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« 『女性兵士』と姦った自マン話なのだろうな、本当は | トップページ | 『江戸・東京』ったって、こんなもん? »

2011年1月 7日 (金)

所詮「『隣のアボリジニ』でしかないんだよな、我々日本人は

 上橋菜穂子といえば「獣の奏者」の著者であるし、ファンタジー小説の作家であると考えていたのだけれども、もう一方の彼女の側面として文化人類学者という部分もあったのだ。

『隣のアボリジニ―小さな町に暮らす先住民』(上橋菜穂子著/ちくま文庫/2010年9月10日刊)

 上橋氏のいう「アボリジニ論」は別に特別なものではない。要は、オーストラリア(という言い方も白人種の言い方なんだけれども)という地域における、人種偏見と人種差別と人種区別の問題なのである。

 北米では、取り敢えず先住民であるいわゆる「インディアン」は植民イギリス人によってまず取り敢えず排斥された。次にはアフリカ系アメリカ人でしかない「奴隷の黒人」が排斥された。要は、人種差別っていうのは「人種排斥」の歴史なのだ。

 それがオーストラリアでは違ったようだ。つまり、「先住民=色が黒いが、アフリカ系黒人ではない人たち」がいたということなのだ。つまり、オーストラリアの場合はアメリカの人種差別とはまた違った人種差別の方法論があったということなんだろうな。

 ということで、1960年代にはアボジニも正々堂々とオーストラリア市民なわけだ、しかし、だからこそ問題は起きるわけだ。つまり、それまでアボリジニたちが持っていた「土地」というのはどうなるんだ。ま、もっとも彼らには土地を私有するなんて発想はなかったわけだから、土地はみんなの共同体がなんとなくここは俺たちの土地だぞって、みんなで勝手に使っていたわけだ。

 考えてみれば、日本だって明治維新まではそんな土地所有制度だったのではないかな。田畑は持っていたが、それが自分の所有地だという発想はなかったのだと思う。所詮、その土地は領主さまに差し出す年貢米の生産地でしかないわけだ。当然、名主の持っていた土地とか、豪農の持っていた土地はあったのだろうが、それは一部分にすぎなかった。

 要は、「土地を私有する」という発想は、所詮ヨーロッパ的な発想でしかないということなのだ。大体、空気とか、海とかと同じように土地だって本来は私有できるのものではないはずだ。それを私有できるというか、地面に線をひけば土地境界線を作れるということが分かってしまったところから、こうした堕落が起こったのだろうな。

 その結果が、土地バブル崩壊である。そんな、何にもしないで土地を持っているだけで価値が増えてしまうなんてことが許されるはずはない。それが許されてしまう状況が1998年代にはあったのだろう。

 ちょっと日本の話になってしまったが、要は、オーストラリアの先住民である彼らも、自分たちの権利を十全には主張できない部分ももっているし、しかし、主張すべきところではあるし、それでも全部を主張してしまうと、白人植民者をすべて否定しなければならないということになる。個人的にはそれでもいいとい思うけど、現実的には難しいでしょうね。

 まあ、取り敢えずはこの本を読むことです。特に『獣の奏者』の読者は読んでほしい。上橋氏の作品の原点がここにあったのかという心境である。

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