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2010年10月28日 (木)

『テレビの大罪』はもう何度も言われてきたことだけれども

 テレビの大罪というのは既にいろいろ言われていることではあるが・・・

『テレビの大罪』(和田秀樹著/新潮新書/2010年8月20日刊)

 要は許認可事業であるにも関わらず、その義務を果たさず、くだらないバラエティ番組ばかりを放送し、莫大な利益をあげている、ということが批判のポイントなのだが、いまや最後の部分だけはそうじゃなくて、フジテレビ以外はみんな赤字か減収減益、TBSホールディングスなんかは大赤字で横浜ベイスターズを手放そうというところまで追い込まれている、という状況だが、しかし、それについての同情論なんかはどこからも出てこないで、みんな「ざまあ見やがれ」ってな感じで見ている。

 ところで、放送法という法律があって、テレビの番組編成についてのしばりがあるのはご存知だろうか。つまり、報道番組、教育番組、教養番組、娯楽番組という4っつの放送ジャンルがあり、このうち報道、教育、教養については最低でも1日の番組編成でこれだけのパーセンテージで編成しなければならないという決まりがある。教育番組10%以上、教養番組20%以上というのが総合放送局の「決まり」である。しかし、こんなにたくさんの教育番組、教養番組なんてものがあるのだろうか。視聴率を稼ぐのは娯楽番組。そこで如何にして「娯楽的要素」を持った、報道、教育、教養番組にするのかがテレビ編成マンの発想。「納豆ダイエット」問題で消えた「発掘! あるある大事典」なんかは実は立派な「教養番組」なのだ。朝のワイドショーだって立派な「報道番組」ですからね。教育番組の一番いい例は「ひらけポンキッキ」なのだが、これなんかはいいほうかも知れない。まあ、東京で5チャンネルもある民放の過当競争がこんな歪んだ番組編成の原因なのだろう。こんなインチキなプログラム編成を誰が認めてるんだ、といったって総務省がOKしてるんだからしょうがないでしょう。

 ところで、「CMを流す」ということと、「番組提供をする」ということは違うというのはお分かりだろうか。「CMを流す」というのは、取り敢えずCMを流す15秒とか30秒だけを買って自社CMを流すということ、純粋な宣伝活動ですね。ところが「番組提供をする」というのはこれとは全然違って、CMの時間枠だけを買うのでなくて「番組制作費を出している」のである。番組の前後にある提供枠のナレーションで「○○の提供でお送りしました」「ご覧のスポンサーでお送りしました」という2種類の言いかたがあるのはご存知だと思うが、この前者が番組制作費まで出している会社、後者がCM枠だけ買った会社である。じゃあ、この番組提供社が番組の著作権まで持っているかといえば、実はまったくないのである。雑誌や新聞の「PRのページ」みたいなものである。いわゆる「ペイパブ」ね。当然、再放送の際の使用料だとか、番組がDVD化された場合の著作権使用料なんてものにも一切与れないのである。

 このふたつ、番組編成におけるインチキな編成と番組制作費のスポンサー頼み、が民放テレビが莫大な利益をあげられた理由なのである。どう考えても「娯楽番組」としか思えない「教育番組」や「教養番組」。「制作費」として金を受け取っていながら著作権をまったく認めてない「番組制作費」。ちなみに日本と同じテレビ大国のアメリカの場合、番組提供というのは一切なくてすべてスポットCMのみである。まあ、その分スポット料は高いけどね。つまり、日本の場合、あまり高いスポット料金はとれないので、その分番組提供をしてもらってスポンサーの気に入る番組を作りますから少しお金を頂戴ねという構造を作ったのだろう。スポンサー側も番組制作費を払いながらも著作権意識なんてものは殆ど無いから、制作した番組に自分たちの権利があるなんてことには気づきもしなかったのだ。

 でまあ、そんなテレビ状況も変わってきたのだけれども、しかし、いまだ日本におけるテレビの社会に対する影響力は強い。そこで、本書のいう「テレビの大罪」がいまだに言われ続けているのである。つまり、マスコミというのは基本的にセンセーショナリズムに走りやすい性格を持っており、それはしょうがないことなのだけれども、しかし、同じマスコミでも新聞や雑誌などの活字メディアはまだ「買う」とか、「読む」などの多少は能動的な動きをメディアの受容者がしなければならないのに対して、テレビというのは完全に受動的な態度で接するメディアであるから問題が大きくなるということなのだろう。しかし、そうしたテレビメディアの社会の中での唯一の能動的なポジションにいるはずのテレビマンの体質が、自らそうしたメディア状況の中にいるという意識が希薄であり、新聞や雑誌と同じセンショーショナリズムに走り、それがテレビメディアの中でどんどん自己増殖しているというのが問題なのである。

 で、その解決策というものがあるのかということなのであるが、多分ないだろう。とにかく、田中角栄が郵政大臣時代にやたら全国のテレビ局申請にOKを出し、日本教育テレビと東京12チャンネルという二つの民放教育局を総合放送局にしてしまったのがそもそもの原因である。とにかく、東京にあるNHKを含め、公共放送2チャンネル、民放5チャンネルという地上波放送自体が多すぎるのである。アメリカだって民放4チャンネルだけである。

 ボチボチ、民放3チャンネルぐらいにツブれていただいて、公共放送2チャンネル、民放2チャンネルくらいになれば少しはマトモな番組ができるのではないか。しかし、そういうとマズ最初になくなるのはテレビ東京とテレビ朝日か。

 う~ん、これも悩ましいな。できればこの二つだけは残って欲しいのだけれども。

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