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2010年10月10日 (日)

『妻の超然』はやっぱり作家の俗物性ということなのだろう

 今度は絲山秋子つながりで・・・というわけでもないが。

『妻の超然』(絲山秋子著/新潮社/2010年9月30日刊)

「超然」というと「嗚呼玉杯に花うけて」という一校寮歌に現れる「超然主義」というものを思い出させる。「超然主義」というのは「栄華の巷」を下に見るエリート主義の賜物なのだが、しかし、それは「自分は世間とは違う」という俗物根性でもある。

 この『妻の超然』は三つの超然が描かれていて、つまりそれは『妻の超然』における主人公は理津子という書かれ方をした妻「第三人称の超然」と、『下戸の超然』における広生という「僕」という描かれ方をした「第一人称の超然」と、更に『作家の超然』倉渕という作家は「お前」という描かれ方をした「第二人称の超然」である。

 この三つの「超然」とは三つの俗物根性にすぎないのだが、「小便臭い(筈の)若い娘と浮気をしている(に違いない)夫の文麿とは私は違うんだ」という妻理津子や、「酒を好みボランティア活動をさも良い事のように広生にもすすめる恋人の美咲」とは違うんだという広生の考え方、「子どものころはあこがれていたが作家になったとたん妹に嫉妬尾する兄とは違うんだ」という倉渕の考え方が三つ示される。しかし、そのすべてが一方で結局はその相手たちと自分は同じ人間にすぎないというまさに俗物でしかない主人公たちを描いている。

 つまりそれは作家自身が俗物でしかないということを描いているんだろう。それにしても第一人称の俗物と第二人称の俗物と第三人称の俗物が勢ぞろいである。ということは、すべての人称について作家は俗物であるということを書いているのだ。

 それでいいじゃないか、所詮は作家は俗物である。「超然」のような立場を保った「俗物」である。

 そんな、作家というものの俗物性を書いた小説なのだ。

 

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