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2010年7月19日 (月)

祝! 『来るべき言葉のために』復刊

 1970年に風土社から刊行されて長らく幻の写真集と言われたいた『来るべき言葉のために』(中平卓馬/オシリス/2010年6月15日刊)が復刻出版された。なにはともあれ、めでたいことである。

 内容は、ご存知の通りまだ『なぜ、植物図鑑か』(晶文社/1973年/千曲学芸文庫/2007年刊)を書く前の段階の写真であり、つまり「アレ・ブレ・ボケ」全開の写真集である。

『なぜ、植物図鑑か』で中平氏は「図鑑は輝くばかりの事物の表層をなぞるだけである。その内側に入り込んだり、その裏側にある意味を探ろうとする下司な好奇心、あるいは私の思い上がりを図鑑は徹底的に拒絶して、事物が事物であることを明確化することだけで成立する」と書き、「モノクロームの暗室作業にあった<手の痕跡>を私はきれいさっぱり捨てようと思う」と書き、「これはまた私の方法でなければならないだろう」として、それまでの「アレ・ブレ・ボケ」に代表される、作家(写真家)の「内面の表象」であるかのような、特権的な写真を自ら否定した。その後、酔いつぶれたあげくの昏睡状態から回復した中平氏はその健在ぶりを私たちに示した小原真史監督のドキュメンタリー『カメラになった男 写真家 中平卓馬」(2006年公開)において、あるいは『原点復帰―横浜』(2003年)において「写真はドキュメンタリーだと私は思う。クリエイトでもメモリーでもない!」と、それ自体は真っ当な発言をして、カラー写真のみを撮影し続けている。たしかに、それは「植物図鑑」のようである。

 一方、「PROVOKE」同人であった森山大道氏は、当時は中平卓馬氏と同様の「アレ・ブレ・ボケ」写真を撮っていたのだが、その後、少しづつ方向を変化させつつ、「アレ・ブレ・ボケ」はなくなったものの、相変わらずの「森山風」ハイコントラスト写真を続けつつ、モノクロームを中心に写真を撮っている。

 このどちらがどうなのかは何とも言えないが、ふたりとも「アレ・ブレ・ボケ」をやめて、基本的には「明確な」写真に至ったというのは、いずれも「写真はドキュメンタリーである」という、写真の原点に立ち戻った、ということなのだろう。そう「ドキュメンタリーは明晰さが基本である」からなのだ。

 最近のふたりの写真を見比べてみると、やはり中平氏の方が徹底していて、これが「中平卓馬」とクレジットされていないと、中平卓馬氏の写真であると誰もわからない「普通の」写真なのだ。たしかにこれは「植物図鑑」である。しかし、ここまで自己解体してしまって、自らの「個別性」を消してしまったときに写真家は写真家足り得るのであろうか。これらの写真のどこに「中平卓馬性」はあるのだろうか、という気になってくる。勿論、一枚の写真だけでなく、何枚も見続けるうちに、その被写体の選び方、というとなるとそのアングルやらカメラ位置の置き方などに「中平卓馬性」はあるのである。しかし、その「中平卓馬性」は極めて弱い軸である。

 そういう意味では、この『来るべき言葉のために』に所収されている「アレ・ブレ・ボケ」写真のほうに、懐かしさとともに「中平卓馬性」を存分に味わえる幸せを感じてしまうのは、私だけではないだろう。

 勿論、そんな気持ちを持つことは、中平卓馬氏からは最も忌み嫌われることなのだろうけど。

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