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2011年1月13日 (木)

『哲学の教科書』って本当に教科書なのであった

『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』(ジル・ドゥルーズ編著/加賀野井秀一訳注/河出文庫/2010年12月20日刊)

『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』というタイトルからジル・ドゥルーズの初期論考かと思ったら、それは収められている一編『キリストからブルジョワジーへ』のみであって、後の一編『本能と制度』はまさに教科書、オルレアン高校教師のドゥルーズがまとめたマリノフスキーからマルクスまでの全66編にわたって、それぞれの人の哲学書からのアンソロジーなのであった。

『キリストからブルジョワジーへ』は訳注者加賀野井秀一氏の序文によればドゥルーズ21歳の時の処女論文であるそうだ。『人々は、現代社会における〈精神〉の破産を宣告しながら、唯物論の到来を呪っている』という書き出しで始まるその論文は『内的人間を市民に還元してしまうための卓越した試みである「社会契約論」において、一般意志は〈神〉のあらゆる特性をそなえているわけだ』『〈キリスト教〉と〈ブルジョワジー〉を結びつけているのは、偶然の絆ではないのである』という結びで終わる、いささか生硬な文章ではあるが、特別オリジナリティーに溢れているわけではない。

 まあ、もっとも現代哲学にオリジナリティーを求めてもそれは難しいことなのかもしれない。オリジナルだと思った論考ではあっても、どこかにその元ネタが必ずある現代において、哲学とは過去の文書を掘り起こしてそこにささやかな装いを施すだけのものなのかもしれない。そのささやかな装いこそがその哲学者のオリジナリティーでしかない。

 だとしたら、むしろ『本能と制度』のように過去の哲学書のアンソロジーの方に、現代哲学の在り方を見てしまうのは皮相な見方なのだろうか。『知性は、個体的な事柄である以上に社会的な事柄であり、社会的なものの内に媒介的な場を、つまり、知性を可能にする第三の場を見いだすのだ、という考えをはっきりと思いおこさねばならない』というごく一般的なドゥルーズ自身による『本能と制度』の序文とともに、ここではマルクスの『経済学・哲学草稿』からの『社会そのものが〈人間〉を〈人間〉として生産するのと〈同じ仕方で〉、社会もまた〈人間によって生産される〉』という言葉を孫引きして、本稿を終わりにする。

 しかし、こうした「哲学」の授業が高校にあるのはさすがにフランスである。日本ではせいぜいが「倫理社会」だもんな。こんな哲学の授業があったら、私ももう少し別の人生を歩んでいたかもしれない。

 学生の頃の私の映画評論の元ネタと言えばモーリス・メルロ=ポンティの『眼と精神』と『知覚の現象学』、それにロラン・バルトの『零度のエクリチュール』などの現象学や記号論であった。浅田彰や中沢新一らのニューアカデミズムに影響を与えたというジル・ドゥルーズにそこころ出会っていたら、私の映画評論ももう少し違ったものになっていたのだろうか。

 その、どちらが良いのかは分からないが。

 

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