『SCHOOL GIRL COMPLEX』は「植物図鑑」か?
まるで中平卓馬の言う「植物図鑑」のような写真集である。真四角な装丁に真四角な、女子高生(らしき)モデルのパーツが156枚載っている。すべて顔は見えない。
『SCHOOL GIRL COMPLEX』(青山裕企著/イースト・プレス/2010年7月23日刊)
顔という意匠を消した女子高生(らしき)モデルの足、ブラウスの脇から少しだけ見える素肌、腿、体育着、スクール水着、フワッと舞い上がるスカート、背中・・・。エロチック? というにはエロチックではない。しかし少しだけ感じる「性」の匂い。つまりそれは「女子高生(らしき)」という記号を持つ少女たちの、少女から大人になる過程における「意匠」なのだ。
ここで、この写真集は突然「植物図鑑」ではなくなってしまう。まさに「植物図鑑」のようにして撮られているにもかかわらず、ひとりひとりの「おんな」性を感じてしまうのは私だけだろうか?
まだまだ、完成された女になっていない生き物にもかかわらず、「女子高生(らしき)」という存在は、半分「女」というだけで「おんな」になってしまう。「おんな」になってしまった以上は、それは如何に匿名のうちに撮影されたものであっても、匿名性はなくなってしまい、まさしく「おんな」としてそこに立っている。
下着が見えそうで見えないギリギリの写真に、本人は意識していないであろうエロチックな仕草の写真に、別にエロチックなパーツでないはずの体の一部分が、しかし実にエロチックな感覚に囚われるのは、やはり、撮られた本人たちは実は十分に「性」を意識した、エロチックな存在だからなのか。
女性の人生で一番の「華」である時期の「女子高生」。やはり、彼女たちは十分以上に自分を意識している存在であるという証拠なのであろう。
同じ写真家の前作『ソラリーマン』(ピエブックス/2010年2月刊)が、全員顔出し、おまけにみんな全員ジャンプという、「いかにも」な設定で撮影されているにもかかわらず、実はそれは「サラリーマン」という匿名性の中にみんな沈んでいるのとまったく好対象と言ってよい。
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