フォト
無料ブログはココログ

Amazonウィジェット

  • Amazonおまかせリンク
  • おすすめウィジェット
  • Kindle

« 『ザリガニとひまわり』というタイトルの意味するところは | トップページ | 『ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である』という当たり前の事実 »

2010年12月17日 (金)

『理性の限界』は理解の限界かな

12月14日の本ブログで取り上げた『東大生の論理』で東大生相手の授業でテキストにしたという本書を、それは如何なる本かということで読んでみた。

『理性の限界』(高橋昌一郎著/講談社現代新書/2008年6月20日刊)

普通の人が普通に選んだ結論に対して、いちいちそれを理論付けて解説するのが論理学の立場であるから、いわゆる普通の人からは「うるせえな、俺がそうしたかったからそうしただけだよ」といって排除することは可能である。それをお節介にもいろいろ理論付けるのが、しかし論理学なのである。でも、そんな論理学でも限界があるというのが、本書『理性の限界』なのである。

ところが、これが結構面白い。『序章 理性の限界とは何か』『第1章 選択の限界』『第2章 科学の限界』『第3章 知識の限界』それぞれに解説者、突っ込み役、ボケがいて、そんな変なシンポジウム形式で話が進んで行く。基本的な突っ込み役は「会社員」と「運動選手」である。学生A(多分女性)は教えてちゃんで、何でも聞いてくるひと。方法論的虚無主義者はすべてにおいて「ぶっ壊し役」、カント主義者とロマン主義者はあらかじめそのときのテーマと関係あるようで実は関係ないことばかりいう人、そのほか、シェイクスピア学者とか、フランス社会主義者、フランス国粋主義者、急進的フェミニストはまあ、場の賑やかしでいるようなもので、ほとんど論にからんでこない。

という人たちで交わされる論理学の話なのだが、第2章位までは私のボンクラ頭でも何とかついていけるのだが、第3章になると、ちょっとついていけなくなる。とは言うものの、1冊読むと何となく論理学がわかったような気分になるのがおかしい。まあ、論理学っていうよりも、論理学の用語が少しわかっただけなのだが。

まあ、論理学というものが、如何におかしな学問かということがわかっただけでもめっけもんかな、というところで・・・。

ただし、学問なんてものはほとんどこうした、我々の日常生活とは関係ないことを研究しているようなものだけれども、それがいずれどこかでかかわってくるから不思議なのである。そんな、未来への投資が、学問研究なのだろう。

« 『ザリガニとひまわり』というタイトルの意味するところは | トップページ | 『ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である』という当たり前の事実 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/549500/50309024

この記事へのトラックバック一覧です: 『理性の限界』は理解の限界かな:

« 『ザリガニとひまわり』というタイトルの意味するところは | トップページ | 『ネットで成功しているのは〈やめない人たち〉である』という当たり前の事実 »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

PEN PEN チョートクカメラ日記

自転車フォトグラファー 砂田弓弦

シュクレはお留守番

アローカメラ&我楽多屋

まだ東京で消耗してるの?