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2010年8月16日 (月)

『永遠の0』って、要はゼロ戦ってはじめから特攻機だったのだ

 ゼロ戦(海軍零式艦上戦闘機)ってのは、まさにいろいろなところをそぎ落とした戦闘機、というか殆ど「戦闘」のための装置までそぎ落とした戦闘機であり、その「そぎ落とした」部分を操縦者の能力に頼った戦闘機であり、それは実は「戦闘能力」のない戦闘機であったわけなのである。つまり、初めから「特攻」を前提にしていたと言えないこともない。その後の、特攻専門の潜水艦・回天や、ロケット・桜花などにつながる思想を、すでにゼロ戦が持っていたということなのだ。

『永遠の0(ゼロ)』(百田尚樹著/講談社文庫/2009年7月15日刊)

 アメリカから「ゼロファイター」と恐れられたゼロ戦の正体は、その長大な航続距離と空戦性能だった。つまり、日中戦争での中国奥地まで攻め入ることのできる航続距離。そして、天才的な操縦技術に頼った空戦性能なのだ。そのために求めたものはとにかく「軽量化」である。軽量化のために捨てたものは、防御性であり、急降下性能である。つまり、ゼロ戦は敵に撃たれると簡単に操縦席がやられてしまうし、燃料タンクがやられてしまう。キャノピーは防弾ガラスでできていないし、操縦席も防弾性能はまったくない。燃料タンクも防弾タンクになっていない。それらを備えることは当時のテクノロジーであっても可能だった。しかしなぜそれらを備えなかったのか。つまりは「軽量化」のためだった。軽量化すれば、小馬力のエンジンで、少ない燃料で沢山とべるし、空戦性能だって上がる。じゃあ、それらの弱点はどうしたのかと言えば、操縦士の訓練だった。要は、操縦士の腕さえ上げればそれらの弱点を補ってあまりあるというのが当時の日本の考え方だったのだ。

 一方アメリカは、そんな日本に対抗して、敵に撃たれても「操縦士が死なない」なおかつ「飛行機が落ちない」飛行機を開発した、それがF6Fヘルキャットである。その発想は「大馬力」で速力を出し、その大馬力を利用して「防御性」を大幅にアップさせたのである。ゼロ戦にまけてもいい、しかし、負けたことをてこにしてもう一回ゼロ戦に挑めというのがアメリカの発想であり、そのために何度でも操縦士を「生き返らせる」方法を考えたのだ。

 う~む、この辺「何度でも挑め」と言う発想は、現代のアメリカでも通用する発想なのだなという気がする。日本では、一度の挑戦は許されるがそこで失敗した場合は、二度目の挑戦に注目されることはあまりない。しかし、アメリカは何度でも挑戦することが許される社会なのだろうか。

 ゼロ戦は一回米軍の戦闘機にやられてしまっては、そのまま海の藻屑にならざるを得ない状況で闘っていた。しかし、アメリカはゼロ戦に撃墜されても、潜水艦に拾われて、再度戦闘機乗りとして活躍できる道がある。もう、戦闘機による格闘戦はやりたくないという操縦士であっても、そこで再度戦闘機乗りになれるという道もあるけど、そうなりたくない道もあるはずである。それは選択可能なものなのだ。

 これを、大量生産のアメリカ的発想というのは間違っているだろう。大量生産的発想は当時の日本にもあったのだ。問題は、人間の命に対する考え方の問題だろう。特に、一般市民の命に対する。

 ここでいう一般市民とは、要は、選ばれた「士族」とかというものではない市民ということだ。当時は「市民」などと言う言葉はなかっただろう。要は「平民」に属する人たちにとっては、ここで自らが「士族」になれるかもしれなかった瞬間に、「士族」の側から「お前ら(平民は)死ね」と言われたのが「特攻」なのである。その為の飛行機がゼロ戦であることは実に象徴的である。まさに、「特攻」というものが前提にあった航空機がゼロ戦であったということであろう。

 小説の話をしなければいけない。つまり、この小説で述べられている宮部少尉(特命少尉)については、本来はここで述べられている宮部少尉は「平民」の出身である。つまり、上から命令されれば死ぬことを恐れてはならない、いや「自ら死を選ぶ」人間でなければならない。しかし、宮部は死ぬことを恐れる。死を選びたくない人間である。しかし、そんな選択は「士族」だけのものだ。そう、じつは「士族」こそが自ら「死」を選ぶことを拒否してきた階級なのだ。「士族」にとっては「死」というものは最終的な選択なのだ。それは「士族」にだけ与えられたいわば「特権」なのである。それを自ら選ぼうとした「平民=宮部」は忌避され、多分、相当やられたのであろう。その結果としての、「宮部の特攻志願」である。

 この小説では語られることのなかった「宮部の特攻志願」であるが、私は以上のように考えた。でもないと、あれだけ死にたくなかった宮部が特攻を志願するはずがないじゃないか。

 ともあれ、しかし、ゼロ戦っていうのは、初めから特攻用の戦闘機だったのだと考えると、その設計者の堀越二郎氏の責任ってのもあるな。勿論、それは帝国海軍からの発注で設計したのかもしれないが・・・。

 

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