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2010年9月10日 (金)

東京の真ん中の「空虚」な空間について

Network23

 駅で東京メトロの路線表を見ていたら、当然なのだけれども真ん中の緑色の場所に気がついた。そこはあの「天皇のおわします場所=皇居」であるということは知っているだけど、広いねえ。完全に小さなひとつの「区」ぐらいの大きさがある。結構な広さだ。周囲1周約5km(これは自転車で走った実走行距離)。勿論、そこは天皇の宮殿だけじゃなくて、宮内庁や宮内庁病院、皇宮警察署などの付帯施設もあるわけなのだが、それにしてもその周囲の東京の人口密度に比較してとてつもなく閑散とした場所であることは確かだ。

 ロラン・バルトが『表徴の帝国』で書いたとおり『その中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである』というとおり、まさに空虚の中心点としてそこにある「皇居」は、つい65年前(これを「つい」と言ってもいいのかどうか)までは、空虚どころか、政治を司る中心として(無理やり軍部によって)動いていた時期がある。本来は、その時期においても実は「空虚な中心点」でしかない皇居であったが、しかし「密な中心点として」存在させられた。明治憲法(つまり「天皇は神聖にして侵すべからず」という文言によって)のひとことがあったために、「現人神」として衆人から崇めたてまつられ、要は「神」になってしまったのだ。

 とは言うものの、「天皇機関説」のとおり、「天皇」そのものは「空虚な中心点」でしかない。それは「現人神」であろうが「国家の統合の象徴」であろうが同じである。「天皇という存在」そのものに関わる問題なのだ。

 9月9日に書いた「マンチュリアン・リポート」の志津中尉は、そんな場所「空虚な中心点」に呼ばれてしまったわけだ。つまり、天皇を「現人神」ではなく「人間」である、という当然のことを言ってしまったために。

 当然、そこには「人間であるはずの天皇(=本人の意志)」と「神であらなければならない天皇(=国家の意志)」の、ふたつの意志の相克があるはずだ。

「神としての天皇」が十分存在価値を持っていた時代であれば、ロラン・バルトは「空虚」という言葉は使わなかっただろうか。そこには実体としての「権力」が(使おうと思えば)使える状況があった。まあ、「天皇機関説」では無理ですがね。しかし、「法的」には使える状況にはあったのである。しかし、やはりそこは「空虚」な中心点でしかないのだ。

 翻って今はどうなのだろうか。本当に「空虚な中心点」に止まっているのだろうか。あるいは、再びその「空虚な中心点」を実体化させる人間が出てくるのかどうか。まあ、そういう人間が出てこないとも限らないので、一生懸命「靖国神社」廃止を言う人間もいるのだ。「靖国」の代わりに、明治政府からの戦没者を慰霊するための慰霊場所を作ればいいじゃないか、ということでね。つまり、それは「神道」じゃないということですよ。

 でも、日本神道の最高の儀式者であるのが天皇であるならば、それは天皇自身の中でどうやって合理化するのであろうか。

 それが分からない国であることが、我が国の弱点であることは確かである。

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