フォト
無料ブログはココログ

Amazonウィジェット

  • Amazonおまかせリンク
  • おすすめウィジェット
  • Kindle

« CEATECJAPAN 2010に行ってきた | トップページ | 『妻の超然』はやっぱり作家の俗物性ということなのだろう »

2010年10月 9日 (土)

「荒井晴彦vs.絲山秋子裁判」詳報が『シナリオ』誌に載っている

 9月11日と9月26日のブログで書いた荒井晴彦氏と絲山秋子氏の間で争われた脚本出版妨害訴訟の詳報が、今発売されている月刊『シナリオ』誌11月号に掲載されている。

 内容は判決文抜粋と弁護人の柳原敏夫氏の「一審判決の感想」と、判決当日行なわれた記者会見報告、そして一貫してこの裁判を傍聴していた脚本家・浦崎浩實氏の「敗戦記」である。

 裁判の結果については、9月26日の私のブログと同じような内容である。要は、裁判所は論点を微妙に避け、脚本の著作権は脚本家だけでなく原作者にもあるのだから、原作者は脚本の出版を拒否できるのは当然である、としている部分が大きな問題点なのだ。映像化とその利用、脚本の活字化とは同じ許諾ではないという、大きな問題点を示したこの判決に対して、柳原氏は『原作者の著作権は、所有権などと並ぶ財産権の1つであるのに対し、脚本家の表現の自由は基本的人権の中核をなす。基本的人権とは個人の尊厳に由来して国家に先だって承認された、最も根源的な、最も尊重されるべき最高の権利であるから、その中核をなす表現の自由がどれほど尊重されなければならないか~本件では財産権の1つである著作権と最も根源的で最も尊重されるべき最高の権利である表現の自由とが衝突しているのである。両者を天秤にかけて軽重を測ったら、どちらがより尊重されなければならないかは自明である。このことを被告も裁判所も全く分かっていない。』として判決を批判しているが、まさにその通りであろう。

 たしかに、脚本の共同著作者としての原作者の権利もあるかもしれないが、それは脚本家と対等ではあり得ない。原作については当然原作者のみに著作権はあるのであるが、それをもとに書かれた脚本に関してはまず第一の著作者は脚本家であり、原作者は第二番目の著作者でしかない。それは原作者が脚本を書いたわけではないからである。これはごく当然の理屈であろう。それを原作者を第一の著作権者であると認めてしまった裁判所は、これからは原作者が認めない脚本の出版はダメよ、でもそれを映画にするのはOK、ビデオグラム化もOKですよ、というトンでもない判決を出してしまったのだ。

 ただし、『シナリオ』誌11月号に載っている『日本シナリオ作家協会ニュース 394号』の前文はちょっと問題がある。『このままでは脚本家は原作者の言うとおりの脚本しか書けなくなる。脚本家が原作者の奴隷であってはならない』と言うのだが、それは脚本家の問題ではなくてプロデューサーの問題だろう。この「荒井vs.絲山裁判」だって、本来はステューディオスリーと文藝春秋の争いの筈である。その双方が契約当事者なのだから。それをうまくプロデューサーは逃げてしまうのか? 確かに、あまり出版社と喧嘩すると今後の原作映画化権獲得に不利になるということはあるのだろう。しかし、そんなことは枝葉末節の事柄である。プロデューサーが闘わなくして誰が闘うというのであろう。

 荒井さんもあまりプロデューサー擁護に走らないで、むしろ同じ戦線に挑まないプロデューサを批判すべきだ。DVD化やテレビ放送などのプロデューサーの収入になるものに対してはキチンとするのに、脚本の出版というプロデューサーにとっては何ら収入にもならないものに対しては関係ないという立場をとってしまう、その考え方はいかがなものだろうか。

 問題はふたつ、その双方ともプロデューサーの問題なのだが、ひとつ目は絲山氏がいろいろ問題にした脚本の内容についてである。プロデューサーは原作者に提出した脚本について万全であるという心構えが出来ていなかったのだろうか。プロデューサーは事前に絲山氏とも会っていた筈だ。であるならば、そこでの絲山氏の意向は分かっていた筈だ。それを十分に荒井氏に伝えていない。もし、伝えていたらその段階で荒井氏が脚本執筆をオリていたかもしれない。その場合、別の脚本家が立って絲山氏の言う通りの脚本を書いて、まあ映画はできた。しかし、その映画が『やわらかい生活』のように評価されたかどうかはわからないが。

 もうひとつは、あくまでも荒井脚本で行きたいとプロデューサーが考えたなら、そこで原作者と闘わなければならない。その場合、最悪は原作『イッツ・オンリー・トーク』を外せばいいだけのことである。でも、それでは配給会社は買わない、となった時のプロデューサーの立場の問題はある。

 つまり、こうした本当は映画作りの段階ですべては解決されている筈の問題が、一部残してしまったためにこんな裁判をしなければならなかったのだ。その意味で、プロデューサーの問題は大きい。クリエイター同士の争いにさせないためにも・・・。

« CEATECJAPAN 2010に行ってきた | トップページ | 『妻の超然』はやっぱり作家の俗物性ということなのだろう »

映画」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/549500/49646500

この記事へのトラックバック一覧です: 「荒井晴彦vs.絲山秋子裁判」詳報が『シナリオ』誌に載っている:

« CEATECJAPAN 2010に行ってきた | トップページ | 『妻の超然』はやっぱり作家の俗物性ということなのだろう »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

PEN PEN チョートクカメラ日記

自転車フォトグラファー 砂田弓弦

シュクレはお留守番

アローカメラ&我楽多屋

まだ東京で消耗してるの?