それはこういうことじゃないかなという人間の勝手な解釈を施すというのがその役割じゃないかなと、思うのだ。

 たとえば、「天動説」と「地動説」というのがあって、今は「地動説」の方が優勢ではあるが、「天動説」を信じている人も多いのだ。そこで、「地動説」の人たちはいろいろな天体の動きやなんかを使って「だから地球が動いているんですよ」的なことを言うけれども、「天動説」を信じる人は、「まあ、そんな動きもあるよね。でも、そんな動きが天動説なんじゃない」という具合に動じないのであります。

 つまり、哲学ってそんなもの。日々の生活とは一番関係ないものなのだ。そこで、お茶の水女子大学という大学で教鞭をとっていた土屋氏の苦悩(?)が始まるのである。それは、多分神戸女子学院大学というやはり女子大で哲学を教えていた内田樹氏と同じ苦悩(?)であろう。

 要は、「女と哲学」は基本的に相いれないものなのだろう。実際に、「子どもを産む性」である女性にとって、そんななんだかったとかいいうことよりも、まず子どもができるかどうかの方が大事であって、それについてどうのこうの言っても、実際の子作りには何の意味もないというところなのだろう。

 女には「哲学」はできない、とはっきり言ってしまえばいいのだ。土屋さんも内田さんも。女はジェンダー論のような実学しかないんじゃないかと、私なんかは考えているのだ。つまり、女にとっての「哲学」がジェンダー論なのではないか。ねえ、上野さん? いわゆる「哲学」は男だけが持ってようね、という不遜な発想(というか愚痴だなこれは)がこれらの土屋氏とか内田氏の本からは感じられるのだ。

 まあ、「哲学」についてはそんなもんだよね。あんまり「女性」には入ってくれないでほしいというのが本音でしょう。

 

 

2011年2月19日 (土)

『英語が社内公用語になっても怖くない』というのは、言わば当たり前の発言なのだ

 どこの国の英語も英語なのであります。つまり、世界中には何十種類という英語の形があるということ。それを考えれば「社内英語公用語」? そんなものは怖くない、怖くない。

『英語が社内公用語になっても怖くない グローバルイングリッシュ宣言!』(船川淳志著/講談社+α新書/2011年2月20日刊)

 基本的には船川氏の言っていることにはまったく賛成だ。特に日本の受験英語、と一語一訳の丸暗記英語が日本の英語をダメにしている、というのはその通りだ。中学から高校、大学と10年間も英語を習っていながら、もっと低学歴のアジア人に「アメリカにおける」英語力で負けているというのは、ちょっと情けない。

 つまり、この本の言うように『我々こそネイティブスピーカー』なのである。ネイティブイングリッシュスピーカーというつまりイギリス人、アメリカ人、オーストラリア人、ニュージーランド人プラスαは4億人、一方、グローバルイングリッシュスピーカーは20億人か多分それ以上いるという状況なのだ。で、グルーバルイングリッシュと何なのか、と言えば、各国の人々が勝手に喋っているブロークンイングリッシュのことなのだ。

 私の英語学校は赤坂の外国人出張者がよくくるバーでの酔っ払い英語なのだ、ということを以前書いたが、次に私の英語学校になったのは、1990年頃、ロサンゼルスに日本のアニメを海外に売り込むために、その英語版の吹き替えに行った時だった。当初、「ああ、これなら1週間で大丈夫」という音響監督の言葉を信じた私たち日本人スタッフは、録音2日目位から「こりゃダメだ」という思いになり、4日目には「この調子じゃ、2週間でも出来ないだろう」という確信にいたった。とは言うものの、皆日本での仕事が待っている、ということで私がそのまま居残り録音に最後まで付き合うことになったのだ。結局、録音が終わって、その後の処理まで入れると結局おおよそ1カ月間のアメリカ滞在になったのだ。そのうち、最初の1週間を除く約3週間は、まったく日本人のいないアメリカだったのだ。

 勿論、仕事ばっかりしているわけじゃなくて、アメリカ一人旅の無聊を慰めるためにいろいろなイベント(といっても仲間内の行事だが)などに誘ってくれるのだが、当然そこは「アメリカ人(それも白人)」しかいない世界だ。ロスにもリトルトーキョーなんてのもあるし、日本語を聴きたければ、読みたければ、そこに行けばいいのだろうが、短期滞在者としてはあまりそういうところには行きたくない。ということで、ほとんど英語漬けの約1カ月だったのだが、3週間目位からは「英語を日本語に訳さなくても大体理解できる」状況になった。当然、この「英語の下手な日本人のために」皆分かりやすい言い方をしてくれていたのだろうが・・・。最後の方では、音響監督のアシスタント・ディレクターと冗談を言えるような関係になった。

 勿論、その時は結局約1カ月間ホテル暮らしをしたわけなのだが、ホテルのバーのタイ人のバーテンダーとは仲良くなり、彼の「超」ブロークンイングリッシュに「ああ、これでもいいんだ」と安心したり、街で買い物もしたり、レンタカーのガソリンも入れたりという、普通の生活もしなければならないわけで、それはそれなりに楽しめた。

 まあ、当時は日本もまだバブルで、そんな無駄な金を使った出張も許されたということでしょうが。まあ、帰ってきてからの出張精算には苦労しましたがね。

 で、結論。この本の第5章から抜粋。

『第5章 レベルゼロ:「英語嫌い」から脱却せよ

レベルゼロ:英語は苦手、英語嫌い、英語を使うことはできれば避けたい/TOEICスコアの目安 600点未満

レベル1:TOEIC等の得点はある程度とれる。しかし、使えない。原稿なしでは話せない。会話は苦痛。/TOEICスコアの目安 700~900点台前半

レベル2:通常の会話はできる。しかし、戦えない=込み入った交渉やプロジェクトリーダーはできない。/TOEICスコアの目安 700~990点

レベル3:タフな状況での交渉、プレゼンテーション、ファシリテーションができる。1対複数の環境でも困らない/TOEICスコアの目安 800~990点』

 という分類からすれば、多分私はレベルゼロではないけれどもレベル1のようなTOEICテストも受けてないし、その意味では「レベル0.5」くらいではなかろうか。ホテルのタイ人のバーテンダーなんて「レベル0.1」位なのだ。でも、それでもアメリカに来てしまう。まあ、夢をみているんですねえ。

 そう、夢をみること。これが外国語学習の一番の決め手ではないのだろうか。アメリカに行けば、イギリスに行けば、フランスに行けば、ドイツに行けば、イタリアに行けば、スペインに行けば「何とかなる」という蛮勇が必要だ。で、取り敢えず行っちゃう。で、行けば「何とかなる」のであります。

 ということで、本書の言っていることは、私にはすべて腑に落ちるのだ、いわく『習うより慣れろ、マネをせよ!』『インプットせよ、訳さないで読む』『「つながる」を体感せよ! 一語一訳と単語の丸暗記はもうしない』『英和辞典よりも類語辞典(thesaurus)と英英辞典を使え』『「たかが英語」:「これで通じるんだ!」で自分を鼓舞せよ』ということである。

 最後に、第6章の始めのところがいいね。

『第6章 レベル1:「TOEIC700点、でも使えない」を越えて』

『まずは「牛丼英語」から始める』で「牛丼英語』って何かと言えば『早い(単語が短いので素早く言える)、うまい(実践的なので切れ味がいい)、安い(英会話学校に通わなくても、あるいは高い教材を買わなくてもいい)』

 要は、取り敢えず、下手でもいい「だってネイティブイングリッシュスピーカーじゃないいだか当たり前でしょ」という開き直りでもって、勝手な「アメリカ語(だと本人が考えている言葉)」を取り敢えず喋ってみる。ところが、これが意外と通じるのである。相手がネイティブスピーカーじゃなければこれで十分。ネイティブスピーカー(リスナー)であっても「所詮、こいつらいい加減な英語しか喋れないんだから」と構えているから大丈夫。

 まあ、英語なんてそんなもんですよ。社内公用語になった、それはつまり会社のオーナーがアメリカ人かその他の外国人になったということですよね、その場合はいちいち言わなくてもいやでも社内公用語は英語になるだろう。日本人経営者がオーナー兼用している楽天やユニクロが言うから大きく取り上げられるんであって、今や社内公用語が英語である会社なんていっぱいあるのだ。

 つまり、英語なんてのは「記号」にすぎないのだから、その「社内」「業界」で通じる「記号」を使っていれば、実は英語コミュニケーションなんてのは、割と楽に出来るのであります。

 皆、気にしないで「ジャパニースイングリッシュ」を平気で喋りましょうよ。それで十分。

2011年2月18日 (金)

『休戦』の明るさと重さ

 アウシュビッツ体験を持つ作者のユダヤ系イタリア人はシオニズムにも反対したのだ。

『休戦』」(プリーモ・レーヴィ著/竹山博英訳/岩波文庫/2010年9月16日刊)

 1943年12月にイタリアのパルチザンに参加していた主人公(わたし/プリーモ・レヴィ)はユダヤ人であることを認め、ナチス・ドイツに引き渡されアウシュビッツに送られ、1945年1月27日のお昼頃あらわれたロシア軍兵士によって「解放」され、ポーランド、ベラルーシ(白ロシア)、ルーマニア、ハンガリー、チェコスロバキア、オーストリア、ドイツ、オーストリアを巡る長い長い旅を終え、10月19日にトリノに帰ってきた。その前半は『アウシュビッツは終わらない』として書かれ、「解放」されてからトリノに帰りつくまでの部分がこの『休戦』という作品である。

 この小説はひとつの詩で始まり、その詩のなかに含まれる一つの言葉で終わる。つまり「フスターヴァチ」という言葉。ポーランド語で「起床」という意味。

『それは夢の中の夢という、二重の形をとっていた。細かい部分はそのつど違ったが、本質は同じだった。私は家族や友人と食卓についていたり、仕事をしていたり、緑の野原にあり。要するに穏やかで、くつろいだ雰囲気で、うわべは緊張や苦悩の影もない。だが私は深いところにかすかだが不安を感じている。迫りくる脅威をはっきりと感じ取っている。事実、夢が進んでいくと、少しずつか、急撃には、そのつど違うのだが、背景、周囲の状況、人物がみな消え失せ、溶解し、不安だけがより強く、明確になる。今ではすべてが混沌に向かっていて、私は濁った灰色の無の中にただ一人でいる。すると私はこれが何を意味するか分かる。いつも知っていたことが分かる。私はまたラーゲルにいて、ラーゲル以外は何ものも真実ではないのだ。それ以外のものは短い休暇、錯覚、夢でしかない。家庭も、花咲く自然も、家も。こうして夢全体が、平和の夢が終わってしまう。するとまだ冷たく続いている、それを包む別の夢の中で、よく知っている、ある声が響くのが聞こえる。尊大さなどない、短くて、静かなただ一つの言葉。それはアウシュビッツの朝を告げる命令の言葉、びくびくと待っていなければならない、外国の言葉だ。「フスターヴァチ」、さあ、起きるのだ。』

 アウシュビッツから解放されてもまだ、残るアウシュビッツの影。まさにトラウマとして残るアウシュビッツの影なのだ。

 しかし、作品はそんなアウシュビッツ体験の重さよりは、もっと明るく前向きに生きようとする人たちが数多く描かれている。ギリシア人のモルド・ナフムは雄弁な商売人だ。ローマ出身のチェーザレはペテン師だ。あらゆる人を単純な、友愛の情で愛していたヴィータ夫人。医師のレオナルド。ロシア人側にも看護婦のマリア・フョードロヴナや、事務員のガリーナがいる。

 ベラルーシのスターリエ・ダローギというところで約二か月の停滞をせまられた時にも、収容所(といっても食べ物以外は何の制限もない)から外に遊びに行ったり、収容所内で行われた演芸会や映画会の話など、それはそれで単なる無聊を慰める、お定まりの機会にすぎないことは分かっているのだが。

 更に、ロシア人のおおらかさや無秩序、気まぐれなどが、それによってアウシュビッツの経験から失われた人間性を取り戻す主人公の姿が見えてきて、まさにレーヴィにとってはロシア軍というのは「解放軍」なのだという感覚があるのだなということが分かる。ただし、ロシアの代わりにソヴィエトという言葉を使うときは、その官僚制に対する批判が込められているようだ。このロシア人のおおらかさとソヴィエトの官僚的態度という二面性が、その後の冷戦の始まりをどう理解すればいいのか、主人公にも分からない。

 しかし、そんな朗らかとも言っていい小説の最後が上記の言葉である。それだけアウシュビッツ体験というものは、主人公に重くのしかかっているのだろう。「あってはならない」などという通り一遍の言い方ではすまされない、人類全体の罪である。

 と同時に、そんなアウシュビッツ体験への償いのようなシオニズムへの援助は、逆にアウシュビッツ体験をパレスチナの人々に強いている。まことに、人間というものは「飽きない」生き物なのである。

2011年2月17日 (木)

『臨死!! 江古田ちゃん』テレビ版を見た・・・裸になればいいんじゃないのだ

 日本テレビの深夜に放送している『臨死!! 江古田ちゃん』(原作:瀧波ユカリ原作/脚本:松原秀/出演:鳥居みゆき 他)を初めて見た。

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(c)瀧波ユカリ/講談社 (c)臨死!!江古田ちゃん製作委員会

 原作は4コマ漫画である。それをドラマ化してあるのだと思ったら、何のことはない4コマ漫画をそのままコント風に演じているのだ。まあ、主演が鳥居みゆきだからそうなるのだろうけれども、まあそれが一番ストレスがたまらない作り方でもあるのだろう、原作者にも脚本家にも。

 自分の部屋に居るときはいつも「裸」で過ごしている江古田ちゃんなので、テレビ化は不可能と言われたのだが、まあ深夜ならオッケーというところなのだろうか、鳥居はちゃんと「裸」です。もっとも、肝心なところはスーパーで隠したり、何故かシーツがかかっていたりして、そりゃテレビは仕方ないところだろうが。

 しかし、そういう風で描くと実はなんということもない、当然自分の部屋を出たときは着衣なわけで、そんな着衣の江古田ちゃんの姿は普通のコント集というか、余り面白くないコント集になってしまうのだな。やはり江古田ちゃんは「裸」が売りの漫画だったのだ。

 鳥居みゆきはそんな江古田ちゃんを好演している。というか、特別美人でもないし、セクシーというわけでもない。ただ、経済的理由だけで「裸」でいるというだけの存在なのだが、そんな「不思議ちゃん」キャラクターを普通に演じていられるというのも、鳥居みゆきの存在感なのだろうが、って別にこれは褒めているわけでもない、まあ普通じゃない? って言ってるだけなのだ。それとも「素」なのか?

 う~ん、この「ヌルさ」はなんなのだろう。深夜だからいいなじゃない? ということなのだろうか。

 まあ、鳥居みゆきの裸を見たい人にとってはいいのかもしれないが(でも、そんなに「オイシイ」裸ではありませんぜ。全然エッチじゃないし)、それだけのことですね。「脱いで一皮剥けた」なんて言い方が昔の映画ではよく言われたが、いまや別にそんなこともないのだ。ただ裸になっただけ。テレビ番組みてオナニーしろって言うほどじゃないけれども、せめてカウパー氏腺液位は出なけりゃね。

 それとも若い人(男)はこれでも十分なのだろうか。

 で、原作はコチラ↓

2011年2月16日 (水)

う~ん、やっぱり女の方がエラいってことでしょうかね

『ヴァギナ 女性器の文化史』(キャサリン・ブラックリッジ著/藤田真利子訳/河出文庫/2011年2月10日刊)

 実はこの本、親本が2005年に出たときには知っていたのである。しかし、何と言ったって、表紙にはモザイクをかけたといったってヴァギナの大写しがドドーンでしょ、おまけに中にもいろんなヴァギナの写真が載っていて、ちょっと引いたというのが正直なところ。しかし、今年になって文庫本が出たのを期に「エイッ」てな訳で買ってしまい、一気に読んでしまった。その結果は、もっと前に読んでおけばよかった、ということであります。

 つまり、これまで我々(男)が常識と思っていたことがことごとく覆されて、う~ん、やっぱり女の方がエラいのね、ってことなのだ。

 例えば、『メスは一匹のオスだけを相手にするという神話は時代の産物で、ヴィクトリア朝の道徳観が反映した誤りだった。これはまた、科学者がいかに見たいものだけを見てとるかという実例として、警告を与えてくれている』という話。つまり、動物は基本的に「一雌多雄」だということ。なんか人間の世界を見てみると「一夫多妻」なんていうイスラム世界が見えてしまうのだが、実は人間も含めて動物は皆「一雌多雄」なのだ。確かに、優良な子孫を残すという目的にはその方がかなっているわけで、人間以外の動物は皆、いっぺんに何匹のオスとセックスをするというのだ。おまけに、そのセックスでオスから射精された精子も、メスの体の中に留め置かれて、そのうちの一番優良なものだけが受胎されるということなのだ。では受胎されなかった精子はどうなるのかというと、まあ膣前庭あたりで殺されてしまったり、殺精子食細胞なんてものに食い殺されたりするならまだいい、シマウマなんかは余分な精液を体外に排出してしまうのである。えー、何のためにメスに嫌われないように一生懸命やった結果がこれ? ってなもんである。まあ、人間は(日本人は)今のところ「一夫一婦」制であることを幸せに思いましょう。

 しかし、男と別れた女はすぐに次の男をみつけてよろしくやっているのに比べ、男はいつまでも前の女のことを引っぱって、いつまでもグジグジやっているというのも、これで理由が分かるような気がしますね。要は、女の方が種を守ることにたいして積極的だということなのだ。これは生き物に共通のものなんかもしれない。

 しかし、女性のそんな種族保守本能なのかは知らないが、メスの体内に入った精子を「そんなに長く保存できるの?」ということである。人間は5日~8日だそうだが、ヘビは最長7年間だそうである。つまり、セックスして7年半くらい経ったあとで蛇の女からヘビの男に向かって「これ貴方の子よ」なんて言われるわけである。男にしてみれば、7年前にそんな女とセックスしたのなんてもう忘れているわけで、そこに突然「貴方の子よ」なんて出てこられてもねえ。ああ、俺は人間で良かった、なんてね。

 でも、その人間にしてもこれまでの「常識」がまったく崩されてしまったというのがこの本である。つまり、クリトリスはペニスではないし、小陰唇は陰嚢ではないということなのである。むしろそれは逆で、クリトリスがペニスの「一部」になっていたりするのである。まあ、たしかに男はXY染色体で出来ているし、女はXX染色体で出来ているという状況を見るだけでも、要は女の方がガッチリ出来ているということなのだろう。

 でも、そんな男と女の違いというか、男優位の考え方がどこから生まれたのだろう、というのが実は本書の一番のテーマではないのだろうか。一つはキリスト教文化というのがあったのだろう。セックスの目的を「生殖」というものだけに限定したキリスト教は「快楽」のためのセックスを禁じたわけだ。まあ、「処女懐胎」なんてものを信じている宗教だからな。継いではそのキリスト教的考え方からも発生している「男性中心主義的イデオロギー」がある。むしろ、このほうが女性史的には罪深いものがあるかもしれない。

 結果、女性の立場から見た、「ヴァギナ論」とか「女性の快感論」とか、それが種の保存のために一番いい方法論なのだ、というような論議は結局今から30年まで位にやっと出現したようなわけである。1990年頃というのは要はジェンダー論が一番かまびすしく言われていた頃であろう。男性中心主義的な「性快感論」をやめて「女だって感じたいの」論がでてきた頃である。

 そうした状況を受けて出るべくして出されたのが本書である。

 最後に本書からの引用でもって終わりにする。

『1948年、人類学者のマーガレット・ミードは、太平洋のいくつかの島の社会を観察して、女性が性的快感とオーガズムを得る能力に影響を与える要素(男性にとっても同じ)について鋭い意見を述べた。ミードは、女性が性的満足を得られるような社会の条件を次のように書いた。

一、自分の価値を認められたいという女性の欲求を認める社会でなくてはならない。

二、女性が自分の生殖器の働きを理解することを許す文化でなくてはならない。

三、女性がオーガズムを得られるための性的技術を教える文化でなくてはならない。』

 ということ。

 女性が「受入れる性」ではないのだ、ということが良くわかりました。

 最後にこの本を読んでいて発見。「natura」(ナチュラ)ってのはラテン語で「女性生殖器」のことなのであった。フジフィルムの人って、そのことに気が付いているのかな。多分、知らなかったんだろうな。

2011年2月15日 (火)

『サラリーマン誕生物語』から見えてくる、今のサラリーマンの革命観

 この本を読んで、その原点とも言うべき『サラリマン物語』『続サラリーマン物語』(前田一著/東洋経済出版部/昭和3年刊)を読みたくなった。それは多分この本を読んだ人の多くが思うことだろう。

『サラリーマン誕生物語』(原克著/講談社/2011年2月15日刊)

 しかし『サラリマン物語 正・続』編とも同じ年に出版されているということは、正編がさすがに沢山売れたということの証左である。20世紀初めというから日本では明治末期の頃であろう。この本の舞台になっているのはもうちょっと後のようなので、ちょうど明治から大正に移ることではないのだろうか。まあ、要はそんな時代のフィクションとして描いているのだが・・・。

 つまりその頃から出始めた「サラリーマン」という名の、都市労働者に関する記述なのだ。それまでの「労働者」というものとは違う、自宅から遠いところにある「勤務先」に通う、「肉体労働」は一切せずに仕事をする(させられる)都市労働者についての話である。

 まず最初は「首吊り」という風に呼ばれていたいわゆる「つるし」の背広を着て、自動開閉式の扉の省線電車にのって勤務先までいけば、まず「タイムレコーダー」が彼らを待っていて、そこで自らが「時間労働者」であることを知らされる。彼らをまっているのは「鉛筆削り機」であり「ホッチキス(本当の呼び方としては「ステープラー」だとおもうのだが)であり、自動的に切手を貼り密封する「郵送機械」であり、「計算機(カリキュレイトマシン)」であり、カードボックスである。言ってみればそれは「オフィス・オートメイション」(つまりOA)なのであろう。そうしたOAによって、どんどん仕事の幅が(人によっては)狭くなったり、(人によっては)広くなったりしているのが、まさに「サラリーマン」の仕事なのである。

 まあ、昼休みの食事に関しては、ベルトコンベアー式の食事には無関係の「サラリーマン」氏であるから、ここでチャップリンの『モダン・タイムス』的な茶々は入れないとするが、午後には、まず最初に「電送写真」を送るという仕事が与えられ、その後、『「縮小写真撮影」機材一式、マイクロスタット社の読み取り装置「オプティグラフ」一台、イーストマン・コダック社製「撮影フィルム」のリール巻がひとやま』という仕事が与えられる。

「電送写真」とは今言う「ファクシミリ」であるし「縮小写真撮影~」とは要は「マイクロフィルム」のことである。いまや、ファックスは電脳でもなんでもないし、マイクロフィルムなんてものは「デジタルスキャン」でもってコンピュータに取り込まれてしまうのだからもはや影も形もない。しかし、大きいのはこうした「サラリーマン」の仕事は要は「情報化」ということなのだろう。

 例えば、計算機を使っていた仕事というのは、それこそ『武士の家計簿』で猪山直之がやっていたような、御算用者全員でやっていた算盤作業のようなものを、算盤がなかったアメリカとかドイツが算盤に代わる(それも人によって作業効率が変わらないような)方法として考えたのが計算機だったわけだ。『武士の家計簿』と言えば、『アパートの鍵貸します』でジャック・レモンがやっていたオフィス風景を思い出す。多分、森田芳光もその辺をパクったんだろうな。

 更に、ファックスやマイクロフィルムなどもそうだし、要はサラリーマンの仕事の大半はこうした「情報化」を如何に「うまくやるか」ということに割かれているということが良くわかる。

 まあ、確かにサラリーマン(それが計算業務だろうが、クリエイティブ業務だろうが、セールズだろうが)の仕事というのは、そのほとんどが「情報」を如何に「処すべきか」というところにかかわっているのだろうな。で、そのサラリーマンの業務というものが、原氏に言わせると「階級闘争なき階級闘争」なのである。 

 つまり「19世紀的な労働者」の姿とは違う形での「20世紀の労働者=サラリーマン」というものを生み出して、彼らがどういう風な生活・労働観を持つのだろうか、というところに多分筆者の視点は行くのであろう。「サラリーマンが労働者的な視点をもつのであろうか」というところにいくのであろう。

 はたして、「生産から切り離された労働者たるサラリーマン」がどこまで戦えるのかは、まだ見えていない。

2011年2月14日 (月)

そこそこ面白い映画『武士の家計簿』でちょっと残念なこと

 昨年12月13日の記事で書いた『武士の家計簿』の映画を今頃になって観た。

『武士の家計簿』(原作:磯田道史/監督:森田芳光/脚本:柏田道夫/制作:エースプロダクション)

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(c)「武士の家計簿」製作委員会

 原作(っていうより原案みたいなものだろうな)を読んだ時の私なりの結論は、『しかし、猪山家は9代目の成之の時に軍務官を経て海軍省に勤めることになり、無事明治政府での出世を果たす。勿論、海軍といっても主計官である。要するに、明治以降の世界では軍務も大事だが、それ以上に経理が大事であるという時代になったのである。ロジスティックの大事さがこの時代では政府部内では認識されていたことがわかる。ところが、その後に昭和になった頃にはこの思想はまったく忘れ去られて、ロジスティック無視のとんでもない戦争に突入したのは、やはり武士階級出身の将軍たちによるものだったのだ。まったく、武士階級ってものはいつまで経ってもアタマが悪いのだろう、ということである。』というものであったが、そうした原作の意味合いからは大きく離れ、森田映画ではひたすらファミリードラマとして描こうとする。

 つまり、加賀藩の御算用者としての猪山家のファミリードラマとしてという部分に終始しようとする。しかし、そうしようとすると加賀藩がなぜあれだけの大藩であり続け得たのかという部分や、武士という階級が如何に体面を重んずる人たちだったのか、という実は原作で一番面白い部分は欠けてしまうのだ。

 とは言うものの、そうした原作の面白さとは別のところで映画の楽しさはあるわけで、原作を知らずに観れば、それはそれで面白く見られる作品にはなっているのはさすがに森田映画である。脚本も丁寧に作ってあるし、宴会シーンなんてまんま『家族ゲーム』だもんな、てな感想を皆もつわけだ。

 特に、父親・猪山信之役の中村雅俊、息子・直之役の堺雅人の親子役が面白い。二人とも「武」に生きる侍としての緊張感のまったくない顔を持つ役者である。中村雅俊の飄々とした風情やら、堺雅人のいつもニヤニヤしているようなしまりのなさが、如何にも「算盤侍」として生きる猪山家の惣領という雰囲気ではまり役ではある。

 ただし、ひとつだけ不満を述べさせていただければ、例の「絵鯛」である。実は、本当はこれは嫡男・成之の着袴の儀の際のエピソードではなく、映画では成之の妹として描かれている成之の姉の髪置の儀の際のエピソードなのである。そりゃそうだろう。成之は猪山家の嫡男である。そんな嫡男の大事な儀式の時に「絵鯛」なんか出したらそれこそ切腹ものである。これは女の子だからまあ世間も許したのであり、嫡男でそれはいくら貧しくてもできない相談なのである。せめてその辺だけでも原作通りに作っていたら、武士が如何にして体面を保つことに汲々としていたか、という武士階級のつらさのようなものが描かれたのではないか、と思うのである。

映画のHPはコチラ↓

http://www.bushikake.jp/index.php

原作はコチラ↓

2011年2月13日 (日)

二人のラテン人碩学の面白い話

 ふたりの碩学が語る書物につての話は刺激的だ。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール/工藤妙子訳/阪急コミュニケーションズ/2010年12月30日刊)

『薔薇の名前』の作者であり記号論の哲学者でもあるウンベルト・エーコと、ルイス・ブニュエルの脚本家であり、大島渚の『マックス、モナムール』の脚本を書いたジャン=クロード・カリエールの対談集である。

 ちょっと刺激的なタイトルだが、語っている内容は1月25日に書いた津野海太郎氏と同じ。つまり、グーテンベルグが発明した活字印刷による本は「車輪」みたいなもので、すでに完成されてしまっている技術であるから、これが無くなることはないだろうということ。むしろ、現在のデジタル技術の方が今後どんな発展をしてくことが読めない以上、これからも廃っていく技術レベルがいくらでもあるだろうということ。今も既にどんなパソコンでも読めなくなてしまっているフローッピーディスクなんてメディアもあるわけだし、今後の問題としてはCD-ROMやCDそのものだっていつ読めなくなってしまうものかは誰もわからない。それでなくともOSの変化によって読まなくなってしまったデータはいくらでもあるし、そのためには自宅に過去のすべての段階のOSの入ったパソコンをとっておかなければならない、なんていう現実的でない発想も必要になってしまう。

 これはエーコも昔イタリア放送協会でドキュメンタリー番組のプロデューサーをやっていたことのある経験からなのだろうか、いずれにせよ二人とも映像関連の仕事をしている経験をもつからだろう。つまり、以前ルーカスフィルムがデジタルシネマの提案をしたときに、ハリウッドの連中は鼻でせせら笑い、100年以上の歴史を持つアナログシネマに対して、たかだか数年のデジタルシネマがOSの変化に耐えうるのかという批判をしたことにも表れるように、デジタルというものがいまだに技術依存である以上、技術の変遷に耐えうるメディアにはなっていないのだ。ハリウッドはいまだにアナログフィルムでの映画保存を行っている。

 人間が文字を発明(発見?)して以来の記録方法である書物、それは本とは限らず木簡・竹簡や巻物などの形態をとるかもしれないが、そうした書物はいまだに読むことが可能だし、現実に読まれている。そうしたメディアが絶滅することはあり得ないことだ。

 しかし、ウンベルト・エーコの7万冊うち奇観本1200冊、ジャン=クロード・カリエール4万冊うち奇観本2000冊って、ちょっとマトモじゃない蔵書の分量は、二人が稀代の読書家であり愛書家であることはよくわかるが、そんな図書館のような知識の分量っていったい何なのだろう。それは知識なんだろうか、あるいは知識を超えたなにものなのだろうか。とにかくとてつもない、果てしなきお互いの知識の「ひけらかし」は、読んでいてとても刺激的なのだが、しかし、多分それを現場で見ているインタビュアーのジャン=フィリップ・ド・トーナックが一番楽しんでいるのだろう。

 そういう意味では、この二人の対談が書物でなく、映像で見られたらもっと刺激的だろう。NHKあたりで放送しないものだろうか。多分、それはサンデルの「白熱教室」以上の見ものになりそうである。

 ところで、この二人のラテン系人士による書物への偏愛ぶりの語りが、そもそもその話の源泉であるところの文化がゲルマン系の人によって実用化されたという、その話の中にアングロ・サクソンが全然現れないのは愉快なことである。まったくこの20世紀にロクなことをしてこなかったアングロ・サクソンめ、というところである。まあ、技術はアングロ・サクソンかもしれないが、しかし文化はラテン人のものなのだろう。

 

2011年2月12日 (土)

カメラショーなのかデジタル機器ショーなのか

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 CP+(シーピープラス CAMERA & PHOTO IMAGING SHOW)という催しがパシフィコ横浜で開催中であります。もともと、フォトイメージングエキスポという催しでアメリカのPMA、ドイツのフォトキナに並ぶ国際カメラ関連イベントにするという目的で開催されていたのだが、主催者たちの足並みが揃わずに、昨年からこのCP+とPHOTO NEXTというふたつのイベントに分かれて開催されることになったのだ。

 で、カメラ映像機器工業会が主催するのがCP+というわけで、まあ要は日本カメラショーなのであります。とはいうものの、いまやカメラは光学機器というよりは電子機器となってしまっており、今回も銀塩カメラを展示していたのはコシナ(カール・ツァイスとフォクトレンダーのブランド名)とハッセルブラッド位のもので、あとはすべてデジタル、デジタルであります。

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 エプソンからはPX-5Vというプリンターの新機種が出ていて、今、我が家で使っているPX-G5300というのも実はハイエンド機なのであるが、その上をいく性能、使い勝手の良さで、思わず物欲がでてしまう。う~ん、欲しいとい気持ちを何とか抑えてキャノンとニコンのブースに行って、何とか「ここはカメラショーなんだ」という気分になります。

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 オリンパスのブースでは昔のオリンパス・ペンの展示が・・・、と言ってもオリンパス・ペンEPシリーズのための参考展示で、銀塩オリンパスを再発売するわけではない。嗚呼、残念。

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 最後はペンタックスK-rのカラーバリエーションであります。カメラは黒か銀という常識に凝り固まったオヤジには理解が出来ない事態であります。こういうのを称して「カワイイ」と言えるのか? なんか戦略を誤っているような気がするのだが。

 CP+のHPはこちら↓

http://www.cpplus.jp/

 今日までパシフィコ横浜で開催。

EPSON RD1s+Summicron 35 (c)tsunoken

2011年2月11日 (金)

「一枚の写真」に意味はなくとも、「量」に意味があればいいのだ

 ここのところ森山大道と講談社『HUgE』のコラボレート写真集(その全てが再刊である)が連続して出版されている。

『71 NEW YORK』(森山大道著/講談社/2011年2月4日刊)

<ウィリアム・クラインの『NEW YORK』、ブルース・デイビッドソンの『BROOKLYN GANG』、ウィージーの『NAKED CITY』、アンディ・ウォーホルの『THE SILVER FACTORY』、ルー・リードの『VELVET UNDERGROUND』、ダスティン・ホフマンの『MIDNIGHT COWBOY』、ジェームス・ボールドウィンの『ANOTHER COUNTRY』、そして金坂健二の『地下のアメリカ』。

それら全てが、若い日々にぼくが憧れた”NEW YORK”への入り口であり通路であり実態の総体であった。

そして1971年初冬、ぼくは初めてニューヨークの地を踏み、マンハッタンの舗道に立ちつくしていた。>

 という言葉で始まるニューヨークの写真集が2月に出版された。ひとこと言ってしまうと『MIDNIGHT COWBOY』はダスティン・ホフマンとジョン・ボイドが主演はしたけれども、作品としてはジョン・シュレシンジャーというユダヤ系アメリカ人の映画なのである。つまり、アメリカ合州国は自分たちも参加して作った国なのだけれども、何か疎外感をもったまま参加せざるを得ないという状況がある。そんなアメリカにたいする疎外感を描いた映画なのだろう。まあ、シュレシンジャーもホフマンもユダヤ系というところでは、同じ「アメリカ合州国に対する思い」というのもあるのだろうけれども、だったらウッディ・アレンは? とここで論議を広げても意味はない。問題は、森山大道氏の写真の「量」なのだ。

 これまで出版(再刊)されている写真集は以下のとおり。

 このうち、『BUENOS AIRES』『Sao Paulo』の二つは比較的最近になって親本が出版されているのでそうでもないが、この『71 NEW YORK』も含めて他の三点はかなり以前の「アレ・ブレ・ボケ」時代の作品である。ということは、この大量の写真群のすべてが以前の森山大道写真を思い出させる。

 しかし、最近になっていろいろ再刊される森山大道の写真群はまさに写真群としか言いようのない、大量の写真であって、それだけ大量に我々の前に放り出されると、その写真はドンドン均質化してきて、それが新宿を撮ったものであれ、大阪を撮ったものであれ、ニューヨークを撮ったものであれ、南米の街を撮ったものであれ、何か同じ場所で撮った写真のような気になってくるのが不思議である。

 要は「量は質を凌駕する」ということなのだ。森山大道氏のこの写真の量というものが、その写されている「対象」、写している「方法」、そして写されているものの「意味」を超えて、「量」が語っているのだ。そうして見ると、昔の「アレ・ブレ・ボケ」写真も今の「ピントクッキリ写真」も同じ意味でもって我々に語りかけてくる、つまり、「写真の方法論ではなくて、写真はその量で語るのだ」ということである。

 いまやフォトジャーナリズムというものが、ほとんど意味をなさなくなってきてしまった現代において、しかし、この写真の「量」を維持している森山大道という人は、やはり「すごい人」と言うしかないのであろうか。一枚一枚の写真には何の意味もない。これはたった一枚の写真に「意味」を求めるフォトジャーナリストの立場とは違う写真家の立場がある。しかし、フォトジャーナリストが求める「一枚の写真」に対抗する「意味」が、森山大道氏の場合にはその「量」にあるのだ。

 我々は「一枚の写真」に「意味」を求めたフォトジャーナリズムの方に、それこそ写真の「意味」を求めてきたのではないか。しかし、一方でそんな「一枚の写真」はまったく「意味」を求めないで、ひたすら「量」に「意味」を求めた写真家がいたのだった。

 しかし、こうした写真家が生活出来てきたことが不思議だ。

2011年2月10日 (木)

オカマの自己弁護であります

 えー、今日のブログは「性同一性障害者」に対する〈偏見・差別〉が多分あると思いますので、そのようなものは「読みたくない」と言う人は、あらかじめこのブログを閉じてください。そうでない人は、まあ怒らないで読んでね。

『オカマだけどOLやってます。完全版』(能町みね子著/文春文庫/2009年8月10日刊)

「性同一性障害」ということなんだけれども、よくわからない。筆者によればそれは<「性同一性障害=gid」「MTF/FTM=トランス」「ゲイ≒ホモ」「オカマ」「レズビアン」「オナベ」「バイセクシャル」>という具合に分けられるらしい。

 まあ、それはそれだけ「性同一性障害」に関する分類というか、多分、訳のわからなさ加減がいっぱいあって、なおかつそれをそうじゃない「ノーマル」な人間が勝手に分けるとそれこそ「性同一性障害者差別だっ」とか言われて、面倒くさいんで、まあ、そういう区分けを皆が受け容れたんだろうな、ということである。

 まあ、昔は「オカマ」と「レズ」くらいしかこういう人たちに与えられた言葉はないのだから、そんな意味でも今は昔に比べれば生きやすくなって来たのだろう。だって「オカマで有名な東郷健」がなんで娘がいるんだよ、って話じゃないか。東郷健さんは要はその時代的な要請でもって、取り敢えず女性と結婚して子供を産んでから(産ませてから)、カミングアウトしてオカマになったというわけだ。すげえなこれ。だって、男と女の両方をやっちゃうってことでしょう。う~ん、羨ましい・・・でもないか。

 というところで、この筆者だが、そんな東郷健さんの生き方にすればずっとゆるやかである。たとえば、親にカミングアウトした時も、当然お母さんはびっくりするわけだけれども、まあ、多少はそんなこともあるのかなという雰囲気は察していたお母さんは、比較的自然に「能町みね子」さんを受け入れてくれる。

 家の息子どもがそんなことを打ち明けれれたら、私の妻(勿論、私もなのだけれども)はどういう反応をするだろう、と考えたら、能町さんのお母さんは「イケてるじゃん」となるのだが、実際には絶対そうじゃないだろう。

 能町さんのお母さんも、たぶん子どもの時からお姉さんの服を着せられて喜んでいた能町さん自身を見ながら、なんか「この子が男でも女でもいいわ」的な気分になっていたのではないだろうか。

 その結果の「オカマ」である。能町氏的には「オカマ」というのは「女っぽいけど、まだチンコ(ということはタマも)ついてる奴」ということであるそうな。

 しかし、そんな能町氏も初めてアタマにさわられた日に「腕からキュン」とした感じがアタマにまで上ってきて、まさに自身が「女」を感じた日なのだろうな。

 だからといって、「子どもを産むことができないオカマ」という状況には変わりはない。別に、「本当の女」であっても子どもを産むことが出来ない人はいるわけで、ということで「子どもを産むことが出来ないオカマ」と「子どもを産むことが出来ない女」を差別・区別することはできないであろう。

 まあ、少子化の時代ではある。そんな意味でも「子どもを産むことが出来ない」「女」だろうが「オカマ」だろうが、子どもを作らないというところではまったく同じだ。

 そういう意味では<「ゲイ≒ホモ」「オカマ」「レズビアン」「オナベ」「バイセクシャル」>だろうが、皆「生きていいよ』という社会はいい社会なのだろう。

 ちなみに、能町みね子さんは、今ではチンコも(ということは多分タマも)取っちゃっているらしいです。それはそれで「子どもが産めない女」なんだよな。う~ん、ちょっと難しい。

2011年2月 9日 (水)

『日本の若者は不幸じゃない』というけど、やっぱり「不幸な若者」っているのである

 確かに「自己表現」という部分では今はネットもあるし、昔に比べれば圧倒的にハードルは低くなっている。だからと言って、それで不幸か幸福かということにはならないんじゃないか。

『日本の若者は不幸じゃない』(福嶋麻衣子・いしたにまさき著/ソフトバンク新書/2011年1月25日刊)

 貧しいか貧しくないかというのは明確な基準を求めることができる。つまり、年収いくらという基準を設けて、それ以下は「貧しい」、それ以上は「普通」、もっと上は「豊か」とか決めることはできる。ただし、豊かであっても不幸な人はいるし、貧しくあっても幸福な人はいる。ということで、こうした相対的なものに関しては本人の感じ方しかないのであって、それで不幸じゃないというのは自由である。

 福嶋氏は貧しくあっても、自分の表現したいことが表現して発表できる場を持っている日本の若者は不幸じゃないというわけである。確かに、ちょっとアルバイトでもすればビデオカメラを買うことができるし、そうして買ったビデオカメラで撮影してパソコンで編集した素材をYOU TUBEとかUstraemにでもアップすれば、その時から彼はビデオアーチストな訳である。アルバイトで買ったギターを録音してパソコンでミックスした音源をネットにアップするか、CDでも焼いて街に出れば、かれはミュージシャンな訳である。

 そういう意味では、まさに今や一億総アーチスト時代だともいえるし、技術的な習得なんてものの意味がなくなってきているというのも事実だろう。もうちょっと技術的に上を目指したいのであれば、それはそれなりの学校がいっぱいある。勿論、そんな学校に通いながらメディアに顔をだすことは十分可能である。

 そういう意味では、昨日のブログにも書いたけど、『じゃあ、若者はどうすればよいのか』の答えの一番目。『(1)「雇ってもらう」ことを諦め、自営業でたべていこうと考える』ということの一つの方法なのだろうな。

 じゃあそれですべての若者が幸せになれるかというと、これがそうはいかないのだな。つまり、そうしてネットで自己表現したり、秋葉原の路上でパフォーマンスしたり、それこそディアステージで歌を歌ったりできる子たちは、まあ少しは幸せになれるかもしれない。しかし、そんな方法論に気付かない子たちはどうすりゃいいのだ。要は、そんな「幸せになる方法」をまったく知らない子たちがいるということなのだ。

 どういう子たちなのかと言えば、ケータイは持ってるかもしれないがパソコンを持っていない(使っていない)若者が実に多いのだ。2010年の内閣府調査によればケータイ所持率が高校生で96.0%とまあ、殆どの高校生が携帯電話を持っているという結果が出たのだが、一方パソコン使用率(所持率ではなく「使用したかどうか」という)は82.4%となり前年に比べて落ちているということなのだ。勿論、家にパソコンがあり必要があれば使うのだろうけれども、でも使っていない人が多いということなのだ。大学なんかでも休講情報なんかは前はパソコンで伝えていたのだが、最近はそれだと読めない(読まない?)学生が多いということなので、ケータイによるインターネット接続でもって伝えているという話もある。つまり、学生であれば持ってて当たり前のパソコンですら使っていなくて、インターネット接続はケータイのみという学生がいるということなのだ。

 上記の自己表現の道がいまや圧倒的にハードルが低くなったとはいえ、そのハードルを超えるための最低限のインフラであるパソコンすら「持ってない」「使ってない」若者が増えているということではないか。

 そんな若者の一人が「自分のサイトを荒らされた」といって「秋葉原大量殺傷事件」を起こしたのではないか? つまり、若者が不幸にならないためには、不幸にならないために自分自身から何か行動を起こさなければならないということではないだろうか。勿論、そのための行動とは昔に比べればとってもハードルは低いわけで、それこそ「家にあるパソコンを使う」という程度のものであろう。あるいは、大学生であればパソコン位は自分専用のものがあるだろう。でも、それすら使わない若者たちがいる。

 パソコンですら使いこなせずに、所詮ケータイだけの人生を送っている奴らもいるのだ。そういう人は「自己責任」というだけでいいのだろうか。福嶋氏の視点から欠けているのは、そういう言ってみれば「どうしようもない奴ら」なのだ。そんな、「どうしようもない奴ら」も含めて「不幸じゃない」というためには、多分とてつもない投資が必要になるだろう。

 まあ、そんな大人たちからみれば「不幸」に見えるかもしれないが、幸い「幸せになる方法」を見つけた福嶋氏の同行者たちは、まさに幸せである。そうした「幸せになる方法」を語ることには何の不満もない。当然である。

 ただし、それでも幸せになる方法を見つけられない若者もいる、ということに気付いてほしいとも思うのだ。半径5メートルだけじゃなくてね。

 勿論、そんな若者を助けないと福嶋氏を信じないよ、ということではない。

 ただし、いまだに「不幸な若者」がいるってことだけ。

2011年2月 8日 (火)

ブログ本はやっぱりブログで読むほうが面白いということ

 「ちきりん」というのはブログ「Chikirinの日記」を書いている”おちゃらけ社会派”を自認するブロガーの名前であり、私もライブドアーの「ブロゴス」という幾多のブログからいくつか注目のブログを選んで毎日それを紹介するホームページでたまに読んでいたのだが、そのブログを元にした本がでたので買ってみたというわけなのである。

『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』(ちきりん著/イースト・プレス/2011年2月7日刊)

 ちきりんさんはバブル最盛期に証券会社で働き、その後米国の大学院に留学して後、外資系の会社で仕事をして現在は「働かない生活」を行っているという、つまり現在50歳くらいの、多分言い方は悪いけど「勝ち逃げ組」なのであろう。う~ん、うらやましい。といっても私ももうすぐそのような生活になるのだけれども。

 で、そのブログだが”おちゃらけ社会派”という割にはけっこうまじめに社会のいろいろな事象を取り上げており、そこにつけられたコメントもなかなか「正鵠を射ている」ものなのである。いやあ、なかなかこのおばさん、いいとこいってるなという感じではある。

 この本に収められた部分でも、『日本はアジアのイタリアに』なんかは素晴らしい。イタリアの「経済」「政治」「国際社会でのプレゼンス」「歴史」「首都」「田舎」「教育」「英語」「企業」「闇社会」「失業率」「格差」「出生率」「食事」「ファッション」「国家ブランド」「観光産業」「「文化」という各面での日本とイタリアの共通部分をあげ「まとめ」として『グローバル国家ではなく、超ドメスティック志向の国。「俺の国が一番いいじゃん」系』として『こう見てみると、既にほとんど一緒ですね。イタリアと日本の違いは「気の持ちよう」だけです。イタリア人の多くが「イタリアはこれでいい。すばらしい国だ」と思っているのに、日本には「これではダメだ!」という人が多すぎます。一部にそういう人たちがいてもいいけど、みんながそんなことを思う必要はありません』と結論づける。

 そう2月5日のブログでも書いたけれども、中国にGDP世界第2位の座を奪われたくらいはどうということもない。世界第10位くらいでまったり暮らしましょうよ、ということとまったく同じことをちきりんさんも言っているのだ。ちきりんさんの考え方の基本は『分相応に暮らしましょう』ということ。10年以上のローンは組まないし、大半の保険は不要だったり、情報商材は買わないし、宗教にも入らないし、要は「所有」を如何にして減らすかという生活を提案している。つまり『(1)できる限りのものをデジタル化し(2)できる限りのものをクラウド化し(3)できる限りのものについて、レンタル市場化する』ということ。今はそういう生活をしていても何の卑下も必要がないし、『「貧乏な家ほどモノが多い」~そんな時代がやってくるかもしれません』ということなのである。

 では、そんな時代になってしまったらますます企業の収益は圧縮されてしまうし、そんな企業は人を雇わなくなってしまう。じゃあ、若者はどうすればよいのか。それに対してはちきりんさんはこう答える。『(1)「雇ってもらう」ことを諦め、自営業でたべていこうと考える(2)若者にしかできないこと(高齢者にはできないこと)を学ぼうとする(3)経済成長を続ける中国やインドなど海外に行って働こうとする』ということ。まあ、それはそうなんだろうな。特にこの(1)と(3)が有望だろう。これからの若者は英語力なんかも我々とは段違いにつくだろうから、特に海外の就職市場は魅力だろう。

 まあ、頑張ってください・・・って、そうか、頑張るのもやめようという提案ではあった。

 とまあ、いちいち納得できるちきりんさんなのであるが、ひとつだけこの本には不満がある。つまり、ブログで読んでいた時となんか味わいが違うのである。ブログの時は、なあるほどそういう考え方ができるのね、と納得できた考え方なのであるが、本になってしまうとなんとなく、まあ普通のことを言ってるなという感じなのだ。

 多分それは、ブログが毎日とれたての旬の食材を手っ取り早く調理して食べさせてくれる鮨屋のつけ台で食べる寿司のようなものだとすると、本はその寿司を出前で食べるようなものなのだろうか。同じ食材を使っていながら、やはり新鮮さではねというところなのだろう。新鮮さというところではやっぱりブログで日々読むほうが新鮮ではある。その意味では、やっぱり寿司は出前よりは鮨屋で食べる方がよい。

 ということでブログを読みたくなった人はコチラへ↓

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/

2011年2月 7日 (月)

株式会社全日本相撲協会ってのもありだよね

 毎度お騒がせの財団法人日本相撲協会であります。

 今日両国に行ってきてみれば、国技館の前はマスコミでいっぱいといういつもの風景。まあ、そりゃあ八百長問題をここまで放置してきた協会側にも問題はあるのかもしれないが、一方で、相撲人気に寄りかかって八百長があることを知りながら「ないこと」にしてきて、素知らぬ顔でテレビ放送を続けてきたNHKはじめテレビや新聞が今さら「何も知らなかった」風を装い、とたんに相撲協会を叩きを始めるいつもの風景にも鼻白むのが、普通の人々の反応ではなかろうか。

 前を通る人、皆笑っていたよ。

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 だいたい、相撲が国技だなんていう法的規定はどこにもないわけで、昨年8月2日のブログ『外人力士は現代のマレビトである』(講談社学術文庫『相撲の歴史』の紹介)で書いた通り『現在「国技」と言われているのは、明治42年(1909年)に相撲の常設館が本所元町に建設されたときにそこを「国技館」と名づけたからにすぎない』ということなのだ。相撲が国技ならば外人力士の出場にももう少しシビアにならなければいけないだろうが、それもないし(一応各部屋ごとの人数規制はあるが)、もともと世界中の国々で相撲に類する競技は行われてきたわけで、それが日本だけのものであるというのも、盗人猛々しいわけである。

 まあ、石原都知事が言うように「皆、それ(八百長)に騙されて楽しむのがいいんじゃないの」というのも真実だろうし、「公平なルールで競技が行われないのでは、公益法人認定の要件を満たしているとは言えず、現段階で(公益法人認定は)厳しい」という蓮舫行政刷新担当相の言うことも一方では真実であろう。

 相撲協会はもう財団法人であることをやめて株式会社化すればいいじゃないか、そうすれば八百長やろうが星の貸し借りをやろうが、すべては「興行」の中におさまってしまうのだから何の問題もない、というのも真実であるし、しかし、そんなことをしたら営業の素人集団の相撲協会はとたんにツブれてしうのだから、やっぱり財団法人として国の保護にあるような立場を守るためにはエリを正さなければというのも真実だろう。

 じゃあ、お前はどう考えてるんだよ、と言われてしまえば、私個人としては「株式会社化」に賛成なのだ。当然、株式会社化してしまえば今のような16歳から相撲のことしか考えていなかった相撲バカが協会を経営してればツブれてしまうだろう。で、そこでプロの経営者が乗り出すことになる。プロ野球のようにフロントとプレーヤーを分離してしまうという考え方だ。そうなるとどういうことになるか。つまり下剋上であり喧嘩別れであり、まあ経営分離だな。全日本相撲協会に対抗する新日本相撲協会なんてのが出来たり、新興勢力でみちのく相撲協会とか九州相撲協会とか長野相撲協会なんてのが出来るかもしれない。もう、相撲協会の群雄割拠状態である。もういろんなところで、全国いたるところで、いろんな相撲興行が行われる状態になる。

 それでいいのだ、それでこそ昔ぁ~しの相撲興行の形に戻るのだ。勧進元は、多分ヤクザだよな。あるいはヤクザが裏で仕切っている興行会社か。まあ、そんなところだろう。ヤクザが仕切って、神社のお祭りなんかで相撲興行を張る(これが元々あった相撲興行のやりかた)のである。当然ヤクザが仕切るということになれば、「ヤクザのお友達」である警察がなんかしら文句を言ってくるだろう。ヤクザがやっているのは怪しからんとか、俺にも一枚食わせろとか。ということで、ヤクザの上前を撥ねる警察という構造も皆に見えて来る(だからと言ってだれにもそこには踏む込めないんだけどね)。

 その結果、一番いいところは外国人力士がいなくなるということなのだ。第一そんなチンケな相撲では外国人力士にはギャラは払えない。しかし、その分、例えば町一番の力持ちなんてやつが力士に挑戦するとか、あるいはそんな奴が力士に勝ってしまってそのまま力士になってしまう、という昔ぁ~しの相撲興行の形が蘇ってくるのだ。

 いいでしょう。今みたいに相撲をスポーツ種目として選ぶ学生もいない状態で、やむなく外国人力士を雇わなければならない状態よりは、ずっと昔ぁ~しの相撲力士が選ばれた方法論が復活するわけです。

 要は、相撲なんてのはスポーツではそもそもないし、純粋な競技でもないし、では神事かと言ってしまえば神事なんだけれども、それを言ってしまうと公益法人ではなくなってしまうし、というジレンマというかトリレンマというか、実はもっと多くのマルチレンマになってしまっているのが、今の財団法人日本相撲協会ではないのか。

 だったら、本当に昔の相撲興行に戻って(ということは現在の大半の相撲取りは、単なる大飯ぐらいのデブ、ということで生活できなくなるけどね)、そこからやり直したほうがいいんじゃないか、というのが私の考え方だ。昔のお相撲さんは今みたいに皆デブじゃなかったよ。「ソップ型」って本当に痩せてたもん。でも強かったんだよ。

 まあ、皆、気楽に考えようよ。

『相撲の歴史』はこれ↓なかなか、読ませる本です。

2011年2月 6日 (日)

『ゴダール・ソシアリズム』は観るべき映画なのか、ということについて

 正確には『FILM JLG SOCIALISME』という。つまり『映画 ジャン・リュック=ゴダール 社会主義』ということなのだろう。この映画が資本主義的な映画ではないことはよくわかった。しかし、資本主義的な方法論でしか上映されないことも、考える必要もありそうだ。

 結局、ストーリーを語らなくなったゴダールはノイジーな映像と音響(SONIMAGE)に溢れた映画を作ったのだった。

Image

 ゴダールにとって「映画」というものは何なのだろうか。「タダ」(やほとんどタダのような料金で)で観られるテレビという媒体に比較して、映画はいやでも有料メディアであるわけで、そんな有料メディアが無料メディアにどうやって勝つかというのが映画の立場であるのだ。そこには、ストーリーを語るときの豊かさというようなものが映画のテレビに対する優位の立場をとっていたわけだ。つまり、テレビドラマの世界は「画面を見ていなくても分かること」が重要視されている世界であって、「台詞」や「ナレーション」で画面を見ないで台所仕事をしている主婦にもストーリー展開が分からなければいけないのだ。これが、テレビ脚本の世界である。しかし、映画の脚本の世界ではその逆のことが言われている。つまり、映画の脚本では「ト書き」はなるべく少ない方が良い、ナレーションは「入れるな」ということである。つまり、映画の脚本に求められるのは、見る人に「分かりやすい」ということではなくて、それらの仕事は演出家(監督)がやるものであるから、演出家(監督)が作りやす材料を提供するのが脚本家の仕事であるということなのだ。

 そんな時に、最早ストーリーを語らなくなった演出家が、周囲に何を求めるのか。求めるのは、映像だけである。そんな映像の集積がこの映画である。ビデオで撮影されたいかにもビデオ映像のようなフィルム画面を見ながらそんなことを思った。

 ゴダールは最早フィルムで映画を撮ることを考えていないのではないか。ということは、ストーリーを語ることは考えていないのではないか、ということである。『勝手にしやがれ』とか『気狂いピエロ』とか『ウィークエンド』とか『男性女性』などのゴダールの「名作」というものを考えてしまうと、そうした「名作」発想すら辞めてしまっているゴダールの今現在のやり方というものは、それなりに理解はできるものの、映画を「作品」として観てしまう我々世代の感覚からすれば、ちょっとなあ、というところもある。

 まあ、もっともメディア論でもってきた人ではあるから、それはそれで仕方のないことなのかな、というところでもあるけれども。

 でも、最後に残るのは最大の疑問。つまり、『なんでゴダールはこの作品を「映画」として公開したのだろう』ということ。テレビで公開すれば一番いいんじゃないかとも思えるのだが・・・。

 しかし、こうした映画に出演する「プロの」俳優も困ったんじゃないかな。なにしろ自分の演技の作品の中での位置づけが出来ないからなあ。

日比谷シャンテ他で公開中

予告編はこちら→http://www.youtube.com/watch?v=10JVzqcSKXU

映画のホームページはこちら→http://www.bowjapan.com/socialisme/

2011年2月 5日 (土)

『近頃の若者はなぜダメなのか』なのではない、そんな若者に期待する老人がいけないのだ

「ダメ」なんじゃないのだよな、時代が変わって人々の考え方も変わって、それでそんな社会で生きていかなければならない人たちも変わるのである。

『近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」』(原田曜平著/光文社新書/2010年1月20日刊)

 まあ、問題は「ケータイ文化」というよりは「新村社会」なのだろうな。

 昨日のブログにも書いたけれども、日本はいまや「階層社会」の方向に入っているのだろうな。つまり、はじめから、普通の社会人としての中学生・高校生・大学生という人生をおくっている奴と、まあ中学はでたけれども高校で横に出てしまった奴、三流大学にやっと入った奴とかその大学にも入れなかった奴とか、大学に入ったけれども横に出ちまった奴とか。

 当然、普通の社会人として~大学生という人生をおくってきた奴も、その中身は違うわけで、例えば下からの付属小中高校から上がってきたいわゆる「スーパー内部生」と大学から入ってきた普通の学生とは違うわけで、それはそれで文化が違うのだ。といっても、当然大学から入ってきた学生の方が、高校からのエスカレーター組よりは学力は上なわけなのだが、何故か大学内部では高校からの持ちあがり組の方が(なんとなく)上位にいるという不思議。つまり、大学に入っちまえば、下からの持ちあがり組だろうが大学からの入試組だろうが同じわけで、おまけに大学というところは成績でどうのこうのいう場所ではないというところもあって、結局、下からの持ちあがり組のバカどもが結構いい場所をとってしまうのだ。単に、その学校の歴史を知っているというだけでね。

 まあ、そういうことも含めて、一つはそんな大学の付属高問題もあり、昨日書いた東大生の親の年収問題もあり、負け犬(女/30代(最近は40代も)、結婚なし、子供なし)の実は優雅な生活ということもあり、要は日本にもいまや「あらかじめ決められた階層があって、君らはその階層に通りに生きなければいけないんだよ」という価値観が生まれたということなのだろう。

 その価値観に入ってしまえばラクである。「士農工商」の身分制度に入ってしまえば、百姓の子どもは侍になろうとしないだろうし、職人や商家の子どもも同じだろう。ただし、商家の子どもに関して言えば、侍に金を貸してその代償として侍の身分を手に入れた商家の子どももいるわけだ。その代表が、勝海舟や坂本龍馬なわけでしょう。いつの時代にも、ブレイクスルーを実現してしまう人はいるわけだし、そんなものは時代の平準化はではない。むしろ、身分制度の中でいた百姓たちが、普通は武士になんてなろうと思わなかったということのほうが普通であった、ということの方に注目すべきだ。

 そのことが、ケータイ社会とかケータイネット社会とかでも同じように言われているわけだ。要は、あらかじめいい大学に入っていい会社に入ってという人と、そうじゃない人という形のわかれ方。原田氏はそれを「(ケータイ)新村社会)」と言っているが、問題は、ケータイ社会でのひとりひとりの行動の、あるいは発言の持ちようなのだろう。つまり、彼ら自身が作ったケータイ社会での「掟」を破らないでねということだけにすぎない。「携帯電話(+メール)」ということで出来あがった社会である。その社会でのルールを皆で守らなけれいけない、というのは日本人が昔からもっていたモラルである。だとしたら、ケータイ社会でも結局は日本人が昔からもっていたモラルを守れということなのだろう。

 だったら、皆普通にしてればいいじゃん、ということでしょ。もう、日本は日本以外の国にはなれないんだし、このまま行くしかないのですよ。

 それでいいじゃん。もう日本はGDP世界第2位じゃないんだし、第2位を守らねければいければないってもんでもないんでしょう。まあ、10位くらいまで落ちて、皆でまったり暮らしましょうよ。

 

2011年2月 4日 (金)

『街場の現代思想』も面白いのは前半です

 けっこう言っていることは普通だったりして。

『街場の現代思想』(内田樹著/文春文庫/2008年4月10日刊)

 中身は大きく二つに分かれていて、第1章と第2章が「文化資本」というものについての論評。第3章が人生相談を装った「生き方論」のようなもの。で、この生き方論が割りと普通で、内田式トンデモ話にはなっていないということが、まあ人生論である以上当然だし、その一方内田式トンデモ論になっていないことに、少しガッカリ。

 コンテンツは『第1章 文化資本主義の時代 「越すに越されぬ、バカの壁」「文化資本とは何か」「一億総プチ文化資本主義戦略」「文化資本の逆説」』『第2章 勝った負けたと騒ぐじゃないよ 「『負け犬の遠吠え』のクールなあり方」「負け犬は二一世紀のランティエ」「女子大回帰を勝ち犬シフト」』が前半、『第3章 街場の常識「第1回 敬語について」「第2回 お金について」「第3回 給与について」「第4回 ワーク・モチベーションについて」「第5回 転職について」「第6回 社内改革について」「第7回 フリーターについて」「第8回 結婚という終わりなき不快について」「第9回 他者としての配偶者について」「第10回 離婚について」「第11回 離婚について(承前)」「第12回 贈与について」「第13回 大学について」「第14回 学歴について」「第15回 想像力と倫理について」 「あとがき、あるいは生きることの愉しさについて」』というもの。

 前半の「文化資本」についての記述は面白い。フランス社会というのは「階層社会」であって、つまりその「階層」というものは「生まれつき」であるということなのだ。つまり、本人が上層階級に生まれたのか、そうじゃないのかということ。あらかじめ上層階級に生まれた子供は、例えば子供のころから芸術作品が「身の回りにある」のが当たり前の世界で生きて、食べ物も高級食材で作られた高級な食べ物を「当たり前のもの」として食べて成長してきた。つまり『ワインの味について語るときにも、同じような差が出る。ある人は、どのワインについても、それを前に飲んだときの料理の味わいや、会食者の話題や、食器の触れあう音や、演奏されていた音楽や、着ていた服の肌触りの記憶をありありと思い出すことができる。ある人は「ワイン本」を読んで、「どこのシャトーの何年物は逸品」というような「知識」を網羅的に語ることができる。ここに露呈するのはワインとの「親しみ深さ」の違いである。(中略)「知識」を語る人間が「経験」を語る人間に対してつねにある種の「気後れ」を覚えることは事実である。そんなことを意図しないで、自然にふるまっている人間に「気圧される」こと、自分の感覚や判断に迷いを感じてしまうこと、自分がどこかで「いてはならない場所に踏み込んだ」ような異郷感を覚えてしまうこと、この微妙な「場違い」感のうちに文化資本の差異は棲まっている』ということなのだ。

 私が食味評論家の山本益博氏に感じていた違和感というのがそれである。つまり、いろいろな料理店でその店の味が良いとか悪いとか言っている山本氏が、じゃあそんなに人の作ったものを評論できるほどに子供の時からいいものばかりを食べていたのかと考えると、いくら北海道育ちだとはいえ「1948年生まれ」の山本氏が子供の時にそんないいものを食べていた筈はないのだ。子供の時にいいものを食べてこなかった人がなんで大人になってから、人の作ったものを評論できるのだろう。というのが私は疑問だった。人の「舌」ってそれだけ子供の時に出来上がるのだ。そんな意味で、もし1948年生まれの人で食味評論ができるのは皇族だけだろう、というのがその頃の私の考え方であった。

 それだけ、芸術とか、食事とかという感覚的な部分での感性ってものは、幼い時からの蓄積しかそれを育てるものはないということなのだが、それが最近日本でもそうした「階層」のようなものが出来つつあるというのが内田氏の観点なのである。

『東大生の一方には、幼少時から豊かな文化資本を享受してきた階層の子どもたちがいる。芸術作品についての鑑識眼が備わっているとか、ニューヨークとパリにセカンドハウスがあるとか、数カ国語が読めるとか、能楽を嗜んでいるとか、武道の免許皆伝であるとか、自家用ン外洋クルーザーがあるとか・・・・・・そういう豊かな文化資本を潤沢に享受してきた学生がいる一方に、ひたすら塾通いで受験勉強だけしてきて成績以外にはさしたる取り柄のない大多数の学生がいる』ということなのだ。つまり、日本にもそうした階層化社会が出来つつあるということ。「一億総中流化」ではないが、みんな例えば東大を出れば同じような機会が均等にあった社会から、あらかじめ、始めから「階層」として分かれてしまうような社会になって来ているのではないかという観察である。

 その意味で「負け犬」論はそれを後押しする論である。『「負け犬」は二一世紀のランティエ』という部分で、内田氏は『「負け犬」は二一世紀日本が生みだした新しい「ランティエ」(女性だから「ランティエール」だね)ではないだろうか』ということ。「ランティエ」(rentier)とは「(主に国債による)金利生活者」のこと。つまり『新しい芸術運動を興すとか、気球に乗って成層圏にゆくとか、「失われた世界」を探し出すとか、そのような冒険に嬉々としてつきあう人間は、「扶養家族がいない」「定職がない」「好奇心が強い」「教養がある」などの条件をクリアーしなければならない。(中略)結局、ヨーロッパ近代における最良の「冒険」的企図と「文化」的な創造を担ったのは、かのランティエたちだったのである』ということである。

 つまり、江戸時代までは士農工商という(実際はかなりユルい)身分制度によって「階層社会」が存在していた日本だが、明治になってそうした階層社会的なものは次第になくなっていき、第二次世界大戦の敗北によって皇族以外の階層がなくなってしまった日本という社会に、ふたたび階層社会が出来始めたということなのだろう。

「階級社会」という「ホット」でだれでも自由に階級間を行き来できる社会(だからこそ階級闘争なんでものも簡単に起きるわけだ)じゃなくて、その階層間の移動には数世代の関わりが必要になる「階層社会」というのは、いまや「成長しない」日本にとっては一番の方法論なのかもしれない。上には上の生活・文化があり、下には下の生活・文化がある。これは停滞する社会における、上および下のそれぞれの階層における自分たちの身を守るための方法論なのかもしれない。

 勿論、そんな社会でも「階級闘争」を行う人たちは出てくる。フランスの68年革命みたいにね。そこに期待しようかな。

 えっ、後半部分についても論評せよと? 後半は人生相談の形でやっている人生論なのです。で、人生相談というのは、内田氏自身も書いているけれども、要は相談者は実は殆ど自分でどうするか決めているのであって、そうじゃないまだ自分でどうしようとも決めていない人は相談してこないのだ。つまり、人生相談の当事者は相談者の方をポンと押せばいいのであります。相談者なりに「こうしたいんですけど」というのがあって、じゃあ「そうしなさい」と言ってしまえば人生相談はおしまい。この辺は内田樹だろうが加藤諦三だろうが同じ。ってことで、いいでしょ。

 さあ、暫くは内田樹とはお別れだ。本の大海はもっともっと広いぞ。

 

2011年2月 3日 (木)

なぜポストモダンの文章は難解なのかということについて

 ということで『ためらいの倫理学』第3日目は「他者/物語論」であります。

『ためらいの倫理学』(内田樹著/角川文庫/2003年8月25日刊)

『なぜ私は審問の語法で語らないか』と題する章では『正義と慈愛』『当為と権能の語法 岡真理『記憶/物語』を読む』『ラカン派という症候 藤田博史『人間という症候―フロイト/ラカンの論理と倫理』を読む』『「わかりにくく書くこと」の愉悦について アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞』を読む』『現代思想のセントバーナード犬』。『それではいかに物語るのか―ためらいの倫理学』という章では『「矛盾」と書けない大学生』『邪悪さについて』『物語について』『越境・他者・言語』『とほほ主義とは何か?』『ためらいの倫理学』という具合。

 つまり、まえ二つのテーマ「戦争論」「フェミニズム論」では多少まとまりを見せた「論」がこの三番目のテーマになると完全にそれぞれバラバラで、まとまりがなくなってしまった。まあ、それぞれ別々に発表した文章を本としてまとめたものなので、それはいたしかたがないが、だとしたら、この三番目のテーマはテーマとせずに、そのまま出してもよかったかもしれない。しかし、それでは書評を書こうにもかけないことになってしまうので、もう勝手なことを書くしかないのだ。

『「わかりにくく書くこと」の愉悦について』で内田氏は『「知」の欺瞞』というポスト・モダニストの悪口をかいた本を取り上げたのだが、『「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」と題する、ポストモダンの知識人たちの著作からの、数学、物理学に関する記述の(ソーカルによれば「まったく意味をなさない」)引用と「あらゆる科学は歴史的生成物にすぎず、仮想的な観測者は徹底的に脱中心化されなくてはならない」というポストモダン的常套句をコラージュしただけのおふざけ論文を「ソーシャル・テクスト」(アメリカのカルチュラル・スタディーズ誌)のレフェリーはなんと受理し、掲載してしまったのである』ということをもって、ポストモダンの思想家たちが、実は思想家自身が自分が書こうとしている主題について、自分自身が理解していない概念を用いてテクストを書いているのではないか、という疑問を呈する。

 つまり『偉大な思想家の考想を咀嚼するには、長期にわたる集中的な読書が必要である。その営みを支援するのに必要なのは、読解力よりはむしろ忠誠心である。知識よりはむしろ信仰心である。「偉大な思想家」とは彼を「理解できること」よりも「理解できないこと」の方から読者が大きな利益を引き出すことのできる思想家のことである。だから最初にいただいた「名刺」を机の前に貼って、「分からないけど、今日も読む」というのが「偉大な思想家」に対する正統的な読み方なのである』ということは、少なくともポストモダンの思想家のものを読んでも何が書いてあるか分からなくて当たり前であり、思想家の方も「そう簡単にわかってたまるか。書いている自分だって分からなくて書いているんだかんな」というスタンスでいるわけなので、私がポストモダンの思想家の書いたものを読んで理解できなくても何の問題もないということなのだ。

 確かに、モーリス・メルロ・ポンティやロラン・バルトも難解ではあったが、1960年代以降のフランスの思想家や哲学者が書いた本に比べれば、遥かに明晰であり明快であった。つまり、構造主義位までは私の読解力で追いつくことはできたが、ポストモダンの文章になるとまったくついていけなくなり、何が書いてあるのかまったく理解できなくなってしまったのだ。これは私の能力の低下であったと考えていたのだが、そんなことなかったのね。

 ああ、良かった。

2011年2月 2日 (水)

内田樹と上野千鶴子の違いってなんだろう

 で今日は二番目のテーマ「フェミニズム/ジェンダー論」であります。

『ためらいの倫理学』(内田樹著/角川文庫/2003年8月25日刊)

 フェミニズム/ジェンダー論の中身は『なぜ私は性について語らないか』と題して各項目は『アンチ・フェミニズム宣言』『「男らしさ」の呪符 上野千鶴子編『男性学』を読む』『正しい日本のおじさんの道 林道義『フェミニズムの害毒』を読む』『性的自由はありうるか? 飯田祐子『自己決定』を読む』『セックス・コンシャスネスの神話 上野千鶴子・宮台真司他『買売春解体新書』を読む』『「女が語ること」のトラウマ ショシャーナ・フェルマン『女が読むとき、女が書くとき』を読む』『性差別はどのように廃絶されるのか』という、ほとんどが書評の形をとって書かれている。

 しかし、内田氏は本当に上野千鶴子氏が嫌いなのだなあ。実はこの章はそのほとんどを費やして上野千鶴子氏批判なのである。つまり『フェミニストは、「男である」ことが私を愚かにしているドミナントな要素であり、それゆえ、それ以外のファクターがどう改善されても、私が「男である」限り、私は致命的な仕方で社会の実相を見誤り続けるであろうと主張する。百歩譲って、私はこの主張を認めてもいい。しかし、この命題を逆転して得られた、「女である」限り、フェミニストは社会の実相を洞察し続けるという命題については、私はこれを受け容れるわけにはゆかない』として、フェミニストが「女である」限り社会の実相を見誤ることがなく、男が「男である」限り社会の実相を見誤るという考え方を、ルカーチの「プロレタリアの目には世界は階級的に見え、ブルジョワの目には世界は非階級的に見える」というロジックの誤りとともに斥ける。そして『さまざまな社会的不合理(性差別もその一つだ)を改め、世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」を考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない』と結論づける。そうなのだ、内田氏の論理では『「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価ができるかを基準にして、私は人間の知性を判定している』ので、フェミニズムが主張するような「自己の絶対性」を信じて疑わない知性の低さを嘲笑っているのだ。

 しかし、その後の部分で『このまま性が商品的に扱われる実情がどんどん勢いづいてゆくと、やがてあらゆる変態行為や性倒錯を含む性商品が極度に日常化してしまい、あまりに日常化したあげく、誰もセックスに興味をもたなくなってしまう日が来る。そのような日が来ることを上野自身は待望しているように私には思えたからである。これは相当にラディカルな態度であり、私は上野のこのスタンスを支持する』として突如上野千鶴子氏支持に転じるのである。

 それは『どのような差別であれ、「差別について過剰に言及すれば、結果的に差別は強化される」、これは社会的差別についての私の経験的確信である』といいつつ、一方で『しかし、私の経験には同時に「過剰に言及される論件に人々はやがて飽きる」という知見も含まれる』として、やがてフェミニズムも飽きられてくるだろうという予言をしている。

 要は内田氏の上野千鶴子氏批判って、近親憎悪なのであった。もし内田氏が女だったらそれこそ上野千鶴子になっていたかもしれない。

 而して、今やフェミニズムを声高に唱える人々は(少なくともマスコミ的には)消え去り、カミング・アウトした性同一性障害者、オカマやホモ、ゲイやらゲイ風を売り物にした芸人がテレビに跳梁跋扈していることになってしまった。嗚呼、それは「女性解放」とか「性差別の廃止」ということとは何の関係もないのだけれどなあ。

 それはマスコミ人の(確信犯的な)間違いでしかない。

2011年2月 1日 (火)

『ためらいの倫理学』でも取り敢えずは「戦争論」から

 内田樹の最初の著書が本書の親本である。『街場の大学論』のついでに『疲れすぎて眠れ二夜のために』を買ってしまったのだから、もう仕方がないね、ってところで読んだんだが・・・。さすがに最初の単著だじぇに内容は多岐にわたる。

『ためらいの倫理学 戦争・性・物語』(内田樹著/角川文庫/2003年8月25日刊)

 つまり『なぜ私は戦争について語らないか』という「戦争論/戦後責任論」、『なぜ私は性について語らないか』という「フェミニズム/ジェンダー論」、そして『なぜ私は審問の語法で語らないか』『それではいかに物語るのか――ためらいの倫理学』という「他者/物語論」という三つの論理にこの本はわかれている。つまり、この三つの論理を一緒に論評出来るわけはないので、これはやはり論評も三つに分ける必要があろうということで、今日から三日は同じ本について語ります。

 ということで、今日はまず第一の課題。『戦争論/戦後責任論』であります。

 つまり、日本における「戦争論」あるいは「戦後責任論」がまるでなされていないというとろに内田氏はいらだちを覚える。

 それはそうである、日本は第二次世界大戦に負けたということで、それで戦争責任を果たしたと思ってる国家なのである。広島や長崎でアメリカの原爆攻撃を受けたじゃないか、それでアジアの国々に対する侵略的攻撃に対するオトシマエを受けたじゃないか、だから我々は戦争責任を果たしているんだというのが、ごく普通の発想である。そうでなくても、取り敢えずアジアに対しては借款やら国家支援でもってその独立やら自立やらを支援しているのである。あのGDPで日本を追い越した中国に対しても、日本はいまだに借款という援助をしているのである。これだけアジアの国々に一生懸命支援をしている日本が、なんで戦争責任を果たしていないなんてことを言われるんだろう、というのが普通の人の戦争責任論であろう。

 しかし、それは戦争責任ではなく、『「豊かな国から」「貧しい国」への資本(資産)の移動』というのにすぎない。少なくとも、そんな「貧しい国」の人たちはそんな風に考えているだろう。それも「資本の移動」である。ということは、我々はまたしても日本資本に収奪されるのだろうかという、疑心暗鬼にかかっても仕方がないということなのである。

 内田氏は文学的な方法で「敗戦後責任論」を言っているけれども、実はそんな文学的論議は別として、上記のような実質論としての「日本に対する戦争責任」論というものがあるのだ。

 第二次世界大戦が終わって65年が過ぎている。これを「もう65年」とするのか「まだ65年」とするのかはその人個人個人、その国民の思いだろうけれども、もうボチボチそんな「戦後論議」をやめましょうよという意見が出て来るのはわかる。しかし、65年なんてものは、国家の歴史から見てみればホンの一瞬かもしれない。少なくとも日本が2000年の歴史があるという人たちから見ればそんなもんであろう。

 だったら、その65年間の中で、そうたかだか65年の間に、日本人はアジアの人々に何をしてきたのか。1960年代のベトナムの人たちに何をしてきたのか、その後のフィリピンやタイ、ビルマの人たちに何をしてきたのか、考えればとんでもないことをしてきたのではないか。もっとも、それは自分たちが直接行ってきたことではないが、でも間接的には(あるいは会社的に直接的に)行ってきたのである。

 つまり、加藤典洋氏のような文学的敗戦後責任論の前に、戦後企業のアジア進出論議があって、そこでは「アジアの人々のため」という名の下に「アジア人収奪」が行われている現状がある。そっちの方が重要なんじゃないかと思うのだが、基本的には文学的な論議なのである。ことが文学的な論議である以上はいい。

 しかし、現に行われている「アジア人収奪」に対してどういう行動を起こすのか。それが文学者に問われているのじゃないだろうか。アルジェリア戦争の際にフランス文学者たちがおこした運動のようなものを、いま日本の文学者がアジアの同胞に対して起こすことは可能だ。まあ、しかし、そんなことは起きないだろうな。要は日本は今明確な「戦争」を行っているわけではないし、アジア人に対する収奪も巧妙な形で行われているわけなので、見えないわけなのだ。

 基本的に、資本主義の経営の在り方は「労働者の仕事の収奪」である以上、どこに行こうが、資本主義的な対外進出は「労働者の仕事の収奪」なのである。いまや社会主義はないということなので、対外進出は資本主義しかないじゃないか。

 ということは、敗戦後責任の取り方としては、日本が政体を変えて、天皇制廃止、共和制を実施し、最後には日本と言う政体を辞める、ということでしかないんじゃないか・・・と思えるんだが。

 それでも、我々は全然困らないよ。

 

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