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2010年9月19日 (日)

「正義」の話を当たり前のようにするっていうのは、やっぱり「正義」じゃないのだ

 ベストセラーである。ハーバード大学の授業をベースにした本である。ということで多少は緊張して読み始めたのであるが、何と、これは「トンデモ本」の一種であるのですね。こんな授業を受けているハーバード大学生ってたいしたことないな、という印象を持つにいたった。

『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル著/鬼澤忍訳/早川書房/2010年5月25日刊〈私が買ったのは9月10日刊の63版!〉)

 サンデルはまず最初に「究極の選択」のような命題を与える。つまり『あなたは路面電車の運転手で、時速60マイルで疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ。ふと、右側へそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。どうすべきだろか? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ! 何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。』あるいは『アフガン戦線で丸腰のヤギ飼いを捉えたアメリカ人兵曹は、キリスト教的良心からそのヤギ飼いを解放してしまう。しかし、兵曹がいた部隊はヤギ飼いから部隊の存在を教えられたタリバン兵によってほとんど全滅させられてしまう。はたして、兵曹はヤギ飼いを殺すべきだったのか、どうなのか』と。

 しかし、こんなのは決して難しい問題でも何でもない。答えは簡単。「どちらも正しい」あるいは「どちらも間違っている」である。これが正解。それ以外に答えようがないじゃないか。

 もうひとつ。サンデルは国家のおこした過去の不正について述べる。つまり、ドイツのナチスのホロコーストであり、日本の従軍慰安婦問題であり、オーストラリアの先住民に対する強制隔離政策であり、アメリカの日系アメリカ人に対する強制収容問題であり、ハワイの独立王国滅亡であり、アフリカ系アメリカ人に対する奴隷制の問題である。しかし、肝心の問題には一切触れないのだ。

 つまり、アメリカ(当時は「アメリカ」という名前さえなかった)先住民からの強制土地収奪の問題だ。

 何故か。つまり、それをとり上げてしまうと「アメリカ建国の歴史」を否定しかねないからである。アフリカ系アメリカ人に対する奴隷制と差別問題は「アメリカの歴史上の問題である」からそれを検証し、反省することは問題はない。しかし、「先住民から土地を収奪したことによって、アメリカ合衆国ができた」というたかだか200数十年前の歴史を反省したら、それこそアメリカ合衆国というものを否定しなければならなくなってしまうのだ。

 日本においても「古事記」や「日本書紀」といった「後の時代に書かれた建国史」を、その神話的部分は除いても、なお歴史・正史として認めようという勢力がいる。つまり、それを否定されてしまうと、日本と言う国の存在を、日本人と言うアイデンティティを失ってしまうと考える人たちがいるということなのだ。同じように、つい最近の話であり、誰でもが知っている話なのであるが、やはり「先住民の土地を収奪した不正な方法で出来たアメリカ合衆国」ということを認めてしまうと、やはりアメリカ合衆国というものの存在や、アメリカ合衆国市民としてのアイデンティティを失ってしまうと考える人たちがいるのだろう。

 だから、マイケル・サンデルは「建国の(恥ずべき)歴史」には触れない。

 これは、とんでもない「政治哲学」ではないのか?

 おまけに、アリストテレスの「共通善」だって? そんなものは、既に否定されている概念じゃないか。まあ、「奴隷制(といっても最近の奴隷制とは違うが)を肯定した」アリストテレスは、要は市民の役割として「政治参加」を言っており、市民じゃない奴隷には政治参加の資格はないと言っている。当時はそれでも「革新的」な発想だったのかもしれないが。いま、それを言ってしまえば、単なる「保守主義」でしかない。

 サンデルはバラク・オバマの参謀であるらしい。そういえば、オバマの最近の発言もおかしい。ノーベル賞を獲った理由にもなっている「核廃絶宣言」だが、だったらまずアメリカから核をすべて捨てて、「もうアメリカは核を持っていないんだから、皆もそうしようね」と言って、自ら範を示せばいいものを、結局は「アメリカは核を捨てる決心をしたのだから、皆も決心してね。では、皆一緒に核を捨てましょう」という具合に、要は、自ら行動を単独で起こそうとはしないのだ。世界はいまや共同体なのだから、その共同体で皆で一緒に行動を起こそうねって言ったって、そんなことに同調する世界ではないのだ。

 つまり、「コミュニタリアニズム=共同体主義」とは、単にアメリカ中心で世界をアメリカと同じ世界に巻き込もうという発想にすぎないのだ。 

「アメリカ中心のグローバル・エコノミックス」の政治版だな。これは。

「正義」というのは、ある人にとっては「正義」かもしれないが、別の人にとっては「不正」であるかもしれないし、その別の人にとっての「正義」は、またある人にとっては「不正」だったりするのである。所詮、「正義」というものは相対主義的なものでしかない、ということに触れていないこの本は、だから「トンデモ本」なのだ。

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