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2011年1月

2011年1月31日 (月)

『進撃の巨人』はどこまで進撃するのか、というかどこまで進撃を抑えるのか

 今、講談社で一番売れているコミックスである。現在第3巻まで発売中。

『進撃の巨人』(諌山創著/講談社コミックス)

 中世を思わせる城塞都市は100年前に人を食う巨人の出現にあわせて、人を守るために作られた。50メートルもある壁のおかげで100年間は人間たちは安心して暮らせたが、5年前にその50メートルを超す超巨人が現れてから状況は一変し、ウォール・マリア、ウォール・ローゼ、ウォール・シナという三重の壁は、今やウォール・マリアという一番外側の壁は巨人たちに破壊され、ウォール・マリアで守られていた地域は今や巨人が跋扈する場所になってしまった。更に、そんな巨人にどんどん人が食われて行ってしまうので、、街(市?あるいは国?)の人口は減るばっかりだ。そんな逼塞する城塞都市における若者の闘いを描いたコミックスが『進撃の巨人』であります。

 昔、人と人が殺しあう時代があったとか(それが今の「巨人に食われてしまう状況」との関連はまだわからないがあ)、城塞に守れらた100年間の間にいつしか外部に対する興味を失った人たちは安寧の暮らしに慣れてしまって、ウォールの外がどうなっているのかを知る興味もなくなってしまっている。それが、5年前の突然の状況変化によってあわてふためくことになる、いわゆる突然の外圧ですね。って、まるで米軍の庇護のもとに65年の平和にならされた日本人が、今や前門の虎たるアメリカ流グローバル・スタンダードと後門の狼たる、中国やインド他アジア諸国の高度経済成長に挟まれて慌てふためきながら、しかし、減少する人口という状況の中でなんにも出来ない、何の対処もできない、何の対応策も生み出せない様にも似て、これはあたかも現在の日本のアナロジーではないかとも思える。

 まだ第3巻までなので、今後のストーリーはなんとも言えないが、今の日本の閉塞状況のような状態が次々描かれるのではないかという期待感がある。まあ、所詮コミックスだから、そんな日本の状況をそのまま伝えるということになったり、それに対する処方箋が書かれることはないだろうが、なんとなくアナライズしたくなる素材であることは確かである。

 これから、主人公(?)のエレンの父親がエレンに託した鍵のある地下室に行って(無事いければいいけど)、その鍵をあけると多分物語の秘密が全て明らかになるという仕掛けなのは分かったけれども、その「鍵の地下室」まで行くかどうかはこのコミックスが当たるかどうかにかかっているわけだ。つまり、当たっている間は、なかなかその秘密には届かないし、当たらなくなった時に、結構突然秘密にたどり着いて、さて翌号で終わり、というようなこともコミックスは「純文学」ではない以上あり得るわけであります。

 ということは、とにかく「鍵の秘密室」にいける時間が延びれば延びるほど、このコミックスが当たるわけで、私もそのほうを望むということになる。

 う~ん、秘密も知りたいけど、知りたくない気持ちもあるなぁ。

2011年1月30日 (日)

『街場の大学論』は何が狼少年なのだろうか

 昨夜はアジアカップ・サッカーの決勝戦を見てそのまま寝てしまい、ブログの更新をしないままにしてしまった。勝ってよかったね。ということで、今、日曜日の昼ごろ書いている。

 何故かアマゾンの商品リンクができないので、取り敢えず表紙の写真だけ。

『街場の大学論 ウチダ式教育再生』(内田樹著/角川文庫/2010年12月25日刊)

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 内田氏の『街場の』と題された著書は『現代思想』『アメリカ論』『中国論』『教育論』『メディア論』『マンガ論』とこれまでに六つあり、この『大学論』で七つ目なのだが、これまでの『街場論』とは異なり、この本は書き下ろし(ってブログに先に書いてるので、厳密にいえば「書き下ろし」ではないが)ではなく、『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』(朝日新聞社/2007年2月刊)という親本があり、その文庫化なのであった。

 で、何が『街場』なのかと言えば、多分それはブログなどで先に書いていて、それはかなり書き飛ばし風なので、所詮それは「街場の話題」レベルですよ、ということで「街場論」なのだろう。そういえば、この『街場の大学論』に書かれている話題も、その後の内田氏のブログなどでも再三触れられている話題がいくつか見られる。とは言うものの、その話題にされている問題が未だに解決されていないのだから、それも仕方のないことなのだろう。

 特に『第4章 大学がつぶれてしまう』に書かれている論考は、一昨日書いた『沈む日本を愛せますか?』で書かれたのと同じ発想で、つまり、日本人口が減っているのだから、これからは日本中が「ダウンサイジング」というものを発想の原点にして、すべて考える必要があり、大学も同じであって、要は入学定員を減らし、そうして減らしても大丈夫なように大学教職員も生活を考えながら対処しなければならない、というものである。しかし、「ダウンサイジング」というものは企業経営者にはなく、大学経営者も結局は企業経営者と同じであるということ。経営者のアタマには「右肩上がりの時代」と同じ悪しき前年比主義しかなく、そうした発想をしている間は入学定員削減なんてことは不可能である。そんなことをしている間に、例えば2009年には5校の大学で募集停止=大学破綻ということになってしまっている。

 こうした「破綻大学」は低偏差値の新設大学であればあるほど、その危険性を増している。それは、こうした低偏差値の新設大学であればあるほど、より学生を募集しようとして新設学部・学科を作ったり、施設を作ったりして設備投資をするのだが、そんな大学を卒業したってロクな就職先もなく、そんな大学には誰も入学しようとせず、入学生が少ないので、大学側はまたまた新設学部・学科を作って対処しようとする、という負のスパイラルに陥っている。

 まあ、神戸女学院大学のような古くからある名門大学やマンモス大学では喫緊の話題ではないが、それに早いところから気付いて大学に入学定員の削減を提案するあたり、内田氏も冴えている。

 もうひとつ、この本で興味を持ったのはいわゆる「マッドサイエンティスト」問題である。マッドサイエンティストのような学者は多分私立大学よりは国立大学の方に多いだろうが、こうしたマッドサイエンティストの存在が否定されてきているというのは問題だ。大体突然変異的なことを発明したり、誰も研究しないようなことを研究し続けている「変な教授」の存在が日本の大学を豊かにする。まあ、こういう人は学生の教育なんてものにも興味はないだろうし、大学内での出世なんてことにも興味はないだろうから、大学からしてみればある種の「お荷物」なのだけれども、こうした「お荷物」くらいは飼っておける余裕が大学と言う組織には必要なのだろう。って、実は企業にもこうした「お荷物」的な社員はいるわけで、そうした「お荷物」も企業文化を育てるには必要だということ。これは企業以上に「文化」を大切にする大学と言う組織には必要なのだ。

 ということ。

 で親本はこちら↓

2011年1月29日 (土)

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』というタイトルには何の意味もない

 実はこの本を読む予定ではなかったのである。がしかし、読む予定だった『街場の大学論』のすぐ脇に置かれてあったこの本を一緒に取ってしまったのだな。つまり「著者の新刊と一緒に旧刊も置いておけば、新刊と一緒に旧刊も売れます」という、普段我々が言っている書店あての販売促進テクニックに、私自身がハマってしまったということ。

 ということで今日は『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹著/角川文庫/2007年9月25日刊)ということなのだ。

 しかし、このタイトルはいい加減すぎないか。「疲れすぎて眠れぬ夜のために」ってカバーを見れば「For a Hard Day's Sleepless Night」って、それはビートルズの「A Hard Day's Night」のもじりでしょう。だとしたら、その訳は「眠る暇もない毎日」なのだから「For a ~」の方は、やはり「忙しくて眠る暇もない夜のために」って同じことじゃないか。「疲れすぎて~」っていう部分はどこにもない。まあ、そこに内田氏の書きたいところがあるというのはわかるんだけれども。

 この本は、内田樹氏の他の本とは違いブログを元にしたものではなく、内田氏が喋ったことを元にして、それを後に書き文字から内田氏自身が書きなおしたというものである。だからどうだというものではない。いつもの内田氏の論考でしかない。おまけに、言っていることが全部同じという全く260ページも使って言うことなのか、ということもある。まあ、いつもの内田氏の論考であることが読者をして安心させるということなのだろうか。

 ということは、周辺はいろいろ変化しているのだけれども、内田氏は全然変化していないということなのだ。それじゃあ面白くないな。我々が期待するのは、いろいろな周辺事情によって変化する内田氏の「思想」なのだ。

 周囲の事情や、社会変化や、経済事情、政治変化によっても変わらない「思想」なんてものはあり得ない。「思想」というものは、その時の社会の変化によって融通無碍に変わっていくものなのだ。

 「思想家」というものはそういうものだろう。社会が変わっていけばそれに合わせて変わっていく思想家というのがあってもいい。しかし、意外とこの内田氏って頑固なのかなあ。ブレないのである。

 なんとなく「ブレない」のがいいという風潮になっているこの世の中であるが、それは政治家の問題であって、政治家はブレては困るのである。つまり、政治家は選挙民が選ぶのであるから、たんびブレては選挙民が困ってしまう。今回はこいつに入れよう、でも次回はこいつだぜ、みたいに選挙民が簡単に候補者を選べる方法を、政治家は作らなければいけない。ということは、政治家はブレてはいけないということなのだ。

 しかし、評論家とか、いわゆる「言論の人」はいくらブレてもいいのだ。つまり、自分の言論に対して責任はないからね。

 内田さん、もっと、言うことがブレてもいいんですよ。もっとブレよう。

 ま、もっともそこでブレた内田氏を、私達はまたそこで「ブレたんじゃんかよう」といって批判するんですけどね。そこがプロ(の言論家と)とアマ(の一ブロガー)の違いですけれどもね。

 

2011年1月28日 (金)

『沈む日本を愛せますか?』って、愛せるわけないじゃん。他の方法でね。

 いかにも内田樹氏と高橋源一郎氏の対談の形をとっているけれども、実は(社長にして)編集長の渋谷陽一氏の誘導尋問に二人とも引っ掛かっているのだ。誘導尋問に引っ掛けて、オイシイところは全部持っていてしまうのが出版社な訳だ。

『沈む日本を愛せますか?』(内田樹・高橋源一郎著/ロッキング・オン/2010年12月10日刊)

 日比谷高校で高校生運動をやっていて中退し、一浪して1970年に東大に入った1950年9月30日生まれの内田樹と、灘高校で70年の灘高闘争は別の高校からの外人部隊が中心だったという大ウソをこいた1951年1月1日生まれで内田樹と同じ1970年に一浪して横浜国大に入った高橋源一郎が、1951年6月9日生まれで明治学院大学に(もしかして、高校生運動にも参加せずに現役で)入った渋谷陽一にのせられて、目いっぱい渋谷の論理に乗ってしゃべったのがこの本である。

 まあ、話している内容は大体あっている。つまり『第1回 さよなら自民党。そして、こんにちは自民党!?』『第2回 「理念の鳩山」と「リアルの小沢」、何ができる?』『第3回 民主党政権で、「友愛」社会主義国家が誕生する!?』『第4回 小沢一郎は、「敗者のポジション」を選んででいる』『第5回 鳩山さんが首相で、本当によかった』『第6回 我々は、「たそがれよ日本」を提唱する』『総括対談 沈む日本を愛するために』ということなんだけれども、最初の自民党から民主党に政権が移ったところを捉えて、これは国民が自民党をやめて自民党みたいな民主党を選んだのだというところはけだし名言。

 確かに、日本国民はもうそろそろ自民党みたいな政治はやめて少し違う政治をやってもいいのかなと考えたところに、ほとんど自民党みたいな政治をやりそうだけれども(だって、小沢さんがやってるんでしょう)、すこし違うことをやりそうな民主党を選んだというところは大正解。ただし、その後の政治のやり方は自民党と変わらないじゃないかといって怒るのは間違っているよね。だって、自民党と変わりがなさそうだから選んだ政党なんだから、そこが自民党政治と変わらないことをやったからって、そんなことは当然じゃないか。沖縄はそのまんまでおいてしまいそうだし、増税路線も行ってしまいそうだし、自動車道(高速道路じゃない!)の通行料も自民党時代のまんまだし、もうまんま自民党路線。

 おまけに菅直人は「開国」だとかなんとか言って、二国間交渉による関税撤廃という本来あり得る方法ではなく、TPPとかいう実に問題がある方法で「日本開国」を進めようとしている。まあ、「沈みゆく日本」にたいして誰も責任を負おうとしない政権やらメディアならではの光景だはあるのだけれども、いいのかそれで、という思いにもなる。

 まあ、これから日本が再び「右肩上がり」になることはまずないだろう。とにかく、出生人口が減っているところに、外国人にたいする差別的扱いがいまだに残っている。人口減が怖いなら、どんどん外国人の日本帰化を進めればいいじゃないか。アメリカはいまだに人口が増えているのだが、その理由は海外からの(メキシコからの不法入国も含めて)移入人口なのだ。なんで、この「豊かな日本」がそれをできないのかが不思議である。

 内田・高橋論議も問題はそこにとどまっている。問題は「いまここにる日本国籍の人」だけじゃなくて「いまここにいる日本人(つまり、日本に住んでいる人、日本で仕事をしている人、不法入国・不法就労している人たち)すべて」すべてを日本人にしてしまえばいいじゃないか。そうすれば、また「右肩上がり」の日本が復活するかもしれない。当然、そういう社会では「日本で両親が日本人であったがために日本人であるという本来の日本人」が優遇されることはない。当然である。そこはグローバルスタンダードが幅を利かせる社会であるから、世界中から日本に来た人が競争相手である。

 まあ、これはしょうがないね。これからは、日本人もそうした(アメリカ流かもしれないが)グローバルスタンダードの世界で生きなければならないということを承知しなければならないのであろう。

 内田氏や高橋氏はもう「あがり」の人たちだから、いまのまま「右肩下がり」でいいのかもしれないが、これから生きなければいけない人たちにとってはそうはいかない。そう簡単に「右肩下がり」の社会での生き方なんかを言ってはいけないのだ。

2011年1月27日 (木)

『センセイの書斎』は超アナログなのであった。いいですね。

 やはり「本を書く人」は「本を読む人」でもあるのだ。

『センセイの書斎 イラストルポ「本」のある仕事場』(内澤旬子著/河出文庫/2011年1月10日刊)

 内澤氏のイラストルポに取り上げられたのは『林望:書誌学者・作家/荻野アンナ:作家・フランス文学者/静嘉堂文庫:図書館/南伸坊:イラストライター/辛淑玉:評論家/森まゆみ:作家/小嵐九八郎:作家/柳瀬尚紀:翻訳家/養老孟司:解剖学者/逢坂剛:作家/米原万里:作家・同時通訳者/深町眞理子:翻訳家/津野海太郎:編集者/石井桃子:児童文学者/佐高信:評論家/金田一春彦:国語学者/八ヶ岳大泉図書館:図書館/小沢信男:作家/品田雄吉:映画評論家/千野栄一:スラブ語学者/西江雅之:言語学者/清水徹:フランス学者/石山修武:建築家/熊倉功夫:茶道史家/上野千鶴子:社会学者/粉川哲夫:メディア批評家/小林康夫:フランス文学・哲学研究者/書肆アクセス:新刊書店/月の輪書林:古書店/杉浦康平:ブックデザイナー/曾根博義:日本近代文学研究者』の27人の「本を書く人」と、2つの図書館、1つずつの新刊書店と古書店である。

 こうした俯瞰で部屋を描いたイラストを見ると妹尾河童氏の仕事を思い出す。最近、妹尾氏の仕事を見ないなと思ったら、こうして新しい人が出てきているんだな、それも妹尾氏の仕事よりずっと細かい作業だ。なんだ、この「みっしり」感はというところである。いやあ、細かい仕事、というかこの細かさはなんかパラノイア的だな。すごい。絵の細かさもすごいが、さらにそこに書かれているどんな本が収蔵されているかということが、細かくイラスト周辺に書き込まれている。

 そんな内澤氏によれば本の整理方法にはいくつかあり、内澤氏の分類によれば『1 大量の本を、どう並べるのかに腐心する』『2 並べない、見せない、もしくは整理しない』『3 場所をいくつも持つ』というもの。しかし、2あるいは3の方法であっても、所蔵している本人にとってはどこに何があるのかは大体わかってるというのが、図書所蔵のキモなのである。そうでなければ、「書く人」が参考資料を探すことはできないのだ。ということは、それぞれの人によって、多分アタマの構造が違っていて、発想の方法が違っていて、ものを考える仕方が違っていて、そのそれぞれの人のやり方で、資料を見つけられるし、結果としてモノが書けるということなのだろう。

 つまり、図書所蔵の方法は、その人によってのモノの考え方の違いということなのだろう。

 しかし、こうしてどんどん増える図書所蔵って、結局は電子書籍推進派からは「だから言うでしょ」と攻撃されてしまいそうだが、絶対少なくはならないのだ。なぜならば、実体としての本を持っているというのは、「曖昧検索」とか「なんとなく検索」というような、本を探すということ自体が持つ脳刺激を支えていることなのだ。これが電子書籍の「検索」とは違うところである。電子書籍の「検索」とは、それ自体が完結した行為なのだが、実体書籍の「検索」というのは、それ自体が思索的な作業であるということである。

 まあ、まだまだ電子書籍ってのも自体書籍ほどには、力を持っていないということである。まだその辺が電子書籍の限界ですね。要するに「図書」というものをアナログに捉えていないというか、「図書」の融通無碍なところをキャッチできていないというところだろう。

 ここが、電子書籍の「キモ」だ。

2011年1月26日 (水)

『暴力団追放を疑え』なんて言われなくたって、始めから確信してますがな、コリャ利権だなって

 要は警察も役所だし、警察官も役人だということでしかない。まあ、タチは悪いけどね。

『暴力団追放を疑え』(宮崎学著/ちくま文庫/2011年1月10日刊)

 基本的には暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)に対する宮崎氏の「私怨」なのだが、同時にヤクザを排除する社会に対する「公憤」でもあるのだ。

 私怨は福岡県警による言論統制ともいうコンビニに対する『暴力団関係書籍等が青少年に多大な影響を与えている現状をご理解いただき、各店舗において適切な措置を講じていただきますよう、特段のご配慮をお願いいたします』という強制を行ったわけだが、その対象図書に宮崎学氏が原作を書いたコミックが入っていたということ。

 公憤は『法務省が0七年に発表した「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」には、「反社会的勢力」とは「暴力、威力と詐欺的手法を駆使して経済的利益を追求する集団又は個人」と定義されている。すなわちヤクザとその周辺、右翼のある部分、カルト集団などいろんな「悪い人」たちがいっしょくたにされている。だが、この定義はかなり広義で曖昧である。これでは特定の企業や個人が「反社」なのかどうかは判断できない。これはかなり危険なことである』という憤りである。つまり、その対象団体が「反社会的」であるかどうかは誰が決めるのか。警察である。つまり、これは完全に警察ファッショなのである。

 おまけにそうした曖昧な定義付けをしておけば、そこが「反社会的」かどうかは警察が判断しなければならなくらるために、その判断をするための組織・個人に警察OBがなれるのである。要は、天下り先の創生。これまでのパチンコ、風俗などしか天下り先のなかった警察が、ここにきて多くの天下り先を作り出しているというのである。まったく懲りない役人根性というものである。

 結局、そんなヤクザ対策をしていても、決してヤクザはなくならないし、むしろどんどん地下化していって、警備が難しくなるだけなのだ。しかし、まあ難しくなればなったで警備予算をますます分捕りやすくなるだけなので、警察は困らない。

 結局『暴対法は、当初は「山口組対策法」と呼ばれた。だが、施行から十五年あまり、山口組は壊滅しただろうか。むしろ「四万人軍団」と呼ばれる組織に成長した』というように、ヤクザというものは反社会的存在かもしれないが、一方社会から必要とされている部分もあるのだろう。警察とヤクザのイタチごっこが延々と続くわけであるが、だったらそれこそ佐藤優氏が言うように『「例えばヤクザが「暴対法に賛成します。ついては警察、検察、自衛隊も暴力団に指定して、暴力団のヒエラルキー(階層)をつくってください」と言う」ことを提案する』のだそうだ。そのくらいのことをしないと権力とは闘えないというのだ。

 うーむ、そりゃ面白い。自衛隊のことを「暴力装置」といった仙谷氏あたりが提案すれば面白い。まあ、まさに警察も自衛隊も国家の公認する暴力装置だもんな。

2011年1月25日 (火)

『電子本をバカにするなかれ』って、バカにはしてないですよ。邪魔にはしてますけどね。

 というタイトルではあるけれども、本書は電子本のことを書いた本ではない。電子も含めて「活字本」についての本なのである。活字本についての本ということであるならば、1月21日のブログ『電子書籍奮戦記』も一緒に読んでください。合わせて、同じことを言っている本なのであります。基本的には、電子もパソコンやケータイや電子書籍端末も、所詮「活字本」でしかない、ということ。

『電子本をバカにするなかれ』(津野海太郎著/国書刊行会/2010年11月25日刊)

 つまり、紙の本であろうが電子本であろうが要は同じ「活字で書かれたもの」を読んでいるのだ。津野氏が言うのはそんな「活字」ができる前と、「活字」がなくなってしまう後の世界である。活字(あるいは文字)というのは要は記号であり、記号というのは「話し言葉」をどうやって記録・記憶しておくための道具でしかない。そんな「文字」のない世界という時代があったわけだし、これから先「文字」が禁じられる世界が来るかもしれない、それはだれも予想できない世界だし、予想したくない世界かもしれない、しかし可能性の予測としてはあるのだ。まさに『華氏451度』の世界である。

 津野氏は本書における根本的な基準として四つのポイントを挙げている。それは;

『①いまの本や出版の電子化を。書物史、さらにいえば人類の茫々たる文化史・文明史の流れのうちに位置づけ、それを研究者やジャーナリストや企業人のことばとは別の性質のことばで語るべくつとめる。

 ②「電子本が勝って印刷本が負ける」といった類の単純な見方はとらない。そうではなく、本が歴史上はじめて二つの流れに分岐し、印刷本(物質の本)と電子本(物質ではない本)という二系統の本の長い共存の時代がはじまったと考える。

 ③これまで印刷本には「社会の知の水準を粘りづよく保持する」という重い責任が負わされてきた。その責任をこれからは電子本も分担することになる。それがやがて電子本が本の伝統をひきつぐ正統性の根拠になっていくだろう。そのことなしでは、つまりビジネス・レベルだけでは「電子本の時代」はスタートしえない。(電子本の力をバカにするなかれ。まだまだ「元年」などではないぞ)

 ④本や読書の習慣がほろびることはない。ただし私たちが生きた二十世紀という時代は、五千年をこえる本や読書の歴史のなかでも、きわだって特殊な(例外的な)時代だった。私たちが当然のこととしている本や読書についての考え方も、この特殊な時代の気風を色こくひきずっている。そのことをさめた頭でみとめる必要がある。』

 ということである。

 いまの若い人が「活字離れ」を起こしているという話があるが、実はそれは単に「活字が印刷されている雑誌・書籍離れ」でしかないわけだし、活字に対しては今の若いひとたちはパソコン、ケータイでもってますます「活字好き」になっているのだ。

 むしろ、老年世代の方が本も読むスピードも遅れてきているし、パソコンの画面も見ないし、ケータイなんてとてもじゃないが見られない、新聞もあまり読まなくなってきて、老年世代の「活字離れ」の方が問題なんじゃないか、と思うのだが。ほんとに、今の「若者は活字を読まない」なんて行っている老人が、じゃああんた月間に何冊本を読んでいるのよ、と問いたい。毎日が日曜日の老年世代だったら月間30冊くらいは読んで当たり前でしょ。それが月間数冊ではしょうがないでしょ。もともとそんな老人は本が好きではなかったのだ。そんな奴が「今の若いものは本を読まない」なんて言ってもね・・・どうしようもない。

 出版産業が今後は小さくなるのはしょうがない。これは時代の要請なのだ。問題は、産業としての規模を縮小する出版産業の中で、生き残る「活字産業」はあるのか、ということなのである。「紙の本」であると「電子の本」であるとにかかわらず、取り敢えず「活字」がある限りは「出版社」というものはあり続けるわけで、どうやって出版社が生き残るというのは、今後出版社を経営するものの中で考えなければならないものなのだろう。

 まあ、そんなことを考えなくてもいい私の状況もラクではありますけれどもね。

 

 

 

2011年1月24日 (月)

『電子書籍の正体』なんてものはない。ただメディアがあるだけである。

『ウェブを炎上させるイタい人たち』(中川淳一郎著)や『ネットがあれば履歴書はいらない』(佐々木俊尚著)などの新書を出していた宝島社の別冊宝島から出たのが『緊急出版 電子書籍の正体 出版界に黒船は本当にやってきたのか!?』というのだからお笑い草だ。

 内容は『一企業の都合で表現の自由が侵害される!? アップルが振るう大ナタ「配信拒否」は恣意的な「検閲か!?』『5分でわかる! 業界地図 早くも錯綜した電子書籍界のリアルとは』『インタビュー・宮部みゆき 私が電子書籍に積極的になれない理由』『電子書籍で新刊を出した 京極夏彦と出版社のホンネとは?』『[特別寄稿]上村八潮 電子書籍”ブーム”が終焉を迎える前に』『サラリーマン金太郎の暴走!?』『CEATECにも登場! 日本初の電子書籍 日本の電子書籍業界の未来を徹底検証!』『これでは儲からない 電子出版ビジネス コストと収益構造徹底解剖』『「TWITTER社会論」著者 津田大介・せいぜい「紙媒体の5%」電子書籍の時代はまだ遠い』『フローチャートで一目瞭然! 電子書籍が儲からない6つの理由』『「iPad」電子書籍のランキング徹底分析 115円が350円になったら売れ行きガタ落ち』『電子書籍は紙の本の広告だ!』『これが本当に未来の出版スタンダード? 話題のセルフパブリッシングが書き手にもたらす、「あまり明るくない」未来』『電子書籍の購入者 100人のアンケート』『決済問題から見る 電子書籍の暗い現状』『電子書籍博物館 開発者・ボイジャーの”第1号”と”それから”』『「もしドラ」の著者、電子版を語る 作家・岩崎夏海氏』『権利争奪戦で疲弊する制作現場 電子雑誌の著作権はどこにある』『コンテンツメーカーの収益はどうなる? 日本版電子出版「課題山積み」を際立たせた三省共催「デジタル懇談会」』『業界団体も端末メーカーも死屍累々 電子書籍 失敗の歴史『新聞社が思い描く電子書籍戦略 その「いかんともしがたい」甘さ』『電子書籍、常識のウソ 知られざる思い込みと落とし穴』『「使わないiPad」を買ってしまった人たちの”その後”』『ゆとり教育の二の舞? 官・IT業界主導の電子教科書導入の愚』という具合。

 この内容から見るに、宝島社としては当初電子書籍は「儲かるかもしれない」と思って目をつけたが、印刷、製本、配送、在庫なんてものがないから良いかと思ったものの、実は意外にコストがかかり、なおかつたいして売れないし、おまけにプラットフォームからは「検閲」めいたことまでされるのか、こんな電子書籍ならやらない方がいいっ、てことでこのムックを企画したのかな、という宝島社内部のお話が透けて見えてくる。

 そうなのだ、宝島社は電子書籍という新しいメディアの出現にたいして「もしかしたら儲かるかもしれない」というスタンスで近づいたのである。まあ、企業であるから「儲かるかも」というスタンスで新メディアに近づくことは間違っていない。しかし、もっと早くに気がつくべきなのである。このメディアで稼げるのはプラットフォームだけであるということに。結局、プラットフォーム企業が始めた事業であるのだから、プラットフォームだけが儲かる構造になっており、それ以外の参加企業は儲からないということなのだ。

 むしろ、宝島社というメディア企業はもっと別のところに目をつけるべきなのだ。つまり、今電子書籍で一番読まれているのは何なのかということ。実は紙で「出ている」本は何も電子でもって読みたいなどとは誰も考えていない。電子じゃないと読めない本。つまり今出ていない本なのである。要は、宝島社にもあるでしょ、出版社が「品切れ重版未定」のまま放ってしまっている本、あるいは絶版本なのである。こうした本たちを生き返らせる方法が電子出版なのである。あるいは、青空文庫のように著作権が切れてしまった名作とか。

 つまり、そうした「金にならない本」が電子出版の本命と言える。電子出版に可能性があるといえばそうした儲からない分野である。既に、少量部数しか出版できない理工専門書の世界では、最早電子で出す(パソコンが多いが)ことが当たり前になっている。そんなのが実は電子書籍の一番有力な出版物なのである。

 要は、電子書籍は「黒船」なんかじゃなくて、ひとつの新しい、しかし小さなメディアの出現にすぎない。その小さなメディアであるからこその成功方程式は「儲からない」けど、誰でも出来るメディアの存在ということなのだ。だからこそ、逆に普通の素人でも本を出したければ出せるということなのだ。売れるかどうかは別だけれどもね。まあ、これは自費出版の一ジャンルなのだ。であるからこそ、この新メディアの存在価値はあるのだ。

 つまり、そういうことである。何も大袈裟に『電子書籍の正体』なんて本を出すほどの問題ではないのである。宝島社もそんな「電子書籍にについて語るブーム」に乗って出したムックというだけのことである。

 ああ、買って損した。

2011年1月23日 (日)

音羽チャイナタウン

 音羽にもチャイナタウンができそうな雰囲気がでてきたのですよ。というか、皆さんの家の周辺になんか中華料理屋が増えてきたとおもいませんか? なんか、中国人の社会への浸透の速さってすごいなと思うのです。

 私の勤め先のある文京区音羽の周辺にも着実に中国人が進出しつつある。以前は日本人のおばさんが経営していた中華料理屋が、いつの間にか中国人が支配するようになったのはいつごろだろうか。

2011_01_23_034_2ここがその店。いまでも経営者は日本人のおばさんみたいだが、いまや実質的に中国人の若い人が運営している。

 そのまま、ざっと中国人が働いて経営しているらしき店をご案内すると;

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2011_01_23_037_2_2 などなど、いくらでも出てきます。

EPSON RD1s+Elmarit 28mm / (c)tsunoken

 とまあ、いっぱいあるんですね。このうち、陳麻家だけはチェーン店だから何とも言えないが、でもそのチェーン店の経営者が中国人かもしれない。というか。この店も働いているのは中国人なのである。まあ、味はそれぞれの店に行ったけどそれなりの味ですね、としか言いようはない。つまり、どこに行ってもたいして味は変わりはないということだ。格別おいしい店もないし、特別不味い店もないしということ。それはそうだろう、そんなに「中華の達人」みたいは人は多いわけじゃないし、そんな「達人」が音羽あたりで仕事をしているわけないじゃないか。「旨い中華料理を食べようと思ったら、それなりの店にいかなければね」という当たり前の事実に行きあたるのである。そりゃそうだ。

 まあ、池袋チャイナタウンから至近の距離にある音羽だし、オフィスも多いし、おまけに周囲にはマンションがいっぱいあって住民が多そうだ、という程度のマーケット・リサーチで出店したと思われる中華料理屋さん、はたしてそのどれほどが生き残るのであろうか。

 まあ、こうして「中華料理屋」から出発して中国人の世界進出というのが始まるというのは、世界の至ることろで我々が目にしてきたところであるのだけれども、その後、こうした中国コミュニティってのが日本でどうやって発展していくのかは状況を見据えなければならないだろう。横浜のような密集度はないけれども、こうして日本社会にだんだんと進出してくる中国人社会が、日本の社会にどういった変化を求めてくるのかを見てみたいものだ。日本に同化する方向なのか、あるいはどこかで中国人としてのアイデンティティを求める方向に行くのか。

 いずれにせよ、もはや日本の社会の中で一定の位置を占めている中国人である。彼らの発言というものも、これからは重要視しなければならないのであろう。

2011年1月22日 (土)

『ソーシャル・ネットワーク』って繋がらない人たちの映画なのです

 悪役が主人公って、いかにもデビッド・フィンチャーらしい劇作である。

『ソーシャル・ネットワーク(the social network)』(監督:David Fincher/脚本:Aaron Sorkin/原作:Ben Mezrich "The Accidetal Billionaires")

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 まあ、FACEBOOKの共同設立者であるが、マーク・ザッカーバーグと抗争していたエドゥアルド・ザヴェリンの側から描いてある映画なので、それもしょうがないかなというところなのだけれども、でも、やっぱりデビッド・フィンチャーだよな。ちょっと変な映画。

 それにしてもこの台詞の洪水は何なのだろうか。ファーストシーンの主人公マークとガール・フレンドのエリカの会話からして台詞でいっぱい。耳で聞くだけでは十分理解できない私の程度の語学力では字幕を目で追わなければならないし、目の玉が上に行ったり下に行ったりと忙しい。しかし、台詞では「パロアルト」と言っているのに字幕では「西海岸」なんていって、『ソーシャル・ネットワーク』の観客はパロアルト程度の場所のことも知らないと思っているのだなこの配給業者は、なんて腹を立てても仕方がない。まあ、そんな程度の語学力しかない私がいけないのだけれども、だから外国映画は好きになれない。

 で、実は私もFACEBOOKの会員であるのだが、これが殆ど幽霊会員であって、FACEBOOKってどんなものだろうという興味だけで登録して、ちょこっとサイトの様子だけをみてその後そのまま、という状態であったのだが、そうなると結構FACEBOOKはうるさく「最近アクセスがありません」なんてメールを送ってくるのだ。「うるせえな」とも思うのだが、そんなに世界中の人たちがネット上で繋がりたいと思っているのだろうか。

 現在、FACEBOOKの登録者は全世界で5億人だそうである。英語でのコミュケーションがFACEBOOKの基本なのであるから、日本人がFACEBOOKじゃなくていまだにmixi他の日本のSNSを利用している、というのは分からないではないが。でもそうなのだろうか。FACEBOOKが基本英語のコミュニケーションとはいっても、各国それぞれの言語で各国民がそれぞれで繋がっているのではないか。ドイツ人はドイツ人どうし。フランス人はフランス人どうし、というわけだ。英語が使える人はアメリカ人とかイギリス人とコミュニケーションしているかもしれないが、結局は5億人のうちのほとんどはアメリカ人どうしのコミュニケーションなのだろう。

 さらに、ネット上の繋がりったって、それはあくまでもバーチャルなものでしかないし、FACEBOOK上に書かれたプロフィールだって本物かどうかなんてことは誰もわからないのだ。その意味では匿名でのコミュニケーションが可能なmixiやモバゲーだってFACEBOOKだって変わりはなのだ。しかし、それだけ実体社会における人と人の繋がりが希薄になったということなのだろう。隣近所や会社、学校というコミュニケーションの場所はどうなっているのだろうか。本来、もっともっとコミュニケーション出来る場所は今でもたくさんあるのに、それができないというのは、それだけ皆が不器用になっているのだろう。同じ社会(隣近所、会社、学校)にいても自分と同質の人とじゃないと会話ができない、という不器用さ。そんな不器用さが、こうしたFACEBOOKとかmixiとかのSNSを通じて自分と同質の人間を探しながら繋がっていくというのだろう。本来は自分と異質な人間とのコミュニケーションが大事だとは思うのだけれども、今はそうではない。

 そんな不器用な人間の代表がこの映画の主人公にして実在の人物、マーク・ザッカーバーグなのだろう。コンピュータ・オタクとして描かれている筈のマーク・ザッカーバーグではあるけれども、我々が見る限りそんなヲタクには見えない、せいぜいオタク程度である。でも、映画はそんなマークを他人とのコミュニケーションが下手なヲタクとして描いている。特に、エドゥアルド・ザヴェリンとの関係はその通りだ。結局、マークはエドゥアルドとは袂を分かって、Napstarの創設者であるショーン・パーカーと近づき、そのショーンも麻薬所持でFACEBOOKを去ることになる。

 最後にマークはエドゥアルドとの損害賠償交渉を行っている弁護士事務所の一室で、元カノのエリカ(実は彼女もFACEBOOKに登録していたのだ)にあててメールを送り、その返事を待ちながら何度も更新のクリックをするところで映画は終わる。実は、マークとエリカの付き合い方もかなり不器用な付き合い方だったのだ。

 え、結構普通の終わりかたじゃん、フィンチャー映画にしては・・・。

 なのでありました。ハリウッド風サスペンスかミステリー調に作っているのかと思ったら、意外とそうじゃなくて、マトモに普通の映画として作っているなという感じがしました。それで映画を成立させてしまうのは、さすがにデビッド・フィンチャー。

 映画の公式サイトはこちら→http://www.socialnetwork-movie.jp/

 原作はこれ→

2011年1月21日 (金)

よくわかる『電子書籍奮戦記』なのであった

 昨日はすみません。取り敢えず引用しようと考えて表題を書いたのだけれども、その後、書く内容の方向性を決めて、そのままに書いた気になって寝てしまったのだった。しかし、エントリーは零時になると自動的にUPされるように設定してあったので、そのまま載ってしまったのです。嗚呼・・・。いずれちゃんと書きなおして再度UPしますので、よろしく。って、そういうことが出来るのがデジタルのいいところだよね。というのも言い訳だけれども、それが今日の導入部になってしまうとは。

 ということで、今日のブログに(勝手に)繋がるのであった。

『電子書籍奮戦記』(萩野正昭著/新潮社/2010年11月20日刊)

 萩野さんとは以前属していたレーザーディスク社かその後のパイオニアLDC(現在のジェネオン・ユニバーサル)かの頃に、私たちの会社が作ったアニメ映画の出資会社の代表担当者としてお会いしたのが最初なのだから、もう20年も前のことだったのだ。その後、ボイジャー社に移ったことは知っていたが、当然それはパイオニアLDCと米ボイジャー社の共同出資によるものだと思っていた。実は、そうじゃなくて米ボイジャー社と萩野氏自身(プラス出資者)の出資による会社だったというのはこの本を読んで初めて分かったことである。まあ、だからこそ映像会社であったボイジャー社が電子出版の中でのポジションを取りえたのであろう。いまや、日本のというか今や日本にしかないボイジャー社と言えばエキスパンドブックからドットブック、T-Timeという、日本語電子書籍のフォーマットの源泉である。でも、まだ大儲けは出来ていませんね。

 しかし、あの当時っていうから1990年頃だと思うけれど、見せられた「クライテリオン・コレクション」のLD(レーザーディスク!)はすごかった。映画ファンとして見たいものがすべて収められているという内容の「マルチメディア」商品であったのだ。しかし、これを我々が作っていたアニメでやりたいという企画自体は魅力はあったけれども、作るのにお金がかかりすぎそうだったのでお断りした経緯がある。そこまで欲しがるマニアはいないだろうということで・・・。しかし、もしやってたらこの本にも「当時協力してくれたのは『アキラ』の講談社だけだった」なんて書かれたかもしれない。うーん、残念。

 で、この本に面白いことが書かれている。2000年夏のこと、当時電子書籍と読むためのソフト「マイクロソフトリーダー」を販売開始したマイクロソフトが日本進出を狙って、電子書籍において「縦書き」「ルビ」などの日本語表示技術に実績のあるボイジャー社を買収にかかったのである。そのマイクロソフトの電子書籍市場に関するロードマップというのがあったそうだ。つまり;

『2001年までに約100万タイトルの電子書籍が販売あるいは配布される。

 2008年までに電子書籍の販売部数は印刷書籍を上回る。

 2012年、製紙業界が、紙の本を支持する広告キャンペーンをはじめる。「本物の木からつくった本物の本を、本物のあなたへ」。

 2018年、一般の用法として、「電子書籍」(ebook)は単に「書籍」「本」(book)と呼ばれる。

 2020年、販売されるタイトルの90%以上が紙ではなく電子媒体となる。ウェブスター英語辞典は「book」の最初の定義を「一般にコンピュータやその他の個人閲覧デバイスに表示される、文書の実際」という意味に変更する。』

 というものだ。結局、マイクロソフトリーダーもそれほど普及することなく、ボイジャー社の買収も上手く行かず、この時点でのマイクロソフトによる電子書籍化は立ち消えになった。しかし、面白いのはこの期においても「ウェブスター」という権威によりかかっているマイクロソフトの権威主義ではないだろうか。まあ、2000年という時点では仕方ないのかもしれないが、今なら「ウィキペディア」なのだろうな。

 結局、マイクロソフトが電子書籍に失敗したのは「アーカイブ」の思想がなかったからだろう。今ある「紙の本」を電子書籍にするというのは、あくまでも過渡的な方法論にすぎない。そうではなく、「出版=パブリッシング」という発想がなんでアメリカ人になかったのだろう。というか、やはりマイクロソフトのレベルでは「出版=出版産業」という捉え方だったのだろうか。

 つまり、今日本でも言われている「出版危機」というのは単なる「出版産業の危機」であるにすぎないわけで、要は1990年代に「本は儲かる」と思って参入してきたたくさんの新規参入組が、いまやアップアップしているという状況を眺めたにすぎない。勿論、出版人というのも大変軽薄な人種であるから、そんな90年代参画組に迎合して同じことをやったから、まあ、一緒になってダメになっていったわけですね。

 実は「出版産業の危機」とは関係ないところで電子出版の可能性は広がってくるのだ。「産業の危機」は別にして、電子出版というのは「個人のパブリッシング」という部分を大きく広げる可能性がある。パブリッシングというのは「出版すること」ではなく「公にする」ということ、つまり今風の言い方をすれば「ソーシャル化」するということなのだ。

「ガリ版」とか「DTP」とか「コミケ」とか、取り敢えず「紙」に印刷するということは、製版代・紙代・印刷代・製本代がかかるわけで、それなりに「資本」が必要になるのだ。だからこその「出版社」なのだろうけれども、その出版社は、そこにかかる経費(先に挙げた以上に編集費・宣伝費・営業費などがかかる)があるわけで、結局「紙の本として出して経費を稼げる」本しか出せないのである。

 そんな訳で、電子出版とは電子書籍とは、つまるところ個人が自らの言いたいことを「パブリッシュ」することを保証する手段なのだ。考えてみれば、活版印刷しかない時代の個人表現として「ガリ版」があった。1960年代の高校生はそんなガリ版印刷のアジびらや個人詩集、個人小説に興奮したものだ。

 つまり、そうした個人表現といったものが、以前だったら「自費出版」という形でお金を出版社に取られながらやっていたことが、電子出版でたいしてお金もかけずに出来てしまうのかもしれない、更にネットにのせれば世界中に自分が書いたものが届いてしまう、という夢のような時代が来ているのである。

 まあ、このブログもそうですけどね。

 

2011年1月20日 (木)

『絲的炊事記』

 意外とまともな料理であります。

『絲的炊事記 豚キムチにジンクスはあるのか』(絲山秋子著/講談社文庫/2011年1月14日刊)

 各表題を一部料理の種類を足しながら紹介すると以下の通り。

「力(ちから)パスタ」「冬の冷やし中華」「大根一本勝負」「すき焼き実況中継」「GoGoお買い物」「丼五連発(焼肉丼、サーモン鉄火丼、ソースカツ丼、鶏丼、うなたま丼)」「蕎麦屋で飲む酒」「デパ地下チャーハン」「豚キムチにジンクスはあるのか」「春の日記(肉じゃが、ペペロンチーニ、鹿刺ほか、ボイルドビーフ、ミネストローネスープオムライス)」「”ヘナッポ”の行く末(へっぽこナポリタン風ソース)」「ようこそ我が家へ(サラダ・ニソワーズ、エビのガーリック焼き、ヘナッポ餃子、ラムチョップグリル)」「エスニックこてんぱん(前編)」「エスニックこてんぱん(後編)」「素麺七変化」「真夏の洋風ちゃんこ鍋」「されどインスタント」「サーモンのサンドウィッチ」「高崎コロッケめぐり」「秋は舞茸の季節」「ゴロピカリはかあさんの味」「たまごとトラバター」「命からがら牡蠣ごはん」「親父と作るキッシュ・ローレーヌ」

 椎名誠氏の闇鍋風キャンプ料理やら、嵐山光三郎氏のトンデモ料理に比べるとかなりまともではあります。取り敢えず、食材がまとも。まあ『HANAKO』の連載では限界があるのか、外見やFMぐんまやイベントでのおしゃべりを聞いていると絲山氏はまるで男だが、結構女らしいところがあったりするんだな。

 まあ、そんな感じの薄めの文庫でした。

2011年1月19日 (水)

『ワタクシハ』シュウカツセイデス

 久々に読んだ小説が、羽田圭介の「シュウカツ」小説なのであります。

『ワタクシハ』(羽田圭介著/講談社/2011年1月17日刊)

 昨年11月17日のブログ「なぜ男たちは皆北へ『走ル』のか」(http://tsunoken.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-3073.html)で書いた羽田圭介氏の書き下ろしである。

『走ル』の時もそうだったが、この『ワタクシハ』も羽田氏の自身の経験から書きこしてる。

 つまり、高校在学中に「ジャパニーズドリーム」というオーディション番組で行われた超テクニカルバンドオーディションでギタリスト部門で一位になった主人公・太郎は、同じ年にメジャーデビューを果たし、アルバムCDが30万枚売れ、紅白歌合戦に出場し、全国ツァーも実現した。大学生にして760万円という預金を持った太郎は実家を出て一人暮らしをしているが、バンドメンバーの一人が抜けてからはヒットもなく、バンドも解散、いまや立派な「一発屋」でしかない。散発的にあるギターの仕事だけではロクな収入もなく、預金は減るばかりだ。毎日3時間の練習は相変わらずやっているが、付属高校から内部進学した大学3年生にもなると友達は皆就職活動を開始、彼らから見せてもらった就活本を読めば、例えば東京のテレビ局に就職すればすぐに年収1000万円という生活が待っているというではないか。ということで、なんとなく太郎も就職活動に入る。結局、どこか名古屋のそばの会社の社員になり、週末ミュージシャンとなるのだが、それ以上の話は本を読んでほしい。

 要は、これは明大明治高校在学中の17歳の時に文藝賞を受賞し、その後、明治大学に進学して、さらに就職活動をした羽田氏自身の経験なのだ。17歳の時に『黒冷水』で受賞してから、受賞第一作『不思議の国のペニス』発表まで3年かかっている。その次の作品『走ル』までは前作から2年、次の『ミート・ザ・ビート』までも2年という、まあ学生だったから許されるペースですね、というところだろう。

 多分、羽田氏は第一作『黒冷水』を書いた後、自分が何を書けばいいのか分からなくなってしまったのだろう。実は、そんな経験を私もしている。大学生の時に月刊『シナリオ』誌の新人映画評論賞に佳作入選した私は、そこに応募したコスタ・ガブラスと吉田喜重の同名作作品『戒厳令』を比較したかなり長めの映画評論を書いたのち、短い評論を書けなくなってしまって、400字詰め50枚の評論を書いて『映画批評』に投稿した後、映画評論を書けなくなってしまった。今、考えてみれば長めの映画評論なんてものはそれだけで、その後に再び短いものも書けるはずなのだが、何故か陥るスランプである。

 そんな自らのスランプ体験を、ミュージシャンにたとえて書いたのが本書である。若すぎる成功経験が、その後の人生に与える影響というものだ。つまり、マスコミはあまり若い奴に賞を渡しちゃいけないということなのだろう。ま、私の場合はそんな大したもんじゃないし、私自身の思い込みでしかないが。

 で、「シュウカツ」である。就活も結局は企業社会的にみれば普通のビジネスでしかない。つまり、「需要と供給のバランスに関するビジネスのやり取り」なのだ。「需要=企業・採用する側」と「供給=学生・採用される側」のビジネス的なやり取り。「需要>供給」の時は企業は学生を持て囃し、接待をしてでも採用に命がけになり、「需要<供給」の時は企業は学生を突き放し、厳しく対応する。圧迫面接なんてのもあるだろう。

「本来、企業と応募者は対等」なんてウソウソ。基本的には採用する企業の方が強いに決まっているのだ。その企業(の採用担当者)が「需要>供給」の時は企業は学生を持て囃し、接待をしなんて言うけれども、実は企業側はそんなことに飲み込まれる学生をバカにしているのだ。どうせこいつら入社しちゃえば新入社員として厳しく鍛えられるだけだし、その結果やめる奴もいるだろう、ということだ。どうせ辞めるならば若いうちに辞めてほしいというのも企業の本音である。会社の太い柱になる前だったらどんどん辞めていってもよい。太い柱になったら辞められちゃ困るが、そんな太い柱になる直前に失敗しちゃった奴は辞めてほしい、ということで左遷人事や降格人事が平気で行われるのが企業社会である。でも、辞めないもんね、というのがそこでのサラリーマン側のスタンス。

 結局、サラリーマンなんてのは単なる労働力。他に替えの人間ががいればいくらでも代替可能な仕事でしかない。でも、一度入社してしまえば、特別大きな失策さえしなければ(時には大きな失策をしても)クビになることはない、というのが日本のサラリーマンの世界でもある。そんな「社畜」になることも、でも生きるためには、年収1000万円をもらうためには、「シュウカツ」も必要なことなのか。

 まあ、一度入社しちまえばそれは「既得権益」。そんな「既得権益」を得るためには、「シュウカツ」に骨身を惜しまないのもやむを得ないな。何たって、既得権益ってデッカイよね。

 

 

2011年1月18日 (火)

『過激派で読む世界地図』とは「貧困で読む世界地図」なのだ

 基本的なことを言ってしまうと、著者の宮田律氏は専門が「イスラム地域研究・国際関係論」であるそうである。国際関係論と言えばニクソン政権での国務長官ヘンリー・キッシンジャー氏が有名であるが、つまり国際関係論というのはユダヤ人のための学問なのである。

『過激派で読む世界地図』(宮田律著/ちくま新書/2011年1月10日刊)

 つまり、国家を持たない(持たなかった)ユダヤ人にとっては、様々な国家の関係を見ながら自らの処し方を決めなければいけない。当然、その中には国家と国家の関係も入っているが、今や国家間の関係だけでなく、国家内部の政治的問題が国家間の関係にも及ぶ時代になってしまい、ということはその当該国家内部の政治問題も検討課題としなければいけない時代になってしまったのである。相手国の国家内部の状態もみながら国家間の交渉を進めなければいけない時代になったのである。だからこその「イスラム地域研究・国際関係論」なのだろう。

 で、本書に書かれた各地域の「過激派」の名前と、その思想らしきものと国名を挙げる。

『第1章 アジア 「東トルキスタン・イスラム運動=イスラム系」(中国)」「解放党=イスラム系(バングラデシュ他中央アジア)」「インド共産党毛沢東主義派=毛沢東主義(インド)」「カレン民族同盟=民族自決主義(ミャンマー)」「ジェマア・イスラミア=イスラム系(インドネシア)」』

『第2章 中東 「タリバン=イスラム系(アフガヌスタン・パキスタン)」「アルカイーダ=イスラム系(サウジアラビア・イエメン)」「モジャーヘディーネ・ハルク=イスラム+マルキシズム(イラン)」「カハ党=ユダヤ至上主義(イスラエル)」』

『第3章 アフリカ 「神の抵抗軍=キリスト教(ウガンダ)」「オガデン民族解放戦線=ソマリ民族主義・反エチオピア主義(エチオピア)」「ソマリアの海賊=貧困(ソマリア)」』

『第4章 ヨーロッパ 「黒い未亡人=イスラム系(チェチェン・ロシア)」「リアルIRA=カトリック(北アイルランド・イギリス)」「バスク祖国と自由=バスク民族主義(スペイン)」「ヨーロッパの反イスラム主義(オランダ・自由党/イギリス・国民党/ハンガリー・ヨッピク/フランス・国民戦線」』

『第5章 アメリカ 「キリスト教右派=キリスト教福音派(アメリカ)」「国家社会主義運動=白人至上主義(アメリカ)」「センデロ・ルミノソ=毛沢東主義(ペルー)」「コロンビア革命軍=マルクス主義(コロンビア)」』

 こうしてみると、アジア、中東、東欧では当然イスラム系の「過激派」が多いわけだ。アジアに関しては、第二次世界大戦後殆どの国は独立したのだけれども、とはいってもインフラもないし、日本みたいに戦勝国から特別待遇で復興を応援してくれた国も少ない。中東は全く放っておかれて、ユダヤ(イスラエル)が勝手に「エクソダス」とか何とか言ってどんどん入植してきてしまう。東欧は旧ソ連が徹底したイスラム教徒弾圧政策を行ってきたのが、ソ連崩壊で一気に噴き出してきたというところか。まあ、元々イスラム教徒が多い地域だからね。

 アフリカではメチャクチャなのだが、実はこれは理由があって、それまでのアフリカの独立運動とか民族解放闘争というのは、旧ソ連やキューバからの支援を受けていたマルクス主義的な運動だったのだが、そのほとんどが目的を遂げ、旧宗主国などからの独立を果たし、今でも闘争を続けているのは、そこからモレ落ちたクズ国家なのである。クズはクズなりに自ら生き抜く方法を考える。その結果として一番目立つのは「ソマリアの海賊」ではないのだろうか。海賊には海賊の正義があり、自分が貧乏なのは国際資本主義の存在が原因なのだから、そうした国際資本主義の企業から金を奪うことは、まさしく正義である、ということなのだろう。

 アメリカは北と中南で分けなければいけない。北(ったってそれはアメリカ合衆国だけであるが)はもうどうしようもないですな。とにかく、WASPの人たちは自分たちの国における存在価値が下がるのが怖いのです。いまやアイルランド系の白人のアメリカ合衆国における存在価値って大したことがないんじゃないかな。イングランド系、ドイツ系、フランス系、イタリア系、北欧系、(ヒスパニックじゃない)スペイン系、そして本当は入れたくないんだけど東欧系も含めて何とか白人優位を保っているという感じだろう。ということで、キリスト教福音派なのだ。勿論、日本の福音派の関係者に聞けば、そんな人種優位主義的な考え方はないという考え方はないということなんだけれども。実はあるんだな。つまり、それはアメリカ白人は移民できた人間だということの証なのである。アイルランドから移民で来て、地元の先住民を追いやって作った国と言うのがアメリカ(勝手に)合衆国なわけである。そんな出自を持っているアメリカ白人としては「いつか自分たちが有色人種から追い出されるかもしれない」という見えない恐怖があるのだろう。つまりそれがヒスパニックや有色人種差別なのである。でも、今やアメリカ白人も含めたアメリカ人全体が選んだ大統領が有色人種で、それも奴隷として使っていたアフリカ系なんだから、もう諦めればいいんじゃないかと思うんだけどもね。

 この辺の、「もう諦めればいいじゃん」というのが、ヨーロッパにおけるイスラム排斥運動だろう。トルコ人を含めたイスラム系の人間を「安い労働力」として移入することを認めたのはほかならぬ彼等の国家である。ところがその結果、実は自国の「安い労働力」が「より安い労働力」によてハジかれてしまったというのが、そうしたイスラム排斥運動のバックにはあるのだ。所詮、それは宗教的なものではなくて生活のための闘いなのだ。

 中南米ではまだまだマルクス主義が生きている。というよりも、キューバの存在とゲバラ主義がまだ生きているということなのだろう。その変形というか、農村革命の考え方が毛沢東主義とゲバラ主義の結びつきになっているのだろう。

 要は、こうして世界の「過激派」というか「抵抗運動」というか、そのどちらをとるかとういうことでその「話者」の立場が変わってしまうということなんだけれども、そうした運動のベースにあるのは、よく見てみると「貧困そのもの」、あるいは「貧困への恐怖」なのである。

 こうした「貧困」による運動でないのはアメリカ合衆国のキリスト教右派とイスラエルのカハ党の動きくらいだろうか。その両者ともこれは「貧困」ではなく「民族的敗退の危機」ということなのだろう。しかし、「民族的敗退の危機」は、もうどうしようもないだろう。それは敗退するしかないのである。おまけにその「敗退」の原因は所詮「移民」なのである。もともと、自分たちの土地でないところに移ってきた移民。イスラエルの場合は「その昔、自分たちが住んでいた」という歴史はあるのかもしれないが、今住んでいるのはアラブ人であるのは間違いない。なぜ、そういう「先住民」と仲良くできないのか。まあ、そこが民族主義なのだろう。

 しかし「貧困」による運動というのは、つまるところ「階級闘争」である。その「階級闘争」が旧ソ連が崩壊してからは、そうした闘争を支援するセンターがなくなってしまって、そのセンターの役割を宗教が請け負っているのだろう。イスラム教はその急先鋒である。

 イスラム教、ユダヤ教、カトリシズムという、元々ユダヤ教に発する宗教がこうして相対して対立しているところをみると、わが仏教がそこには入っていないのは幸せか。まあ、ミャンマーでの僧侶たちの抗議運動とか、前のベトナム戦争時の仏教僧侶の焼身自殺とかあったけれども、それは政治的表明ではあるけれども、過激派というほどのものではなかったろう。これは仏教の他宗教をも受け入れるという不思議な発想法があって、それが宗教戦争にならない原因なのだ。

 まあ、ベトナム戦争当時はドカヘル+ゲバ棒だけで過激派というレッテルを張られたのであるけれどもね。

 いまや過激派の象徴はAK47ライフルである。

2011年1月17日 (月)

貧乏徳利なのだ

2011_01_15_005_edited1 エントランス

 実は青梅街道を青梅市に向かって自転車で走っている時にいつも気になっていた「東大和市郷土博物館」というのがあって、旧青梅街道を走って奈良橋を左折して芋窪街道との交差点のそばにあるのだが、今日初めて行ってみた。

 東大和という地域の中途半端さからいって、多分、民俗資料館のようなものだろうなという予感はピッタリ。要は、多摩湖(村山貯水池)によって壊された狭山丘陵の佇まいがどうやって今の時代になってきたのかという、歴史教科書をここに残そうということなのだろう。

2011_01_15_006_edited1 多摩湖(村山貯水池)、左上の方の狭山湖(山口貯水池)が入っていないのは、さすがに東京都東大和市の博物館なのであった。

 まあ、中は普通の民俗資料館という雰囲気で、東大和市の数万年前の関東ローム層の歴史とか、古生代から中世、近代、現代までの家の模型とか、村山貯水池の断面模型(それだけがここらしい)とか、戦争中の写真とか、昔の家に残っていた工作物やら、ここにもあった電話機とか(なんで電話機がどこの歴史資料館にもあるのだろう)がある、普通の歴史博物館ではある。

2011_01_15_013_edited1 典型的な農家の全体像。真ん中に家があって、右に畑、左が狭山丘陵に至る里山なんだろうな。

2011_01_15_015_edited1 慶應年間の定書。

 面白かったのが、いろいろ昔の家々にあったものを集めた場所にあった「貧乏徳利」である。というよりも、こうした酒屋と消費者の間に通用していた「通い徳利」を貧乏徳利というのは知らなかった。何故「貧乏徳利」というかということには諸説あるそうだが、「備前じゃなくてもうちょっと安い備後の徳利を採用したから備後徳利がなまって貧乏徳利になった」という説はちょっと信じられない。だって、じゃあ「貧乏樽」というのはどうやって説明するんだろう。まあ、やっぱり貧乏人が酒屋から徳利を借りて酒や醤油を量り売りしてもらったというのが普通の説明としては、なんとなくよくわかる。徳利に書いてある「吉田屋」とか「梅澤」というのは酒屋の名前で、それを酒屋が客に貸していてその徳利を酒屋に持っていくと、徳利に一杯入れてくれたのだろう。当然、支払いは年末一回だ。で、いつも百姓は貧乏なのだ。

2011_01_15_023_edited1

 ということで、東大和市郷土博物館のHPはこちら→http://www.city.higashiyamato.lg.jp/24,0,297.html

2011_01_15_026_edited1 プラネタリウムもあります。っていうか、最近プラネタリウムがある博物館が多い。コンピュータ制御になって、プラネタリウムの設置にお金があまりかからなくなったそうだ。

EPSON RD1s+Summicron 35mm / (c)tsunoken

2011年1月16日 (日)

スナップショットを考える写真展

1101151_edited3 (c)Jacques Henri Lartigue

 東京都写真美術館で面白いふたつの写真展を開催中だ。

 ひとつは『スナップショットの魅力』という東京都写真美術館の収蔵展で、もうひとつが『ニュー・スナップショット』という日本の写真家たち6人の新しいスナップショットの作品展である。

『スナップショットの魅力』の方は、マーティン・ムンカッチ、ゲイリー・ウィノグランド、ジャック・アンリ・ラルティーグ、ブルース・デヴィッドソン、森山大道、アンリ・カルティエ=ブレッソン、木村伊兵衛、ウォーカー・エバンスなど、いまや定番となった感のある作品と、ポール・フスコ、鷹野隆大、ザ・サートリアリストの3名をスペシャル・フューチャーした写真展である。

 当然、スナップショットという撮影方法はコダックが、1888年に撮影者は撮影するだけでそのままカメラごとコダックに送り返すと、コダックで現像・焼き付けをして送ってくれるという、今の「写るんです」のシステムを先取りした方法でアマチュアに対して小型カメラの大普及を実現し、1925年にライカが映画用35mmフィルムを使用する小型カメラを発表してプロのフォトグラファーにも使われたところから、プロにも普及し始めた撮影方法である。

 スナップショットという概念が全盛を極めたのは多分第二次世界大戦ではないだろうか。それまで大型の写真機でもって撮影していた写真家たちは、戦場に持ち込み、撮影をしやすいライカやコンタックスなどの35mmカメラで「ちょっとピンボケ」写真で戦争を記録していたわけだ。

 スペシャル・フューチャーされた3人の内、ポール・フスコの「RFK Funeral Train (ロバート・F・ケネディの葬式列車」と題された、1968年6月5日にニューヨークからワシントンDCまでゆっくりと走る葬式列車に同乗して見送る沿線の人々を撮影した一連の写真群は、まるでロードムービーのように印象的だ。中でも右から2番目の写真では、走っている車両から反対側のホームに一杯の追悼の人たちがいるのだが、その中の右の方の人が胸にかけているのがライカM3だということが分かる写真である。う~ん、なかなかこれが良い。って、単なるカメラオタクの話か。

 

1_edited1 (c)白井里実

 一方、『ニュー・スナップショット』の方は池田宏彦、小畑雄嗣、白井里実、中村ハルコ、結城臣雄という若手6人の協同展。スナップショットとはかくあらねばならない、という方法論からはまったく自由にいろいろな方法で各人のスナップショットを披露する。これがスナップショットかというような雪の結晶の写真とかセルフフォトとかの、これがスナップ? というような写真もある。

 ライカが発表されてから90年たって、スナップ写真の概念もかなり異なってきたのだろう。というか、現代の写真家にとってはすべての写真はスナップ写真ということなのだろうか。つまり、写真というものはスナップ写真のように手軽に撮って、手軽に公開するものだということなのであろう。

 スナップ写真の典型のような『スナップショットの魅力』と、現代の自由な発想で捉えられた『ニュー・スナップショット』。この二つの写真展を見比べることによって、写真の歴史を見ることになる。

 両方の写真展とも2月6日まで開催中。

 東京都写真美術館のHPはこちら→http://www.syabi.com/

2011年1月15日 (土)

『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』

 ということで(なんのこっちゃ)、今日は昨日の話の本番。ポイントは日本はパチンコを廃絶できるかということなのである。

『なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか』(若宮健著/祥伝社新書/2010年12月10日刊)

 初版が12月10日で、私が買ったのは2版で12月25日だから、まあ、売れているんだろうな。それだけ日本でもパチンコ依存症の人が多いということなのだろうか。困ったもんだ。

 人はなんでパチンコ依存症になるのだろうか。そして。パチンコと同じ博打でありながらルーレットやバカラなんかのカジノ賭博ではそんな依存症というのは聞かない。しかし、競馬、競輪、オートレース、ボートレースなんかは、やっぱり依存症のような人たちがいるらしい。

 つまり、安いお金で参加できる博打だからこそ、誰でも参加してそして依存症になってしまう人が多いのだろう。カジノ賭博では今やタキシードやイブニングドレスじゃなきゃだめというほどではないけれども、それなりの格好をしていなきゃ出入りできないし、他の人との関係でルーレットやバカラなんかはそれ相応の掛け金が必要になるのだ。まあ、スロットマシンなんかはモナコでも5フランとか位からできる素人用のマシンなんだけれども、でも、さすがにスウェットで入るのはためらわれる雰囲気なのだ。勿論、こんなカジノであってもギャンブル依存症になる人はいる。浜田幸一氏なんかはその口だろう。でも、それはごく一部の人だけだろうし、そういう人がギャンブル依存症になっても同情する人は誰もいないから、まあ問題はない。

 問題は、パチンコというものがそんじょそこらに一杯あって、誰でも、どんな格好をしていても、たいして金を持っていなくてもできてしまうということが問題なのである。

 ところで『なぜ韓国では、パチンコを全廃できたのか』という本書の問いに対する答えは単純である。「韓国は日本ほど〈民主化〉ができていなくて、パチンコ導入から時間がたっていなかったから」なのである。

 戦後すぐにパチンコがスタートして、それは最初は健全なレジャーとして認められていたという日本であり、その後「高度に」民主化された日本とは背景が違うのだ。というけど、実はパチンコは最初から博打だったと思いますがね。景品買いは前からあったし。おまけに「高度に」民主化したということは、それだけパチンコ業界からの金に群がる官僚・政治家がいたってことですがね。

 それだけ、韓国の方が政治的にピュアだったということなのだろう。民主主義が定着したのも最近だし。

 問題は日本におけるパチンコに関する団体・官僚・政治家なのだろう。

 取り敢えず、警察官僚が天下りする団体としては;

○財団法人保安電子通信技術協会

○日本電子遊技機工業協同組合

○日本遊技機工業組合

○社団法人日本遊技関連事業協会

○全日本遊技事業協同組合連合会

○回転式遊技機商業協同組合

 とあって、下から2番目の連合会というのは当然その下に各都道府県の遊技事業者共同組合があって、各都道府県の警察本部から天下りするわけである。そして、その下のパチンコホールには所轄の警察の生活安全課から天下りして、上の協同組合のお偉方と、まあ、うまくやるわけだな。しかし、規制の多い業種であるからこそのこのタカリの多さよ、というところなんだけれども。

 この程度の業界と官僚の「癒着」というか天下り関係はよくあることだし、自民党遊技業振興銀連盟とか民主党娯楽産業育成研究会なんて、ギャンブル議員もいることだし、もはやこの国はギャンブル大国になってしまっているのだ。さらに、国会では超党派の国際観光産業振興議員連盟という通称カジノ連盟なんてのができて、そこがパチンコの店内換金も認めようという運動を起こしているらしい。

 カジノ連盟の発想としては、日本にカジノ特区を作る代わりに、全国に蔓延している賭博場であるパチンコをやめさせようという風に動いているのかと思ったら、そうじゃなくてパチンコもOK、競馬、競輪、オートレース、ボートレースもOK、でカジノ賭博もOKにしようということだったのね。

 う~ん、それも大胆な。まあ、博打で負けて首くくるも、親を殺そうが、子供を殺そうが、それはすべて自己責任ではあるのだが、それでいいのか? という気分にもなる。

 となると私もすべてのギャンブル全廃論になってしまおうかな。元々博才もなくて、麻雀、競馬、パチンコですべて負けてきた人間としては、博打がなくなっても全然困らないという事情もあるし。

 

 

2011年1月14日 (金)

『財布に優しいパチンコ学』なんてある訳ないじゃない

 著者、谷村ひとし氏は漫画家で、「著者紹介」によれば『専門誌のみならず各媒体で20本以上の連載を抱える』という状態でありながら、『パチンコを始めてからの15年間の収支がついに5000万円を突破』したそうだ。それが本当なら年平均333万円という、殆ど安めのサラリーマン位の稼ぎをパチンコで実現しているわけだ。たいしたもんである。

『財布に優しいパチンコ学 どうして女性はいつもドル箱を積んでいるのか?』(谷村ひとし著/ワニブックス【PLUS】新書/2010年12月23日刊)

 実は、今日のブログは明日のブログの前哨戦である。本当は明日のブログを書くための本を探していたところ、この本を見つけたので、まず先に読んだわけだ。これはこれで面白いのだが。実は大いなる問題のある書なのである。

 実はこの本の読者の大半はパチンコで損をしている人たちなのである。谷村氏自身が書く通り『パチンコの勝ち組は1割、負け組は1割、残りの8割は勝ったり負けたりを繰り返しトータルではちょっと負けている』と書く通り、基本的には負けるのである。これはギャンブルすべてそうであり、競馬、競輪、ボートレース、オートレース、そしてパチンコも、儲かるのはすべて胴元であり、ごく一部のプレイヤーである。でも、皆自分がそのごく一部のプレイヤーになれるのではないかという幻想のもとに、ギャンブルにいそしむ。

 谷村氏はそんなことを書きながら、一方では「パチンコの勝ち方」を伝授しようというのだろうか。いわく『投資額を安定させることが「負けない」ための第一歩』であり『パチンコ用の財布、パチンコ用の家計簿を作る』であり『夜よりお得な「朝食」「ランチ」「おやつ」でつまみ食い』であり『プライドを捨てる! 見栄を張らない!!』であり『表向きのスペックに振り回されない』等々。しかし、そんなことをしていては勝てないのがギャンブルである。ここ一番では勝負をしないと・・・ということで皆負けていって胴元だけを喜ばせるのである。

 その結果、皆パチンコ依存症になって身を持ち崩していくか、子供を炎天下車に残して殺してしまうかするのである。勿論、そんなのは「自己責任」であり、社会的にそんな人たちを保護する必要はないだろう。

 しかし、あまりにも簡単にできてしまうギャンブルをもう少しは「やりにくく」する必要はないのか、とも思える。競馬、競輪、ボートレース、オートレースはそれぞれその博打場に行かなければならない。それも郊外の町から離れた場所にである。しかし、パチンコは駅前にある、街中のスーパーマーケットのそばにある、郊外のいろいろファーストフード店やスーパーマーケットのそばの街道筋にもある、つまりあまりにも日常的な場所にあるということが問題なのだろう。

 だからこそ、『景品コーナーの売れ残りは私たちの負担に?』なんてくだらない質問が来て、それに答える谷村氏が何というか『コンビニだって数え切れないぐらいの商品が置かれていますし、それこそお弁当などの賞味期限がある商品はたくさん売れ残りますが、その分の値段をお客さんが負担するようなことはありませんよね?』なんてことを言うのだ。ふざけんじゃないよ、コンビニの売れ残りは一義的にはメーカーが負担するが、しかし、その分の損は巡り巡ってちゃんと客に負担させるように結局はなるのだ。そんなことは商業の基本でしょ。

『月35万円負けてる私はパチンコに向いてない?』という質問に対する答えは始めっから決まっているのだ。「あなたはギャンブルには向いてない。すぐやめなさい」である。しかし、谷村氏の答えは『ぜひとも前作の「まけないパチンコ学」と本書をじっくり読み返していただき、現在のご自分のパチンコスタイルのどこがいけないのかを見直してみてください』だってさ。こうやってパチンコ関係者はパチンコ依存症の廃人を作りながら、自分たちだけはのうのうと生きていこうとしているのだ。

『これからの時代は「やけに強い素人パチンカー」がホールでの真の勝ち組になります』なんて言って、素人のパチンコ依存症患者をふやしていいのだろうか。ほとんど、パチプロみたいな谷村氏はこれだけやっていても依存症にはならない。それは依存症にならないための平衡感覚をもっているからなのだ。しかし、その自覚もないままにパチンコにハマる素人についてはなんともはやである。

 明日は、今日触れなかった「保安電子通信技術協会」(って何だかわからないでしょ)とか「自民党遊技業振興議員連盟」とか「民主党娯楽産業健全育盛研究会」なんてものにも触れながら、別の本について話をする予定。

 お楽しみに。でもないか。

2011年1月13日 (木)

『哲学の教科書』って本当に教科書なのであった

『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』(ジル・ドゥルーズ編著/加賀野井秀一訳注/河出文庫/2010年12月20日刊)

『哲学の教科書 ドゥルーズ初期』というタイトルからジル・ドゥルーズの初期論考かと思ったら、それは収められている一編『キリストからブルジョワジーへ』のみであって、後の一編『本能と制度』はまさに教科書、オルレアン高校教師のドゥルーズがまとめたマリノフスキーからマルクスまでの全66編にわたって、それぞれの人の哲学書からのアンソロジーなのであった。

『キリストからブルジョワジーへ』は訳注者加賀野井秀一氏の序文によればドゥルーズ21歳の時の処女論文であるそうだ。『人々は、現代社会における〈精神〉の破産を宣告しながら、唯物論の到来を呪っている』という書き出しで始まるその論文は『内的人間を市民に還元してしまうための卓越した試みである「社会契約論」において、一般意志は〈神〉のあらゆる特性をそなえているわけだ』『〈キリスト教〉と〈ブルジョワジー〉を結びつけているのは、偶然の絆ではないのである』という結びで終わる、いささか生硬な文章ではあるが、特別オリジナリティーに溢れているわけではない。

 まあ、もっとも現代哲学にオリジナリティーを求めてもそれは難しいことなのかもしれない。オリジナルだと思った論考ではあっても、どこかにその元ネタが必ずある現代において、哲学とは過去の文書を掘り起こしてそこにささやかな装いを施すだけのものなのかもしれない。そのささやかな装いこそがその哲学者のオリジナリティーでしかない。

 だとしたら、むしろ『本能と制度』のように過去の哲学書のアンソロジーの方に、現代哲学の在り方を見てしまうのは皮相な見方なのだろうか。『知性は、個体的な事柄である以上に社会的な事柄であり、社会的なものの内に媒介的な場を、つまり、知性を可能にする第三の場を見いだすのだ、という考えをはっきりと思いおこさねばならない』というごく一般的なドゥルーズ自身による『本能と制度』の序文とともに、ここではマルクスの『経済学・哲学草稿』からの『社会そのものが〈人間〉を〈人間〉として生産するのと〈同じ仕方で〉、社会もまた〈人間によって生産される〉』という言葉を孫引きして、本稿を終わりにする。

 しかし、こうした「哲学」の授業が高校にあるのはさすがにフランスである。日本ではせいぜいが「倫理社会」だもんな。こんな哲学の授業があったら、私ももう少し別の人生を歩んでいたかもしれない。

 学生の頃の私の映画評論の元ネタと言えばモーリス・メルロ=ポンティの『眼と精神』と『知覚の現象学』、それにロラン・バルトの『零度のエクリチュール』などの現象学や記号論であった。浅田彰や中沢新一らのニューアカデミズムに影響を与えたというジル・ドゥルーズにそこころ出会っていたら、私の映画評論ももう少し違ったものになっていたのだろうか。

 その、どちらが良いのかは分からないが。

 

2011年1月12日 (水)

『新聞・テレビ 勝者なき消耗戦』っというよりも、もはやダメになったメディア論戦なのだ

 これは暴論である。だがしかし、意外とこの暴論は当たりそうな気がする。当たらなかったら、ごめん。

 ということで今日は『週刊ダイヤモンド』(1/15号・今発売中です)の特集『新聞・テレビ 勝者なき消耗戦』を取り上げる。

 とにかく、『週刊ダイヤモンド』38ページを使った大特集である。10/16号の「電子書籍入門」に次ぐメディア論特集であるが、まあ、書いてあることは特に目新しいものはない。要は、新しいメディア(ってウェブってことでしょう)に広告費は取られるは、視聴時間は取られるは、ということで新聞・テレビは最早生き残るすべがあるのかということである。

 そこで出てくるのは「産経新聞は7年、朝日新聞は11年」で現在の発行部数が半減するという予想と、「テレビ朝日とTBSは5年」で営業赤字に転落するというシミュレーション。双方とも「現在のトレンドがそのまま行けば」という前提になっているのだが、ということはこの傾向がもっと速くなるという可能性もあるということだ。

 で、ここからが私の予想。

 要は、日本のテレビネットワークは多すぎるということなのだ。あの広大なアメリカ合衆国ですら3大ネットワーク+FOXしかない。この中でFOXはニュースに滅法弱いから、基本的にニュース・ネットワークを持っているのはCBS、NBC、ABCの三つだけである。翻って日本のネットワークはどうなっているのだろうか。当然トップに挙げられるのはNHKだろう。その他に、日本テレビ(NNN)、TBS(JNN)、フジテレビ(FNN)、テレビ朝日(ANN)に加えてテレビ東京(TXN)なんて、殆どネットワーク機能を持っていない自称ネットワークもある。まあ、AXNを入れなくても5チャンネルもあるテレビ・ネットワークが日本に必要なのだろうか、ということである。アメリカの3大ネットワークでアメリカ人が「これじゃあネットワークが足りないじゃん」と考えているかと言えば、全然そんなことはない。取り敢えず「官報放送」がないアメリカでも3大ネットワークで国民は満足しているのである。勿論「それじゃあダメじゃん」と考えているアメリカ人はPBSみたいな有料チャンネルを見たりしていたわけである。

 だったら、この狭い日本で、国民の同質性の高い日本で、なんでそんなに沢山のネットワークが必要なのか。それはひとえにこれまでの日本経済の高度成長に支えられていたというだけのことでしかない。ということは、高度成長経済が終わった時に、同時にこの異常なネットワークの数も淘汰されても良かったんだろうけれども、経済事情がそのまま実体経済に及ばないということから、今まで無理やり残ってしまったんだろうな。つまり、それは総務省の電波行政のおかげでもある。総務省としては、現在免許を与えている会社にはツブれては困るから、どんどんそんな会社に対して保護行政を行うわけだ。放送会社としても、そんな保護行政のもとに守られている間は会社の、あるいは番組作りの改革なんてことは考えないから、いざ社会が変革されてしまうと、それに対して対応ができなくなってしまう。

 で、結局どうなるかと言えば、ここからが暴論の本質なんだけれども、多分日本の放送業界は、NHKと民放2局になるだろうということなのである。生き残る民放2局ってどこなのか。今、ズバリ言えばテレビ東京と、フジテレビか日本テレビのどちらかということになるだろう。つまり、TBSとテレ朝はもうないということ。

 テレビ東京の優位性とは、実は現在の不利な立場が優位性になってしまうという、パラドックスの論理。テレビ東京のバックには日経新聞がある。しかし、この日経新聞は経済新聞という体裁をとりながら実は大都市圏の経済しか取り上げない新聞なのだ。この日経新聞にバックアップされているTXNネットワークも、ネットワークと言いながら東京、大阪、名古屋、福岡、広島、札幌しかネットワークしていない、とんでもないネットワークなのである。しかし、日本経済を語るのに「田舎」の経済を語っても意味はないし、要は大都市圏の経済が田舎にどういう影響を与えるかということを考えればいいんでしょというスタンスが日経新聞のスタンスであるのだから、これは問題ない。

 おまけに、それだけのネットワークしかないのだから、他の民放ネットワークのような地方民放局に対する責任もない。それこそ、全部BS放送にして地方局を無視したってどこからも文句は出ないのだ。岩手めんこいテレビ(小沢)とか、RKB毎日(麻生)みたいな政治銘柄もないのである。これはいいじゃないか。ということで、生き残る民放NO.1は意外とテレビ東京ではないか、というのが暴論。

 そのほかの民放で生き残るのはフジテレビか日本テレビということなんだけれども。これは、まだ分からない。予想できるのは、メディアとして新聞がまだしっかりしている日本テレビ(讀賣グループ)かなという感じはある。はたして、新聞がもはやダメダメの産経新聞と組んでいる(それもイヤイヤ)フジテレビがどう生き残るのか、あるいはFOXテレビ化してフジテレビが生き残るすべはあるのか。要は、ニュースを捨てて生き残るのか、ということだが・・・。

 もしかしたら、これは最終的な暴論である。つまり、日本テレビがテレビ東京以外のすべての民放局を飲み込んでしまう構造もありかなとも考えるのである。

 いずれにせよ、NHKと民放2局体制というのは、私の持論でもあるのだけれども、そのようになっていくとは思える。期待するのは、その時に「官報メディアのNHK」「官報にダマされないぞメディアの民放」という、元々持っていた民間放送のダイナミックな在り方、本来は正しいメディアの在り方がその時に出現してくれることなのだ。

 暴論の割にはまともな結論でしょ。

2011年1月11日 (火)

『裁判長! 死刑に決めてもいいすか』なんて簡単に言えないよね

 いるんだよな、東京地裁にいくとこういう裁判オタクみたいな人が。

『裁判長! 死刑に決めてもいいすか』(北尾トロ著/朝日文庫/2010年8月30日刊)

 昨年、脚本家荒井晴彦氏と作家絲山秋子氏の脚本掲載権を巡った裁判を何回か傍聴しに東京地裁にいくと、必ず見る人たちがいた。つまり、傍聴代タダの裁判を楽しみにしているいわゆる裁判オタクという人種が。北尾トロ氏もどうもそうした人たちのひとりらしい。

 つまり、この本はそうした裁判オタクたちであっても、もし自分が裁判員になったらどういう判決を下すことができるのだろうかと考えた本である。つまり、もっと言うと、裁判員裁判の対象となる事件は殺人、傷害致死、危険運転致死、現住建造物等放火、身代金目的誘拐、保護責任者遺棄致死などの重罪犯であり、つまり、それは裁判員という法律の素人が死刑判決を出して被告に対して「お前、死ね」と言えるかどうかを、裁判員制度が始まる前の裁判を傍聴しながら考えた本である。

 で、取り上げられた裁判は5件。一つ目は『79歳の夫が81歳の妻を絞殺した』事件。2つ目は『未成年者が短い期間の間に、窃盗、強盗強姦、強盗強姦未遂、強盗致傷、という連続した事件を起こした』事件。3つ目は『ケンカの絶えない夫婦がいて、寝室に包丁を持ち込んで「刺すなら刺せ」と挑発した夫を妻が刺したら死んじゃった』という事件。4つ目は『元韓国エステ嬢が元韓国エステ店店長に殺された』事件。5つ目が2007年に杉並で起きた『オタクの大学生が隣に住む85歳の母と61歳の長男を殺して金銭とアクセサリー、カードを盗んだ』事件である。

 第一の事件は要は殺した夫は懲役9年という判決が出たのだが、79歳に収監されてそれから9年といったら刑期を終えるのが88歳ということになって、そこで世の中に出てもまず生きていけないじゃないか、という年齢である。

 いっぽう、第二の事件は未成年ということで懲役4年以上8年以下という判決。成人なら求刑10年、判決で八掛けになったとしても懲役8年というところだろう。確かに少年法で守られている立場ではあるものの、それでは少年法の本来の目的である、犯罪に対してしっかり反省して悔い改めて立派な大人になるということに対して、単に犯行が悪質であるというだけで、「なぜ事件が起きたのか」についてたいして考えずに量刑だけを決めている。

 第三の事件も単純に被告の殺意を認めて求刑15年、判決10年という殺人に対する厳罰化を見て、そこには着々と進む裁判員制度に向けた量刑の厳罰化を見るのだ。

 第四、第五の事件はちょっと扱いが大きく、第四の『元韓国エステ嬢殺害事件』については被告が犯行を否認したままの懲役13年の判決に控訴した被告の東京高裁における控訴審である。北尾氏が書いたままを読めばどう考えても確証はなく、状況証拠だけで動機もないのだからこの場合は「推定無罪」ということなのだが、控訴審で一審判決が覆ることは難しく、結局控訴棄却となり有罪。まあ、裁判所も「どうせ韓国人の犯罪なのだから、あまり難しく考える必要もないだろう」というような判断があったのかもしれない。ただし、裁判員裁判は一審だけなので、それを少しは考慮した方がよいかもしれない。

 第五の事件は、永山則夫の裁判の後にできた死刑判決のための「永山基準」に照らし合わせても死刑判決が出る可能性が強かったのだが、裁判長の判断は無期懲役。同じ永山基準に沿ったギリギリの判断として死刑を避けたのであった。

 いずれも死刑判決は出ていない。

 しかし、この第五の事件の判決が出るまで起訴から2年の月日がかかっている。裁判員裁判ではそれを数日のうちに(少ないと3日で)出そうと言うのである。そんな短い期間で「死刑あるいは無期懲役」という重たい判断を出せるのであろうか。終身刑というのもあるそうだが、日本ではそういう刑はなく、死刑の次に重い刑は無期懲役である。無期懲役なら30年位で出所ということもあるけれども、しかし、その間に自ら犯した罪に対する反省の機会があるのだろうか。問題はそこにあるべきだし、そうしてこその刑期の縮小である。

 しかし、やはり難しいのが「死刑判決」だろう。被害者の遺族の気持ちになれば極刑を求める気持ちも分からないではないが、かといって自分が人を死に落とすことができるのだろうか。死刑判決を下すということは、自ら人を死に至らしめることなのだ。人を殺すことと同じなのだ。勿論、だからといってその判決を裁判官だけにまかせるというのも卑怯なのかもしれない。

 だとしたら、裁判員制度実施に先立って「死刑制度」を廃止することも必要だったのではないだろうか。少なくとも、それだけで裁判員になった人の心の負担は軽減されることになる。

2011年1月10日 (月)

『リアルタイムウェブ「なう」の時代』って、要はツイッターってことでしょう

 第1章のタイトル『「グーグルの10年」の終わり』に期待して読んだのだが。

『リアルタイムウェブ―「なう」の時代』(小林啓倫著/マイコミ新書/2010年12月31日刊)

「リアルタイムウェブ」ったって、要はツイッターのことでしょう。

「プル型」による情報配信でなく、「プッシュ型」の情報配信をする、つまり『ユーザーにチェックしてもらうのではなく、更新した側がユーザーに伝えに行けばよいのではないか――これが「プッシュ型」情報配信の考え方である』ということだ。そしてそれを支えるインフラとしてクラウドコンピュータがある。『必要なときに必要なだけのコンピューティング・パワーを利用できるクラウドサービスであれば、初期投資がいらず、しかも突発的なトラフィックの増加にも対応することができる。まさに、ベンチャー企業がリアルタイムウェブ系サービスの提供に乗り出す上で理想的なインフラなわけである』とまあいいことだらけである。

 しかし、そこで取り交わされる情報というものはどういうものなのだろうか。『テレビを見る人の数が減っていると言われるようになって久しいが、ソーシャルメディア上の会話を見ていると、テレビ番組の内容を基にしたディスカッションが行われていることが多い。~しかもリアルタムウェブ上では、今放送中の番組についてコメントされることも珍しくないのである。~例えば、ツイッターでも、人気テレビ番組の放映時間になると、関連語句がツイッター上で頻出キーワードとして検知されるというケーズが珍しくない。~つまり「テレビを見ながら番組に対する感想やツッコミをツィートする」という行為が定着しているのである』なんてことを堂々と書いてしまうということは、まさしく中川淳一郎氏が言うところの『ウェブはバカと暇人のもの』というまさにそのような状況じゃないか。要は、ウェブにものを書いている連中の元ネタは殆ど「無料で」仕入れられる「テレビ・ネタ」なんだよな、ということを認めたとろでこの著者は切れちゃったんである。「お前らもうちょっと情報を仕入れるのに金を使えよな」ということである。当然、情報は「タダ」では入ってこない。金を使うか、金以外のものを使うかは別だがね。

 一時情報がそのようなソーシャル・メディアから流されるのならいい、一時情報がツイッターから流されて、その後のイラン革命につながった(?)とか、反日デモになった中国情勢なんかを見ると、ちゃんとソーシャル・メディアが実際の行動につながっている健全さが見られる。しかし、そうした健全な発展方向を示していない日本の状況をみると、単に情報が情報だけで独り歩きしてしまい、行動が伴わずにネット言論だけで、行動につながらない日本の若者たちの行いをみるとやはりこれはネット社会の「歪み」じゃないかと思うのだ。

 若者は行動してこその若者であった筈である。先の人生なんか考えずに行動する若者によって、明治維新だって、60年安保だって70年闘争だって行ってきたのではないか。若い時の10年なんて、その後に生きなければならない数十年に比較すれば、たかだか10年なのである。でも、今の若者はその10年が惜しいらしい。その惜しい10年のおかげで、その後の人生が自分の好きにできなくなることも分からずに。

 つまり本来「情報強者」である筈の若者たちが、そんな情報に振り回されて、結果「情報弱者」になっているのではないか。テクノロジーに騙されて、自分たちは情報に強いと思っている人たちが実はいかに情報に弱いか、ということ。つまり「情報収集に強い」ということと、「情報入力に強い」ということは違うのだ。「情報収集に強い」だけならば、情報収集方法をいかに沢山もっているかということだけで勝負できるわけで、それは今の時代の、いわゆる「情報強者」であるのだろう。しかし、「情報入力に強い」かどうかはそうはいかない。つまり、それは入ってきた情報に対して、どれだけ自分なりの判断ができるかということである。本来の情報リテラシーとはそういうものである。

 ポンと入ってきた情報に対して脊髄反応で答えるのは全然情報リテラシーがあるとは言えないし、実際の方向としては情報弱者と同じなのである。ツイッターとかフェイスブックとかMIXIとか、そんなソーシャルメディアから入ってくる情報に対して、如何にして自分のそうした情報に対するスタンスを決めるのかは、自らのセンスによるしかない。つまり、メディアあるいはソーシャル・メディアというものがどんどん発達してくると、それだけ自らのメディア・リテラシーをキチンと整えなければいけないということなのだ。

 ということなので、私はブログを続ける。いまや「リアルタイム・ウェブ」じゃない、最早旧来のウェブなのかもしれないが、今のところ、一番普通にかけるエッセイじゃないかな、というところで。文章の長さもこのくらいが(といってもブログには長さ制限はありません)とってもいいのかもしれません。つまり、自分で決めた400字~800字~1600字という方法論。

 どうもツイッターというのは「140字」という制限があるので、所詮自分の言いたいこと、書きたいことを言えるメディアではないと考えるのだ。やはり、自分の伝えたいことを書くには最低800字は必要だし、その位書かなければ無理である。それを140字で書こうと思えば、それこそ「ラーメンなう」とか「東京駅なう」とか、くだらない、だれもそんなものを読みたいとは思わない情報(?)しかないのだ。誰が、見ず知らずの奴が「今、ラーメン食ってます」とか「今、東京駅にいます」なんて情報をほしがっているのだろうか。

 で、ツイッターは所詮ブログの更新情報だけなのだ。「ブログの更新情報だけじゃだめですよう」なんて言われているが。面倒くさいので、それだけ。まあ、もうちょっとヒマになったら、ツイッターで「寿司なう」とか「酒なう」とかうるさくなると思うけど・・・。

 

 

2011年1月 9日 (日)

『中平卓馬 Documentary』を観る

 銀座BLD GALLERYにて『中平卓馬 Documentary』という写真展を観てきた。1月8日から2月27日まで同ギャラリーで開催中だ。

Epsn7301_2 EPSON RD1s+Summicron 35mm / (c)tsunoken

 最近の中平卓馬の写真らしく、すべてカラー、縦位置での撮影である。それが158点ほど展示されている。まあ、縦位置での撮影というのは、まさに『現代の眼』元編集者ならではの考え方であり、つまり雑誌に掲載するためには縦位置が良いよいう判断なのだろうけれども、でも、急性アルコール中毒で記憶をなくす前の中平の写真はモノクロ、横位置の写真が多かったのは何故なんだろう。

 つまり、BLD GALLERYの右半分は中平の昔撮影したモノクロでとらえたパリのスナップであり、それはすべて横位置で捉えられている。多分、こちらはファイン・プリントを販売するための見本。で、『Documentary』の方は1月15日に発売される同名の写真集の見本というわけだ。

 ま、いずれにせよ、すべて縦位置のために158点のすべてがキチンと収まっているのは、普通の写真展ではいろいろなサイズの写真がそれも写真によって縦位置になったり横位置になったりしているのに慣れていると、何故かかえって奇妙な気分だ。

 写されている写真は、ホームレス(と思われる人たち)の寝姿、猫たち、狸の置物などが目立ち、その他、植物の写真やら看板やらのまさに「ドキュメンタリー」な写真である。ホームレス(と思われる人たち)については中平なりの連帯の挨拶のつもりなのだろうか、まあ、今日も会場に来ていた中平だが、なんか(小奇麗な)ホームレスといった趣である。猫の写真は中平の最近の写真ではよく取られている素材である。これも中平なりの連帯の挨拶である。猫と連帯してどうするつもりだよ、っていうのはあるが、中平なりの猫に対するシンパシーがあるのだ。狸の置物はよくわからない。これも連帯の挨拶だろうか。

 ということで、写真集が発売になったらもう一度観に行こう。BLD GALLERYのサイトはこちら↓

http://www.bld-gallery.jp/exhibition/110108nakahiratakuma.html

 中平卓馬写真展の後は同じ銀座にあるレモン社へ行き、「バースデイ・ライカ」を探しに。そう、昨年11月18日のブログでも書いた「バースデイ(バースイヤー)ライカ」であります。だって、レモン社でもってとっても安いライカを見つけたからなので。で、35,000円と40,000円の1951年製ライカⅢfがあって、ライカも安くなったものよのう、なんて思いながら見せてもらった。が、しかしさすがに超安いライカである、35,000円の方は距離計の方のファインダーがかなり汚れていて、外側を麺棒で拭いてもきれいにならず、これでは撮影のたびにストレスが溜まりそうであきらめた。もう一方の40,000円の方はファインダーはまあまあなのだが、シャッター幕がヨレていてちょっと先行き心配。双方とも修理をすれば使えるのだが、修理代だけでも購入費よりかかってしまうので、今日はあきらめ。ということで残念ながら今日はバースデイ・ライカはGETならず。う~ん、もうちょっとお値段の良いものでなければならないのか。でもいずれは・・・、という日常であった。

 レモン社のサイトはこちら→http://www.lemonsha.com/

2011年1月 8日 (土)

『江戸・東京』ったって、こんなもん?

 筆者の荒井修氏は1948年という団塊の世代真っ最中の人である。この「団塊の世代」っていうのは最悪であって、とにかくそれまでの世代のことを全否定して、じゃあお前らがなにか残したのかよと言えば何にも残していない最低の世代ではある。

 その団塊の世代に属する著者によって書かれたのが本書である。

『江戸・東京 下町の歳時記』(荒井修著/集英社新書/12月22日刊)

 こうした江戸の頃の日本の姿や、あり方を書いた本はいっぱいある。本書もその一部にすぎないわけでもあるのだけれども、一部分面白いとろこがある。それが筆者自身「どうでもいい話、してもいい?」と書き出す部分である。つまりそれは江戸の職人の経済状態に関するものである。つまり『江戸の職人の一日の手間賃がだいたい五百文。当時は百文あれば、一升五合から二升の米が買えた。百文でだよ。それで長屋の家賃がだいたい五百文から六百文ぐらい。つまり二日間働けば、ある程度生活できるってわかるでしょう』ときて『っで、蕎麦が、普通のかけとかもりだったら十六文。ただし蕎麦屋で酒を飲むと四十八文取られるんだけどね。』『江戸の職人は朝飯を炊いて昼は冷えたご飯を茶漬けで食って、夜はほとんど外食だから』ということ。

 つまり、江戸の経済を支えた一番下の職人(外職の職人ということです)ですら、今のフリーターの経済状態よりは良かったってところ。同じ「日雇い」でしかないのに、同じ「日払い」でしかないのに、この違いは何なのだろう。要は、江戸時代には、こうした職人の数が意外と少なかったということではないのか。江戸の長屋の噺といえば大体こうした職人の話が多いのだが、たしかに「長屋の花見」なんて噺は貧乏人長屋の噺でもあるし、こうした外職の職人ってのはそんなに多くなかったのかもしれない。というか、そこで目を付けられた人たちは鳶から話をもってこられたかもしれないからね。「お前ぇこっちきなよ」なんてね。

 ということは、大半の江戸職人なんてものは、半端職人であってたいしたもんじゃないってことになるんだろうけれども、それは事実だろう。大体が、田舎の農家の次男坊、三男坊が、これじゃあ畑や田んぼを継げないなってことで、それじゃあということで江戸に出てきたわけでしょう。そんな連中の職人芸であるわけです。こりゃあまともな職人芸になるわけはないよね。

 ということで、江戸の職人芸なんてものも今や風前の灯ってなもんですな。それもそれ、人間の歴史ってものはそうやって過去を忘れることによって成り立っているんだろうな。

 だからこそ、こうした江戸の町の昔話をする人が必要なのだ。

 まあ、だからといって荒井氏のような「団塊の世代」ど真ん中を支持する気もないけどね。

 

2011年1月 7日 (金)

所詮「『隣のアボリジニ』でしかないんだよな、我々日本人は

 上橋菜穂子といえば「獣の奏者」の著者であるし、ファンタジー小説の作家であると考えていたのだけれども、もう一方の彼女の側面として文化人類学者という部分もあったのだ。

『隣のアボリジニ―小さな町に暮らす先住民』(上橋菜穂子著/ちくま文庫/2010年9月10日刊)

 上橋氏のいう「アボリジニ論」は別に特別なものではない。要は、オーストラリア(という言い方も白人種の言い方なんだけれども)という地域における、人種偏見と人種差別と人種区別の問題なのである。

 北米では、取り敢えず先住民であるいわゆる「インディアン」は植民イギリス人によってまず取り敢えず排斥された。次にはアフリカ系アメリカ人でしかない「奴隷の黒人」が排斥された。要は、人種差別っていうのは「人種排斥」の歴史なのだ。

 それがオーストラリアでは違ったようだ。つまり、「先住民=色が黒いが、アフリカ系黒人ではない人たち」がいたということなのだ。つまり、オーストラリアの場合はアメリカの人種差別とはまた違った人種差別の方法論があったということなんだろうな。

 ということで、1960年代にはアボジニも正々堂々とオーストラリア市民なわけだ、しかし、だからこそ問題は起きるわけだ。つまり、それまでアボリジニたちが持っていた「土地」というのはどうなるんだ。ま、もっとも彼らには土地を私有するなんて発想はなかったわけだから、土地はみんなの共同体がなんとなくここは俺たちの土地だぞって、みんなで勝手に使っていたわけだ。

 考えてみれば、日本だって明治維新まではそんな土地所有制度だったのではないかな。田畑は持っていたが、それが自分の所有地だという発想はなかったのだと思う。所詮、その土地は領主さまに差し出す年貢米の生産地でしかないわけだ。当然、名主の持っていた土地とか、豪農の持っていた土地はあったのだろうが、それは一部分にすぎなかった。

 要は、「土地を私有する」という発想は、所詮ヨーロッパ的な発想でしかないということなのだ。大体、空気とか、海とかと同じように土地だって本来は私有できるのものではないはずだ。それを私有できるというか、地面に線をひけば土地境界線を作れるということが分かってしまったところから、こうした堕落が起こったのだろうな。

 その結果が、土地バブル崩壊である。そんな、何にもしないで土地を持っているだけで価値が増えてしまうなんてことが許されるはずはない。それが許されてしまう状況が1998年代にはあったのだろう。

 ちょっと日本の話になってしまったが、要は、オーストラリアの先住民である彼らも、自分たちの権利を十全には主張できない部分ももっているし、しかし、主張すべきところではあるし、それでも全部を主張してしまうと、白人植民者をすべて否定しなければならないということになる。個人的にはそれでもいいとい思うけど、現実的には難しいでしょうね。

 まあ、取り敢えずはこの本を読むことです。特に『獣の奏者』の読者は読んでほしい。上橋氏の作品の原点がここにあったのかという心境である。

2011年1月 6日 (木)

『女性兵士』と姦った自マン話なのだろうな、本当は

 さすがにミリタリーマニア、軍事オタクの戦場ジャーナリストにして、ギャル・マニアの加藤健二郎氏である。

『女性兵士』(加藤健二郎著/講談社文庫/2010年12月15日刊)

 昨年12月9日に書いた加藤氏の本の二番目の講談社文庫である。

 本書では各戦場における「女性」および「女性兵士」を取り上げている。って、何なのだろう。要は加藤氏が男だから女に対して特別な目を持って対しているのだろうか、というのは当たり前である。ある種、制服を着てキビキビと動く女性を見るというのは、男にとって楽しみである。つまり、その制服を脱いだ後の女性の柔らかさとの落差がとってもいいのである。勿論、男に交じってその小さな力で男と同じ作業をしようとする健気さもいいのであるが。でも、ニカラグアでは女性部隊というのも経験し、その面白さというか楽しさも経験した。

 なんという「軍事ヲタク」の「ギャル好き」であることか。この時期の戦場カメラマンというのは、何度も書いたが、要は、戦場好きな軍事オタクなのである。何も好んで戦場にいかなくても写真の仕事はいくらでもできる。でも、戦争の場所に行きたくなるんだよね。というのは、実は私もわかる。もし、私が今20代の青年だったら戦場を求めて、戦争を求めて、この地球上のどこかに行ってかもしれない。まあ、それだけ戦場あるいは戦争というのは、写真家にとっては「ひとつの」魅力なのである。

 そこに加えて「女の子」である。これは20代の下半身ブルブルの男だったら、戦争ともうひとつの魅力ではある。

 ちなみに、目次と使用ページ数を見てみると『第1章 ロシア軍包囲下決死隊に女性兵士』50ページ、 『第2章 アメリカ軍秘密部隊の美人隊長を追え』36ページ、『第3章 内戦ニカラグアの女性軍人たち』56ページ、『第4章 日本版女性兵士』24ページ、『第5章 クロアチア女性憲兵の戦争観』36ページ、『第6章 セルビア軍狙撃兵姉妹』19ページという具合である。つまり、加藤氏はニアラグアのラテン娘が好きなんだなということがよくわかる。

 日本人のラテン娘好きはよく言われるところで、とにかく積極的なラテン娘の攻勢におとなしい日本青年は大体ヤラれてしまうということである。それが、ニカラグアでも証明されたっていうことでしょう。本書には書かれていないが、多分、ここに書いてあるエスカルレスとかエスメラルダとかマリアとかフーリアとかラビアとかいう女の子たち(もとい、女性兵士たち)と姦っちゃたんだろうな。う~ん、まったく羨ましい奴め。

 で、この本になにが書かれているかというと、まあ、そんなもんです。勿論、男性部隊に女性兵士が入って場合の(力とかの)配慮の問題とか、女性兵士部隊における規律の保ち方なんていう固い問題も挙げられているのだが。

 それは、まあ、おカズですね。本当なら加藤氏はどの子と姦ったのか、どの子とはできなかったのかをいうべきなんだろうが、そもそも、この本に出てくる子とは全部姦ったというなら、もうそれはそれで評価すべきことなのだろう。

 フェミニストが何を言うかは知らないけどね。

2011年1月 5日 (水)

『ピアノ弾き即興人生』

 そういえば、随分長い間山下洋輔のピアノって聞いてないな。

『ピアノ弾き即興人生』(山下洋輔著/徳間書店/2010年10月31日刊)

 山下洋輔トリオのジャズを初めて聞いたのは友人の持っているレコードであった。フリージャズというそのスタイルを聞いた時の感想は「なんじゃこりゃ」であった。ジャズのフォーマット、コード進行だったりモードだったりというものに一切束縛されていないスタイルでありながら、三人の息ピッタリという具合に演奏が進む。フ~ム、こりゃあ奥が深いわいというわけで、早速、新宿は旧ピットインに生演奏を聴きに行った。つまり、ジャズは生が一番というわけだ。ビールや○○○じゃないけどね。

 私が大学生の頃なので、多分1970年か71年頃ではないか。ドラムスは森山威雄だがホーンは中村誠一ノ「テナーサックスから坂田明のアストサックスに代わっており、しかしどちらかというとメロディアスな中村のテナーから坂田のアルトはもっと突き刺さる系の音楽になっていて、それに応えるべく山下洋輔のピアノはもっともっと過激になっていた頃だった。一発で撃たれてしまった私は、その後、クラシック風フリージャズのセシル・テイラーとか、フリー期のジョン・コルトレーンなどの正統派から、ラテン風フリージャズのガトー・バルビエリなんてのまで含めて、とにかく「ジャズはフリージャズだ」なんて短絡して考えていた時期があった。ついこの間、そういえばガトー・バルビエリってどうなってるんだなんて突然気になってYOU TUBEを見てたら、カルロス・サンタナと組んで。サンタナの超有名曲「ヨーロッパ」なんてのを演奏していて、勿論それはフリージャズじゃないけど、それはそれでなかなかの「田舎者的な感動」なのでありました。

 最近は、クラシックの楽団と共演することが多い山下だが、そこにも大分フリージャズの要素を取り込んでいるようだ。というか、クラシック側にそんなフリージャズの要素まで取り込むような余裕が出てきたということなのだろうか。以前だったら、「フン、ジャズなんて」といって振り向いてもくれなかったクラシック音楽家だが、最近はクラシックの幅も広がってきて、現代音楽にある「即興演奏」をフリージャズと組み合わせようというクラシック音楽家が増えてきたということなのだろう。

 クラシック音楽家への接近を、ウ~ム山下洋輔も年取って権威主義者になってきたのかと考えていた私はバカだった。久々に山下トリオでも聞こうかな、思ってみたら、実は山下トリオのレコードはCDではなくLPしか家にはないのであった。そう、それだけ山下トリオの音楽を聞いていなかったということなのである。こりゃいかん、CDを買ってこよう。

 ということで、目次を採録すると『第1部 咄嗟の組曲』『第2部 人間楽章』『第3部 スケルツォ楽章』『第4部 プログラム楽章』『第5部 講演・受賞騒動・コメント楽章』『第6部 思い出の物体とその波紋楽章』『第7部 旅とブログ楽章』『第8部 コーダ』という具合に、それぞれ音楽本らしいタイトル付けがされている。これは山下洋輔の旧著『ピアノ弾きよじれ旅』のころにはなかったタイトル付けだ。あの頃は、とにかく音楽といかに関係ないタイトルをつけるか勝負みたいなことをやっていた。

 それに比較すると、今回はいかにも音楽家のエッセイ集らしいタイトルだ。まああ、それだけ山下洋輔氏も年取ったということだな。

2011年1月 4日 (火)

なるほど『デフレの正体』は分かった。あとは革命だけだ。

 そうかデフレ、不景気なんて言っても、それは別の理由があったのだ。

『デフレの正体―経済は「人口の波」で動く』(藻谷浩介著/角川oneテーマ21/2010年6月10日刊)

 どうしても、「生産」の部分からしかものを見ていない私たちは、アジア諸国とのコスト競争から、日本のデフレ・スパイラルという見方をしてしまうのだが、問題は「内需の縮小」だったのだ。

 ということで、目次を見ると『第1講 思い込みの殻にヒビを入れよう』『第2講 国際経済競争の勝者・日本』『第3講 国際競争とは無関係に進む内需の不振』『第4講 首都圏のじり貧に気づかない「地域間格差」論の無意味』『第5講 地方も大都市も等しく襲う「現役世代の減少」と「高齢者の激増」』『第6講 「人口の波」が語る日本の過去半世紀、今後半世紀』『第7講 「人口減少は生産性上昇で補える」という思い込みが対処を遅らせる』『第8講 声高に叫ばれるピントのずれた処方箋たち』ときて、これまで私たちが当たり前のように考えてきた「生産性神話」や「GDP神話」を打ち砕き、そんな日本への提言として『第9講 ではどうすればいいのか① 高齢富裕層から若者への所得移転を』『第10講 ではどうすればいいのか② 女性の就労と経営参加を当たり前に』『第11講 ではどうすればいいのか③ 労働者ではなく外国人観光客・短期定住客の受入れを』『補講 高齢者の激増に対処するための「船中八策」』という提案をする。

 つまり、問題は経済成長ではなく、生産年齢人口の激減と、高齢者への所得の偏り、その高齢者が消費をとにかくしなくなってしまった、ということである。したがって、『①生産年齢人口が減るペースを少しでも弱めよう。②生産年齢人口に該当する世代の個人所得の総額を維持し増やそう。③(生産年齢人口+高齢者による)個人消費の総額を維持し増やそう」ということなのだが、そのために『高齢富裕者から若者への所得移転』というのは、いまや最大の票田である高齢者からの反撥が相当出そうで、それを政治家に期待するのはかなり難しそうだ。といって、『現在進行しつつある団塊の世代の退職によって結構な額が浮いてくる人件費を、なるべく足元の益出しに回さずに(利益は出せば出すほど配当などの形で、あなたの商品を買いもしない高齢富裕者層に還元されてしまいます)、若い世代の人件費や福利厚生費の増額に回すということです』という提案も、今の「もの言う株主」という名の欲張り集団をかわすことは難しそうだ。

 ということで、まあ取り敢えずやれそうなところから『女性の就労』を増やし、『外国人観光客』の増加策くらいが、現状ではあり得る策なのだろうけれども、そんなものでは根本的な解決策にはならないだろう。

 ということで、一度、日本も国家財政破綻を起こして年金ゼロとかいう強行策でもとるしかないのではないか。そんなことでもしない限り、今の団塊の世代の強欲な富裕層から若者への所得の移転なんて無理だろう。

 が、国債もそのほとんどが国内企業と国内個人貯蓄者によって買われているという我が国の現状から考えると、国家財政破綻は相当先になるだろう。だとすると最早「若者革命」でもしない限り、高齢富裕層から若者への所得の移転なんてあり得ない。

 若者よ、現状を打開するのは「革命」しかないのだ。

2011年1月 3日 (月)

『警察の誕生』というよりも、「国家の暴力装置」としての警察の誕生なのだろな

 要は、洋の東西を問わず、元々の警察機構の一番下側には「岡っ引き根性のならず者」があったというわけなのだ。

『警察の誕生』(菊池良生著/集英社新書/2010年12月22日刊)

 日本の近代における警察機構、つまり徳川時代の江戸の治安を守っていたのは「奉行、与力、同心」という侍の下に、『親分と呼ばれる御用聞き、目明し、岡っ引き、小者』がいたわけで、そんな連中に報酬なんてものはないので、そいつらは、たとえば盗人をひっ捕らえると盗まれた家にいき、そこの主人に知らせる。知らされた被害者はお白州の前に出て日がな一日すごさなければならないし、その結果、お白州に同道してもらった役人に対していくらかを包まなければならなかったり、結局、それは被害額よりも多くなってしまうなどのことがあるので、被害者は目明しに目を瞑ってもらうために、目明しに金をやるということになるそうだ。つまり、目明しそのものが盗人猛々しいことをやっている。おまけにそんな盗人の上前をはねたり、目明し自身が盗人出身だったり・・・なんて、所詮そんな近代警察下部機構なんてそんなものだったようだ。もう、泥棒も、傷害犯も、博打打も、みんな「岡っ引き」になってしまえば、過去の犯罪歴はチャラ。そのあとは「正義の味方」ってもんなのだ。

 そんな、日本の近代警察制度の話は、いろいろな小説にある話を「いやあ、そんなものじゃないでしょう」と思っていろいろ調べてみると、よくわかる話であって、たしかに役人から小遣い銭程度しかもらえない岡っ引き風情が生きていくためには、そうせざるを得ない理由もあるのだ。が、この本を読んでみて、それは日本だけじゃなくて、近代ヨーロッパでも同じような事情があったのだということは、まあ、面白かった。要は、洋の東西を問わず、歴史発展の状況というものは、同じ発展様式を遂げるものなのだ、ということである。

 ところで、近・現代における警察の在り方について言うと『フランスのパリの治安を守るのは、一キロも歩けば必ず目にする警官の姿であった。たとえ、お飾りでもサーベルを腰に下げている。つまりパリ市民は治安と引き換えに巡査に体現される国家が市民生活にずかずかと入り込んでくることを容認しているのである。イギリス市民はこのように国家権力が剥き出しに可視化されるフランス型警察制度を嫌った。そこでイギリスの権力当局はその権力の末端である警察官をなるべる不可視にすることに意を砕いた。警察官を市民社会に溶け込ませるのである』ということで、イギリス警察官は丸腰で市民に対するようになったのだという。しかし、それは表側の市民から見える場所での姿でしかない。

 たしかに、シャルル・ド・ゴール空港なんかに降りてみると、シェパード犬を連れた軍隊がライフル構えてお迎えしてくれたりして、まあ、これは軍隊なんだけど、フランス人は「武器を可視化することが抑止力」になると考える人たちなんだろうな、という気にはなってくる。

 つまり『警察とは本質上、今現在の体制を維持するために存在する。そしてこの今現在の体制を維持するために警察権力を発動させたときの権力者の全能感ほど甘美なものはないのである。警察は絶えず本来の目的の範囲を超えて警察規制を打ち出してくる。かつて国家存在の究極的目的を公共の福祉の促進と定め、そのための強権的国家活動こそが警察の任務であるとした警察国家論がいつまた息を吹き返すかわからない。国家権力は国家権力である限り、絶えず警察国家の復活を狙うものである。それが権力の業である』と喝破するように、結局は「国家の暴力装置」である警察は、そのようにいつ何どき警察国家として、国全体を覆う暴力的な抑圧組織にならないともいえないのだ。

 仙谷官房長官が自衛隊を「暴力装置」といって、そののちすぐに発言を撤回したということがあった。しかし、自衛隊や警察組織が「国家が唯一認めた武器を持ってよいという組織」であることには変わらないわけで、これは暴力団や左翼組織には武器の所有を認めてないのに、自衛隊や警察だけは(海上保安庁とか厚生労働省の麻薬Gメンなんかもいるが)「国が認めた武器所有を認めた組織」なんだから、これを「暴力装置」といってなぜいけないんだ。仙谷さんが昔いたフロントだって「自衛隊は暴力装置だ」位は言ったんでしょう。なぜ、今どうどうと「自衛隊は暴力装置だ」って言えないんでしょう。ついでに「こんな暴力装置をわが手におさめられるとはこんな幸せなことはない」と言えばいいじゃないかよ。

 ということで、軍隊、警察は国家が持つ「暴力装置」であることは間違いない。ただし文民統制(シビリアン・」コントロール)の下に、かなり行動が規制されている軍隊(自衛隊)に比較して、そんな「文民統制」がまったくない、というか文民と軍民とい分け方が当然なくて、基本的には「みんな文民である」という建前の警察組織はもっとも危ない「暴力装置」である。

 もともと、自衛隊ができた時も、最初は「警察予備隊」だったわけで、もともと「軍隊」と「警察」は根本は一緒なのである。つまり「治安部隊」ってことです。対外的な問題は、最初は国交交渉がまずあって、軍隊が出てくるのは一番最後なのである。

 まあ、昔は警察の機動隊の方がいざとなったら実戦経験のない自衛隊より強いんじゃないかと言われた時期もある。今の機動隊がどうなのかは知らないが、まあ、そんなこともあるんじゃないか。

 

 

2011年1月 2日 (日)

実録 政治vs.特捜検察

 日本で初めて政治資金規正法違反で逮捕されました、っていうことは、それまでは政治資金規正法違反というのは形式犯でしかなかったということなのだ。

『実録 政治vs.特捜検察 ある女性秘書の告白』(塩野谷晶著/文春新書/2010年12月20日刊)

 つまり、それまで政治家の犯罪といえば「贈賄・収賄」というものがほとんどであったのが、「贈賄・収賄」では政策決定権のある与党議員しか捕まえられないし、手口が巧妙になってしまい、その罪で逮捕できることが少なくなったからなのだな。そこで、所詮ズサンな政治家事務所の収支報告書を元にした「政治資金規正法違反」ということになるのだ。しかし、元々ズサンな経理しかやっていなかった政治家の事務所である。そんなズサンな事務所の経理報告書自身を元に逮捕したって、そんな政治家を、あるいは政治家秘書を有罪にすることもできないはずである。

 ということで、所詮、政治資金規正法違反では、実刑判決が出たとしても執行猶予付きだし、これから行われるであろう小沢一郎案件では、多分、無罪になってしまう可能性が高い。やっぱり「政治資金規正法違反は形式犯」ということになるのであろう。

 ところで、現在はタレント活動をしている塩野谷氏だが、もう選挙には立たないのであろうか。やっぱり、こんな本を書くくらいなら、政治家になって特捜検察を逆に取り締まる法案なんぞを作ったりして、検察を取り締まるべきではないか。

 そもそも、検察特捜部というのは、戦前の特高警察と同じ、他から何の監察も受けないとんでもない組織なのだ。警察の場合は、検察から監察を受けながら捜査を行うが、検察の場合はそんな監察組織もない。まあ、問題は99.8パーセントという有罪率を維持しなければならないという問題。つまり、村木事件のように「無罪」になってしまうと、それはそのまま検察の「汚点」になってしまうということなのだ。

 そんな、次の「汚点」が検察審査会がらみで来月あたり起こりそうな予感である。それは、検察が一度はあきらめた立件であるが、某右翼組織のおかげで「強制起訴」となった事件であるが、まあ、それも結局は「限りなくクロに近い灰色」となって無罪になってしまうだろう。で、無罪になってしまった被疑者は、晴れて無罪を勝ち取ることによって政治家として晴れ晴れと復活するのである。

 まあ、たかだか「政治資金規正法違反」なんかで起訴するとこうなるという、モデルケースになるんだろうな。

2011年1月 1日 (土)

あけましておめでとうございます

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 あけましておめでとうございます。

 ということで、沼袋は氷川神社の昨年のお正月の写真です。まあ、そりゃそうですね、今年の写真はまだ撮れません。

 ところで、昨年1年間の本ブログ。エントリー数308(ブログ開始から通算で330)、その内、本の紹介199点、映画の紹介35作、写真展の紹介15 、その他79、というのが1年間の結果でした。今年は、なんとかエントリー数365以上、本の紹介は250以上、映画50作以上、という目標に向かって何とか頑張っていきたいと考えますので、よろしくお付き合いのほどをお願いいたします。

 さて、今年は私も60歳になり、いよいよ来年は定年を迎えることになります。今から楽しみなリタイヤ後の人生。どんな人生を送るかを今年1年かかって考えていきたいと思います。

 では、最後に氷川神社にある七福神の写真で・・・。

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『愛すべきあつかましさ』って、あつかましいのはお前だよ、島地

 とか何とか言って、一番あつかましいのは、こんな二番煎じみたいな本を書いて印税を稼ごうという島地氏自身だということなのだ。

 『愛すべきあつかましさ』(島地勝彦著/小学館101新書/2010年12月6日刊)

 島地氏によって俎上にのせられた「愛すべきあつかましい人物」とは、今東光、横尾忠則、壇一雄、開高健、ロシア・ピョートル大帝、バルザック、ユリウス・カエサル、ウィンストン・チャーチルと続く、しかし、こんな文学史上の人物や、歴史上の人物を次々と出しても、結局はそういう人たちを、自分との対照比喩に出せる自分ってすごいでしょ、というそれこそ「愛すべきじゃない、あつかましさ」の典型である。

 単に自分自身の「あつかましさ」自慢だったら、それでもいい。しかし、終章に至って、たとえば『小さな会社を経営して、1億円の借金に苦しみ命を絶つ社長がいま何百人、何千人もいるという。そういう社長が、愛すべきあつかましさをもって、借金を5億円まで増やしたらどうだろう。5億円貸した銀行は、逆に借金社長を大事にしてくれるはずだ。10億円だったら、もっと大切にしてくれるだろう』なんてことを書いているのをみると、とたんに鼻白んでしまうのだ。だって、1億円貸してくれた銀行が、それを返さない中小企業にたいして5億円の追加融資をするものか。その辺が、1941年生まれにして1966年に集英社入社、2000年頃に定年退社した島地氏のような、出版バブルの申し子のような人には見えない実経済なのである。

 要は、出版業界が一番いい時にその業界に身を置いていた人が、今厳しくなった業界に対して何を言うのかというところである。確かに、最近の若者出版人の常識ぶり、というか非常識人の少なさはちょっと気になるレベルであるのはよくわかる。そこは、私もオールド出版人としては、もうちょっとハジけた方がいいんじゃないかと感じる編集者も多い昨今ではある。

 だからとして、かろうじて現役である身としては、何を年金生活者が勝手なことを言ってるんだ、と言う以上の感想は持たない。要は、年寄りが言う「最近の若者は」論でしかないのだ。落合信彦の本と同じ、「俺はこんなスゴいことをやってきたんだぜ」っていうマスタベーション本でしかないのだ。こんなものに印税を払っている小学館はよっぽどバカか、あるいは系列の集英社の幹部だから故の「やむなく」出版なのかな。そんなことやってるから、赤字になるんだよ小学館、ってところでしょうかね。

 しかし、こうした出版ゴロみたいなやつを放逐できない日本の出版界って何なんでしょうかね。こんなものが『沈みゆくニッポンを救う処方箋』だって、笑わせるんじゃないよ。確かに『元「週刊プレイボーイ」カリスマ編集長による抱腹絶倒の日本改造論』なのかもしれないが、その方向がまったく現実離れしているんじゃどうしようもない。なんか面白いことが書いてあるんじゃないか、と期待した私がバカでした。

 久々に「買って損した」本であった。新年早々(しかし書いているのは年末というお約束)あまりにもヒドいブログで申し訳ない。

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