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2010年6月

2010年6月30日 (水)

『メディア覇権戦争』はまだまだ本格的じゃない

 5月のiPad発売以来やたらといろいろなメディアで「電子書籍」論議が盛んだ。

 で、『週刊 東洋経済』7月3日号の特集が『激烈! メディア覇権戦争』である。状況としては、まだiPadが出たばかりで、メディア側の対応はまだまだ本格的じゃないところであり、これから今年の秋か冬になってキンドルの日本語版がでれば、またまたそこで電子書籍論議が巻き起こり、グーグル・エディションズが出ればまたそこで・・・と言う具合に新しいメディアをめぐった古いメディアでの特集がまたまた売れるというところなのだろう。

『東洋経済』の特集は、アップル・グーグル・アマゾンの新メディア軍を「新大陸」として、新聞・雑誌・テレビという「旧大陸」への侵攻として捉えている。『第1章 電子書籍は「本」を救うのか』『第2章 「新聞」の暗中模索』『第3章 瀕死! 日の丸プラットフォーム』という3部構成になった特集記事で、唯一確定的なのは第3章のプラットフォームの問題だけであり、あとのふたつはまだまだ状況が見えていない。

 インタビューが出版界から講談社の野間省伸副社長(日本電子書籍出版社協会代表理事でもある)、テレビ業界から広瀬道貞民放連会長(テレビ朝日顧問)、新聞業界から秋山耿太郎朝日新聞社長の3氏。

 ところで、この「旧大陸」の3メディアって、それぞれいろいろな形で保護されてきた業界なのだ。

 出版はご存知の「再販価格維持制度」があり、「本は定価販売」というのが当たり前になっている。テレビは免許制度に守られて、ひたすら競争から免れている業界である。新聞も、日本では有名な宅配制度がしっかり生き残っていて、それが日本の新聞を守っている。

 対する「新大陸」の側は何の保護法制もないし、新しいビジネスとして胡散臭い目で見られてきた業界である。

 しかし、いまや完全にプラットフォームを支配し、コンテンツを手に入れようとしている。これから先、「旧大陸」側はどうすればよいのか。

 まずひとつは、それら「旧大陸」メディアを保護してきたいろいろの制度をなくして、「新大陸」側と同じところに立つことではないだろうか。

 勿論、それらの保護制度があったからこそ、これまでの好調を維持できてきたこと、ここまでの発展を可能にしてきたことは間違いない。しかし、最早それらの保護制度も制度疲労をおこしているのではないだろうか。

 再販価格維持制度はそれとセットになった委託販売制度と一緒になって返品率40%超という、もはや出版業の首を絞めている状況だ。テレビの免許制度も、いまや電波オークションを採用して電波使用料を高騰させなければ、異常な経費と収入のギャップとなって現れ、日本の電波行政そのものがおかしなことになってしまっている。また、新聞の宅配制度もそれと一緒になった「押し紙」とともに批判の対象だ。宅配制度は新聞業界の企業努力じゃないかという言い方もあるが、しかし、それをしも戦前の新聞統合の結果としての独占の賜物であるのだ。

 そうした保護制度をなくして初めて池田信夫氏(アゴラブックス代表取締役)と岸博幸氏(慶應大学教授)の『激論 多くの新聞社、テレビ局、出版社が潰れる』という対談の状況がやってくるだろうし、そういった状況、つまり「新規事業が勃興したり、潰れたりという、当たり前の業界」というものにそれら3業界が変化しないと、わが国の状況も変わりようがないのだ。

 まだまだ『メディア覇権戦争』はその前々段階だし、これから何年か後にやってくる本格的な『戦争』に備えるためには、自らを保護している制度を。まず自ら捨て去ることが必要なのではないだろうか。

「黒船の襲来」にたとえられる電子書籍の衝撃だが、江戸時代末期の黒船の襲来というのは、やむをえない時代の変化であり、それに気付こうとしなかった当時の日本人にとっての「突然の変化」でしかなかった。今回の「黒船の襲来」も同様に、やむをえない時代の変化というものに過ぎない。変化に対応できない「尊王攘夷派」はもういらないのだ。

2010年6月26日 (土)

量は質を凌駕する。荒木経惟の新作に寄せて

『いい顔してる人』(荒木経惟著/PHP研究所/2010年6月1日刊)

 荒木経惟氏の新作本が「また」出た。本当に何冊出せば気がすむのだろうという位に出ている。『荒木本!』(飯沢耕太郎編著/美術出版社/2006年12月10日刊)によれば1970年から2005年までに出版された本の数357冊だそうである。ということは、年に10冊出したとして既に400冊を超える出版数になるはずだ。

 今回の本はどちらかと言えば「お手軽本」に属する本であり、新作写真は一切なくて、過去の作品にことよせて「語り下ろし」た出来である。要は、「顔こそはヌードである」といういままでの荒木氏の主張をそのまま敷衍したものであり、特に最近の『日本人の顔』シリーズにつながるポートレート写真に関する考え方をおしゃべりした本である。したがって、この本における新しいい発見はなくて、唯一面白いのは昔の原宿あたりの歩道に座って、両側に弟子か何かを座らせて(左側に座っている男がライカをぶら下げているので多分弟子なのだろう)、本人はサングラスに葉巻か何かを加えて、トランクに一杯の写真を一枚100円で売っているという昔の不良性一杯の写真が再録されている部分だ。この「不良性」というところが荒木の面白いところであり、いまだにこの不良性がなくなっていないところが、荒木氏の魅力でもある。

 今、私の手元には昔の荒木氏の本『男と女の間には写真機がある』(白夜書房/1978年1月1日刊)がある。まだ、荒木経惟氏が「アラーキー」という呼び方をされるちょっと前の、まだ「エロ写真家」として認識されていて、白夜書房の末井昭と出会ったちょっと後のころの写真集(?)である。その目次からいくつか抜き出してみると「写真とは借景なのである」「私現実」「写真気は性具なのである」「わが愛、陽子」「もしガンになったら」といった具合。ほとんど今言っていることと変わりのない内容なのである。

 写真とは「真実」を「写す」ものではなくて、「偽の(借り物の)」「真実」を「写す」ものであり、それが「私」的な「真実」である。という荒木氏の主張はルポルタージュ写真にたいして『偽ルポルタージュ日記』という形で主張してみたり、『偽日記』というかたちで、日付入りカメラを操作する。

 唯一、荒木氏にとっての「真実」は「荒木陽子」という、最高のモデルであり、最大の理解者であり、最愛の人であった、陽子夫人の存在であった。その陽子夫人ももはやいない、荒木の最初の本格的な写真集ともいうべき「センチメンタルな旅」の中の写真でいみじくも表現してしまったように、「陽子の死」というものを予感していたかのように。というか、だれでも一度は死ぬのだし、それをいかに予感して撮影をするのかということである。

 最近は愛猫チロの死にも立ち会って、自分自身の前立腺ガンにも向き合って、「死」というものを前提にした自分自身の存在をかんじえいるのであろう。どこか、「死」を予感させる写真が多くなってきているのが気になる荒木氏である。

 ただし、うれしいのはそのような状態になっても、土門拳のように仏像写真や、お寺の写真という抹香臭い方向に行くことなく、未だに「人妻エロス」である荒木氏の「健全」ぶりだ。勿論、いまや人妻にも「死」を予感しながら撮影をしているのだろうが、「エロ」であることには変わりはない。

 ずっとこの「エロ写真」路線を行ってほしいものだ。そして「エロ」のまま死んでいく。できれば「ハメ撮りで腹上死」なんて一番荒木氏らしい死に方なんだけどなあ。

2010年6月24日 (木)

ニックネームで呼ばれる経営者

『拝金』(堀江貴文著/徳間書店/2010年6月30日刊/電子書籍版もあり)

 あの「ホリエモン」が書いた小説である。あの裁判、インサイダー取引や、マネーロンダリングや、違法証券取引について、いわゆる「ライブドア事件」について、もう少し真相に迫る内容を期待したのだけれども、未だ係争中の事件についてはまだ書けないことが一杯あるのだろう。したがって、事件については既に知っていることだけが書かれてる。まあ、真相については結審してからのお楽しみということにしておこうか。多分、ほとんどの容疑については無罪か、あるいは微罪でおわるだろう。問題は、だれも覚えていない時期に出される結審なんてどうでもよい、皆の関心が集まっている時期に起訴をしたということが、検察とフジテレビ(ホリエモン流に言えば「マスゴミ」)にとっては大事なことなのである。皆の関心が集まっている時期に「ホリエモンは悪者」というイメージさえ、大衆に与えればそれで良いのだ。結果はどうでもよい、問題は「イメージ」。

 で、「ホリエモン」と書いているが、こうしてニックネームで呼ばれた会社の経営者って、これまでいなかったのではないだろうか? 

 会社の名前はブランドであるから有名である必要がある。しかし、経営者と言うのはいわば「黒子」であり、普通には名前が云々されることはなかった。講談社や小学館という名前は知っていても、野間省伸とか相賀昌弘という名前を知っているのは業界関係者だけだろう。まあ、出版業界では角川春樹くらいのものだろうか、事件になったからね。でも現社長の角川歴彦までは知っている人は少ないだろう。会社の経営者ってそんなもんである。いや、そんなもんで「あった」。

 しかし、最近ではニッサンのカルロス・ゴーンとか、トヨタの豊田章男とか、社長の名前が有名になっている。多分、それは会社のブランド化がうまくいっていないのか、あるいはブランド化が難しいところにその原因があるのではないだろうか。つまり、いまやニッサンとかトヨタとかいっても、その製造するクルマに両社の差異がなくなってきている。昔なら「技術の日産」とかいうブランド化がなされていたものが、そうした差異がなくなってきて、各社の作るモノ・サービスに違いがなくなってきている。そこで何をもって会社のイメージを代表するものにするかと考えたときに、一番簡単なのは「社長の名前」だ。どんなクルマを作っているのか分からないけど、要はゴーンのニッサンだ、豊田章男のトヨタだ、と言う具合に大衆は区別をつける。

 と考えると、急速にのし上がってきたIT企業では、まさにこうした「社長の名前のブランド化」が行われている業界だ。いわく、三木谷の楽天だったり、孫正義のソフトバンクだったり、そしてホリエモンのライウドアである。こうした傾向はアメリカの方がもっと強くて、ビル・ゲイツのマイクロソフトとか、スティーブ・ジョブスのアップルとか、要は企業設立当初の頃は何をやっている企業なのかは周囲の人がよくわからないので、経営者のカリスマ性に頼り、そのカリスマ性に投資するわけである。

 つまり、会社の性格がよくわからない、会社の内容がよくわからない、会社の製造物がよくわからない、会社のサービスがよくわからない・・・・・・・・・で、経営者の名前で投資をする。経営者のブランドに投資をする。まさに、内容のない、マネーゲームだけで会社を発展させてきた「IT企業」ならではの、会社のアピール方法ではないか。

 それでも、ニックネームまでつけて呼ばれた経営者はホリエモンくらいしか思い浮かばない。その位、人口に膾炙した名前であるのだろう。しかし、この「ホリエモン」というニックネーム、誰が付けたんだろう。もしかしたら、ライブドア自身が言い始めたのではないか。としたら、ほとんど確信犯だね。

 まさに社長の名前のブランド化。

2010年6月23日 (水)

『座頭市』は結局はカツシンとの距離感が問題

『座頭市 THE LAST』(原作:子母澤寛/脚本:山岸きくみ/監督:阪本順治/制作:セディックインターナショナル)を観た。

「座頭市」シリーズはほんの数ページの原作(というよりは原案?)を犬塚稔という脚本家と、勝新太郎という役者が作り上げた強烈な世界観とキャラクターにより、世界的な評価を得ている作品群である。アルフレッド・ヒチコックがB級の(要はあまり売れていなくて有名じゃない)短編小説を原作にしてヒット映画を作り続けてきたのと同様、映画の側でかなり重要な作りこみを勝手にやっているのが、「座頭市」シリーズの成功の原因なのである。

 したがって、「座頭市」を映画にするということは、子母澤寛を原作とするのではなくて、あくまでも勝新太郎の「座頭市」を原作とすることになるのだ。つまり、勝新太郎が作り上げた「座頭市」のキャラクターや世界観との「距離感」がどうなのか、ということである。それは、ビートたけしがやろうが、綾瀬はるかが演じようが、そして香取慎吾が座頭市だろうが、同じことである。そういう意味では、最後には「目明き」になってしまいタップダンスを踊ってしまう座頭市だとか、「女座頭市」だとかの方が、明確に勝新太郎の座頭市との距離感があって、それはそれで成功していると言えるのではないか。まあ、「そりゃないよ!」という意味の感想は別にしておいて・・・。

 で、この香取慎吾の座頭市なのだが、なんとも中途半端な座頭市になってしまっている。女がいてもいい、何しろ最後の座頭市なのだ。しかし、その存在がいまひとつハッキリしない。その女との関係性の中に座頭市がいないのだ。これが最後の殺し合いだといって闘いに赴く市なのだが、その闘いの後で「渡世の義理」とかで、その闘いとは何の関係も無いヤクザ者に刺し殺される女。だとしたら、その女の為に闘うのが座頭市ではないのか? しかし、この「渡世の義理」とはまったく「渡世の義理」でも何でもない、単なる「行きずり殺人」にすぎない。だから、市はその関係性もまったくなくして、生まれ故郷に帰ってくるのであろうか。なんとも意味のよくわからない、映画の出だしである。

 大悪のヤクザがいて、小悪のヤクザを苦しめる。小悪のヤクザは農民の側に立つでもないし、農民を元は苦しめていたのだろうが、今は自分が大悪のヤクザに苦しめられているだけである。したがって、農民はその小悪を助けたりはしない。それは良くわかる。が、大悪が農民(漁民でもある)たちの港を大改築してロシアの舟が入るような大きな港を作ろうとして、農民を排除しようとする。当然、「大悪対農民」という対立構図が出来るわけだが、この対立構図の中には「小悪」はいない。だったら初めから小悪の存在はなくてもよい。むしろ、「農民の側に立つ小悪のヤクザ」という存在ならば、その存在価値はあるのにね。

 大悪とくっつく悪代官というのも、よくある構図である。しかし、悪いのは代官の下の侍であり、この代官の立ち位置も見えにくい。じゃあ、代官はこの大悪の味方なのか、敵なのか。それとも高踏的な立場で、結果として農民の味方に立ってくれる存在なのか。それもよくわからない。

 問題は、シナリオであろう。『シナリオ』誌に掲載されている最終稿を読むと、ほぼ完成された映画の通りである。ということは阪本順治もこのシナリオをよしとしたのであろうか。香取慎吾は勝新太郎ではない。しかし、勝座頭市との距離感をどのように設定してこのキャラクターを作り上げたのであろうか。阪本、香取としてはビートたけし座頭市のような距離感はとるつもりは無くて、むしろ勝座頭市に近い距離感でキャラクターを作ることを目指したのであろう。しかし、その為のシナリオがまったく犬塚脚本とは異なった方向になってしまった。これも、中途半端。

 こうして、すべてが中途半端な座頭市が出来上がってしまった。

 ひとり中途半端でないのは仲代達也の演技である。この「ひとり芝居」はどうにかならないものか。もともと、相手がどうであろうが勝手にひとりで芝居をするのが仲代ではあるが、所詮脇役、敵役なのである。相手のいる芝居をしてもらわなければ困るのである。ねぇ。

 

2010年6月21日 (月)

『銀塩ライカが生産終了』って、ヤッパリ!

 アサヒカメラの7月号は毎年ヌード特集で結構売れているらしい。今年の7月号もヌード特集で、どれだけ増刷したかどうかは知らないけれど、今月の第一の見出しは『銀塩ライカがついに生産終了!?』だろう。

 記事の中のタイトルは『――M7&MP生産終了――銀塩ライカ「撤退」の衝撃』というものだ。実際は、M7とMPというアナログカメラだけじゃなくてS2というデジタルカメラも生産終了ということで、これからのライカはM9のライカ判撮像素子のデジタルカメラだけの生産工場になるということだ。まあ、注文生産でのアナログライカの製造はするようだけど。

 元々、24mmX35mmという、映画用の35mmフィルムをその2フレーム分を使って撮影部分として使用したのが、いわゆる「ライカ判」である。これは、その後の世界中のカメラの標準撮影サイズとして定着して、世界中のカメラメーカーがそのサイズのカメラを製作する100年があった訳だ。35mmフィルムはその後、大いなる発展を遂げて、つい最近にはかなりの大判のプリントにも耐えられるフィルムとして定着した。勿論、35mm以上の大判フィルムの存在はいまでも有効で、ブローニー判や8X10なども存在するし、その価値は今まで以上に高まっているともいえる。

 つまり、ライカ判の生みの親自身がついにライカ判を捨てたというのが、今回の「衝撃」なのだろう。

 しかし、そんなことは「いずれ来ること」であたのだ。多分、ライカとしてはM9で「ライカ判撮像素子」を実現したことで、自分自身の「ライカ判フィルム」への責任を果たしたというところなのだろう。

 ライカ社のアナログライカ撤退の理由が面白い。「もし、仮にMPの後継機を作ったとしても・・・事実上の競争相手は中古ライカになてしまい勝算はない」というものである。つまり、それだけ「我がライカはいいものを作ってきたのだ」という宣言でもあるのだろう。事実、「距離系連動、マニュアルフォーカス」ということではM7やMP以上の機材は出来ないであろう。というか、M3を作った時に既にその状況は見えていたのであり、その後のライカM2、M4、M5、M6、M7は、要はM2のすべて亜流なのである。良く出来すぎてしまったM3という悲劇がここにある。

「距離系連動、マニュアルフォーカス」という以上のことは、後は「オートフォーカス、オート露出、オート色温度調整」を「距離系連動」でやるしかない。「オートフォーカス、オート露出、オート色温度調整」は一眼レフで可能になった。しかし、「距離系連動」でこれの総てを可能にした機材はない。つまり、今後「距離系連動カメラ」でこれらの機能を完璧にこなせる機材は生まれないということなのだろう。要は、「距離系連動カメラ」の開発目標はなくなってしまったのである。

 あとは、ニコン、キヤノンなどの一眼レフメーカーがどうするかである。勿論、コダック、フジのフィルムメーカーもそうだけど。

 当面、35mmフィルムがなくなるというということは、当面ないだろう。つまり、それの一番のユーザーであるハリウッドは、いまでも35mmフィルムの世界であるからである。確かに、最近はCG映画やデジタルシネマが増えてきた状況はある。しかし、いまだにハリウッドはアナログ・フィルムでの画像保存が第一であると考えているのだ。要は、ISOで定められた基準に基づいて作られているアナログ・フィルムの世界は既に100年以上たっても、製作当時と同じように再現できるという素晴らしい状況なのである。これが、デジタルになってしまうと、マイクロソフトなのかアップルなのかLINAXなのかは別として、それらのOS自体が短時間で変化してしまい、撮影時点と同じような形で再現できるかどうかは、まったく保障されていないのだ。今でも、ハリウッドの裏山にはとてつもない広さの山をくりぬいたフィルム保管倉庫があるのだ。

 つまり、最低でもコダックは35mmフィルムを作り続けるんだろうな。で、いまや数少ないアナログカメラ・メーカーとなってしまったニコン、キヤノンは・・・。

 日本の警視庁は、証拠保全の立場から未だにアナログ・フィルムでの証拠写真を採用している。

 さて、どうなるのか。おまけに、アナログ・ライカの中古品(しかないことになるが)のお値段がこれからどうなるのか・・・。

 興味がつきない。

2010年6月20日 (日)

『電子書籍元年』は時宣にかなった出版

『電子書籍元年』(田代真人著/インプレスジャパン/2010年5月21日刊)は時宣にかなった出版といえるかもしれない。

 著者田代真人氏は九州大学卒業後、朝日新聞の工務に入り、その後学研、ダイヤモンド社などでWeb関連の仕事をした後、今年、Web関連ブログで有名な池田信夫氏、元アスキーの西和彦氏らとともに、電子書籍の出版社アゴラブックスを立ち上げた人である。

 したがって、本の惹句にあるように「iPad&キンドルで本と出版業界は激変するか?」とか「iPad&キンドル、印税70%時代に何が起こるか」いうようなことに対しては、実業家として慎重な姿勢を示している。確かに「印税70%」は「理論的には」可能であるし、「出版社・取次・書店などの中抜き」が出来るというのも「理論的には」可能である。

 しかし、それは出版の仕事を現実に知らない人たちが勝手に言っているだけであり、電子出版が夢のような世界を作り出すかのように言って「紙の本」を売ろうと言う評論家の言説でしかない。現実の世界では、出版社や編集者が著者と読者の間で中間マージンを取るだけの存在でしかないなどということはあり得ない。実際には、編集者の介在しない出版物はあり得ず、編集者と著者・ライターとの有効な関係の中からしか「傑作」は生まれないのだし、出版社の持つブランド力や、宣伝・プロモーション力があってこそ、出版物が一般に流通するのである。

 いやいやそんなことはどうでもよい、自分は自費出版で「読み物」を出したいのだ、というひとはそれでもよい。流通なんてしなくてもよい、売れなくてもよい、と言う人は自由におやりなさい。そういう人のためには「電子書籍」は夢のようなメディアである。でも、それじゃあブログ書いているのと同じじゃないか。ブログだって宣伝しなけりゃ誰も読んでくれないし、読まれるためには書き手のブランドも大事なのだ。

 むしろ、重要なのは、現在の電子出版流通メディアの問題だろう。現在は、結局はキンドルのアマゾンとiPhone & iPadのアップルだけである。こうした流通寡占の中ではアマソンやアップルの販売政策がそのまま検閲として機能してしまう。例えば、講談社はボイジャージャパンを通じてアップルにコミックの流通を打診したところ、その3/4がアップルの基準を通らなかった。その基準を通らなかった理由は明らかにされていない。また、「紙の本」でベストセラーになった『妄撮』シリーズの電子版が最初はOKだったのが、ある日突然NGになってしまった。これを不審に思った講談社が問い合わせたところ、理由はなくただ「社内の審査基準が変わったため」という返事が返ってきた。

 勿論、アップルは一私法人であるからこれを以て「検閲である」などと言うつもりはない。しかし、もし『妄撮』が電子版だけの出版であったりしたら、もはや電子版『妄撮』は存在しないことになって、実質「検閲」と同じことになってしまうのである。

 電子版『妄撮』は紙版ではできないインタラクティブ性のある企画で、これはこれで面白かったんだけどね。

 要は、流通寡占の中ではこのように、寡占支配者次第では「なかったこと」にされてしまう表現が出てくる可能性が大変大きいということである。もし、電子出版ということが今後主流になるのであれば、アマゾン、アップルだけではなくもっと無数のメディアが出てくる必要があるだろう。また、こうした少数メディアだけが存在する状況である以上は、「紙の本」の必要性はなくならないであろう。当然、支配メディアに対抗するための抵抗メディアとしての存在である。こうしたメディアは、たとえ支配メディアが弾圧しようが、必ず出てくる抵抗メディアである。

 もうひとつ、この本で面白いのは「電子書籍の本命はiPadだ!」と言っている点である。キンドルやソニーの「ソニーリーダー」が電子書籍端末に限定して開発されていることに対して、iPadはタブレットPCとしてウェブ検索やメールなどが出来て、なおかつ「電子書籍端末としても使える」という部分に注目している。まあ、確かにタブレットPCとして使わないと、現状では電子書籍を廻る状況が極めてプアな段階では、単なる「でかくて」「電話がかけられない」iPhoneにすぎないのである。私自身はiPhoneは使っていないので比較はできないが、確かにタブレットPCとしての使い勝手は良い。良く言われる「キータッチ」の問題も、要は「慣れ」の問題でしかない。基本的にプリントしなければならない文章はデスクトップPCでやっているので、iPadではメールとメモ(もメール転送が楽だ)位しかないので、それで十分だろう。多分、iPadを使う人はみんなMacかWindowsマシンを使っている人だろうから、2台目のマシンとしては十分なスペックである。iPadの否定論の中には、これは中高年の最初のコンピュータとしては使えないという論があるが、まあ、それは無意味な論だろう。そんな人が最初からiPadを使うことはないからだ。

 ただし、この辺はどうなるのかよくわからない。「汎用マシン」が最初は提案されるが、結局流通するのは「単機能マシン」だったりするのが我々「素人」のマシン世界だ。「汎用マシン」は確かに便利だが、それはそれで使う際に手間や手順がかかったりする。「単機能マシン」は、それぞれの機能ごとにマシンが必要だが、それぞれのマシンは立ち上がりが早かったりして使いやすい。とは言うものの、「ワープロ・マシン」は「パソコン」に負けたから何とも言えないが。

 まあ、いずれにせよ、キンドル、iPadというマシンのおかげで「電子書籍元年」という年になった今年だが、実際には「電子書籍全開」という状況はまだまだやってくるわけではない。しかし、もはや「電子書籍」を無視して状況を語れる時ではないし、例えば「絶版」とか「品切れ重版未定」という状況で「飼い殺し」になっている非常に多数の本にとっては、まさに「時我に至り」である。実は「電子書籍」ということで一番有利になるのはこうした「絶版」「品切れ重版未定」本ではないかと考えているのだ。これこそ究極の「ロングテール」である。

 こうした、現状はまだまだ何とも言えない状況である。田代氏は「電子書籍」とか言って慌てふためく前に、出版社として、取次として、そして書店としてやることが、まだまだいっぱいあるだろう、ということである。最近、やたら書店関係の会合で「電子書籍」について語れという要請が多いが、そうじゃなくて「今何が出来るのか」を考えろ、「黒船が来たからって世の中はすぐに変わるわけではない」ということだろう。まあ、キンドルやiPadごときを黒船扱いすることがおかしいんだけどね。単なる新しいギミックが増えただけなんだから。

 もう少し、地に足がついたことを考えよう。

 ま、単なる面白がりの人(私?)は別だけどね。

 

2010年6月18日 (金)

『ヒルクライマー宣言』って、高千穂遥ってバッカじゃね?

 サイクルスポーツ(ロードレーサー)の世界にはいろいろのタイプの脚質をもったライダーがいて、それぞれがそれぞれの立場で活躍する場所があり、それでチームが構成されている。

 中でも一番華やかなのが「スプリンター」であろう。何しろ200kmを走るレースで最後の1kmだけ勝負する人なのである。おまけに、彼が勝負するに当たっては、それまで「列車」を組んでいたアシスト選手が数人いて、そのアシストがかわりばんこに首位に立ち、最後の最後、500m位がスプリンターの本番の勝負どころなのである。その代わり、何しろ平地で70km/h位のスピードで、押し合いへしあいしながらよそのチームのスプリンター同士との戦いを繰り広げる。一番有名なのはもう引退してしまったが、イタリアの伊達男マリオ・チポッリーニであろうか。なにしろ、罰金覚悟で筋肉ジャージを着たり、ポマードべったりのヘアスタイルで走ったり、体もでかいし、筋肉モリモリである。おまけにいい男。

 で、そのスプリンターのお膳立てをするのが「ルーラー」という選手たちで、とにかくひたすら200kmの間、プロトンを引きまくり、ボトルを取りにいったり、マイヨジョーヌやマリアローザの風除けをしたりしながら、最後はスプリンターの影になって後ろのほうでアウトフォーカスになりながらガッツポーズをしたりする写真が雑誌に載ったりする。ただし、こうしたルーラーの中で、たまたまその日トップ引きをしたのがプロトンとあまりにも離れてしまって、最後までプロトンに追いつかれなくて、「今日はもう逝ってヨシ」となった場合は「ルーラー」転じて「パンチャー」となって、着に絡んでしまう場合もある。「茄子 アンダルシアの夏」の主人公ペペ・ベネンヘリとか、今年のジロの第5ステージの新城幸也みたいなもので、これはもうめっけものの勝利だ。勿論、勝てば目立つ。「今日は俺の日だっ!」てなもんで。

 新城は3位だったけど。

 で、こうした目立つスプリンターにはなれない、どちらかと言えば貧相な体形の選手がなるのが「クライマー」である。このクライマーというのは、読んで字の如し、ひたすら「上り坂」を上るだけの選手である。つらいのである。もうこんな坂上りたくないよ、というような坂をひたすら上るのである。坂は、上っても上っても続くのである。おまけに、坂道だから途中で休んだら、もう上がれなくなってしまうのだ(まあ、レースの最中に途中で休むやつは、草レース位しかいないが)。なんで、こんなつらいことやってるんだろう。なんで、やめたくてもやめられないんだろう。などと考えながら、ひたすら上るのであります。体は貧相だが、しかし、貧相だからこそ、彼は上れるのである。つまり、スプリンターみたいな筋骨隆々だと、その筋肉が重くて上れないのである。貧相な方が、貧相ゆえに、余計な筋肉がついていないで、上れるのである。勿論、このジャンルのスターはこれも既に引退してしまった(というか死んでしまった)、ミスター・ドーピングことマルコ・パンターニだろう。貧相ついでに髪の毛まで貧相だったけど。

 で、こうした「上りだけのレース」というのが、今、日本では盛んに行われている。いわゆる「ヒルクライム・レース」というこのジャンル、要は峠の上り部分だけをつかった10kmから20km位のレースであり、しかし、上りだけなので、レースといっても実業団レベルでも30km/h位の比較的低いスピードなので安全という理由から、全国いたるところで開催されており、多い日には2~3箇所位で開催されていたりする。おまけに交通量の少ない峠道でやるレースなので、長距離の公道を塞ぐようなロードレースに比べると、比較的道路使用許可がおりやすい。

 当然、レースは峠の上りだけ。大体優勝する人で40分から1時間位でゴールである。しかし、そのレースの間中すべて「上り」なのである。つらいのである。なんでこんなレースに出てしまったんだろう、なんてことを考えながら走るのである。途中で休めないのである(休むやつもいるけど、私みたいに)。自分でエントリーしていながら、である。馬鹿ですねぇ。ヘタレのクセして。

 こんなレースにハマッてしまった小説家・高千穂遥は本当のバカである。おまけにヘタレの為の自転車レース入門編『ヒルクライマー宣言』(小学館101新書/2010年6月6日刊)なんて本まで書いて。あ、本書くのは彼の仕事なのだからまあいいとして、しかしヒルクライマーだって。あんな、ツラいことをねぇ。よくやりますねぇ。本当、坂バカってやつはねぇ。

 特に、中高年から自転車始めると、ハマるんですよね。この、ヒルクライムに・・・。「あの達成感がたまらない」なんて言ってね、まあ、もうすでにセックスでは達成感が感じられないような年になってしまったからね。

 そのほか、(電動アシスト)ファビアン・カンチェラーラなんてところが有名な、ただ一人きりで走りきることに生きがいを見出す「TTスペシャリスト」なんてのもいたり、峠道の下りでやたら速い「ダウンヒラー」なんてのもいる。特にダウンヒラーなんて、ツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアなんかだと峠の下りで100km/h位でトバしてしまう、トンでもなく命知らずの連中だ。あんな細っこいタイヤ(幅20~23mmです)で100km/hですよ。100キロ。

 実は私はダウンヒラー。といっても100km/hでトバすようなマネはできない。せいぜい40km/h~50km/h。でも下りは楽しいんだよ。どんどんスピードは出るし。漕がなくてもいいし、ラクだし・・・。って、でもダウンヒルを楽しむには・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上らなければいけないのであった。

 あ、バカってのは自転車業界ではホメ言葉だからね。念の為。

2010年6月16日 (水)

世界報道写真展2010

 石原慎太郎都知事の唯一の善政と言ってよい恵比寿の東京都写真美術館で『世界報道写真展2010』が開催されている。

「報道写真」というと「戦争」とか「暴動」という言葉が思い浮かぶが、まさに世の中には「戦争」と「暴動」と「政変」にあふれているという感を新たにすることとなった。

 世界報道写真大賞を取ったのはピエトロ・マストゥルツォ氏のイラン大統領選挙にまつわる政変に取材をした写真である。昨年6月の選挙で現職のアフマディネジャド大統領が選挙に勝ったのだが、対立候補のムサビ氏は不正な票の操作があったとして異議を申し立て、ムサビ派が激しいデモを繰り返していた。このデモの取材をしていたマストゥルツォ氏は逮捕されそれまで取材していた映像はすべて削除されてしまった。その後の取材にはかなり規制がかけられて思うようにできなくなってしまったが、取材再開数日後、夜になってから建物の屋上から「アラーは偉大なり」という叫び声が聞こえてきたという。その後の日にも同じように市民は夜な夜な屋上に上がっては、バルコニーから、あるいは窓から叫んでいた。その様子を撮影した写真が世界報道大賞を受賞した。

 撮影技術や手法ではない、報道写真はこうした「現場」にいることと、そして現場での身の施し方である。「現場」で起きていることに何を感じるか、が一番大事であるということを、再認識させてくれる受賞であったと言えるだろう。

 戦争写真にも面白いものがある。ディヴィッド・グッテンフェルダーというAP通信のカメラマンが撮影したアフガニスタン戦線での写真。タリバンからの砲撃を受けた米軍兵士が防戦態勢に入るのだが、ひとりの兵士が「I LOVE NY」のボクサーパンツのまま銃撃をしている写真である。ボクサーパンツに気を取られていると気がつかなくなりそうなのだが、そのパンツの兵士の右横の兵士の恰好もなんかおかしいと思って見ると、上はTシャツのままだし、靴はスニーカーを履いている。ふたりとも「戦争をする恰好」ではない。寝起きを攻撃されたのだろうか。なんか気が抜けるような戦争写真ではある。

 もうひとつ面白い写真がある。中国のウー・ジーハンという写真家の組写真なのだが、何故か素っ裸で腕立て伏せをしている写真家自身の姿を8枚の写真で捉えたものである。要は、その8枚の写真=8つの場所は、最近の中国でのニュース現場となった場所ばかりなのだ。その場所で腕立て伏せをすることに何の意味があるのかはまったく分からない。しかし、何だろうなあと思わせておいて、8つの事件現場を見せていこうという姿勢だけは、何か感じるところである。

 勿論、こうした写真ばかりではない。日常生活を捉えたもの、ポートレイト、アート&エンテテインメント、スポーツなどのフィーチャーもある。スポーツ部門ではランス・アームストロングを捉えた組み写真なんかもあって、ドーピングチェックの為に小便をするシーンなど、それはそれで面白い。

 また、スポーツ部門になるとやはりアメリカ、イギリスの写真が多くなるとか、いろいろ考えることも多くなるのだが、それはさておき、この『世界報道写真展2010』は8月8日まで開催している。一度、お運びを・・・。

2010年6月15日 (火)

どうした明大、映画の上映位で

 明治大学が6/7に予定していた「THE COVE」の上映とシンポジウムをやめたそうだ。「授業に支障が出る」というのがその理由なのだが、それはないだろう。

 授業に支障が出そうなイベントは今まででもいくらでもあったし、多少の支障が出ようが、それ自身がテーマになって「話し合い」の場所ができれば「大学らしい」イベントになたのではないかな。

 日本の主権を回復する会とかいう、ネット右翼の連中の動きがそんなに怖かったのか、いずれにせよ、こうした弱腰の姿勢が国を変な方向に持っていくことになるのだ。

 明治大学の学生たちよ、こうした大学の姿勢に抗議せよ!

『ネットの炎上力』って、それはあまりにも無責任でしょ

 タイトルからしてネットにおいて過去炎上したケースを調べてそのことを面白おかしく書いた本だと思ったら・・・。

『ネットの炎上力』(蜷川真夫著/文春新書/2010年2月19日刊)は、いたって真面目な、しかし、その分しっかり「J-CASTニュース」の宣伝なのでした。

 著者の蜷川氏は、元々朝日新聞の記者で、その後「AERA」編集長とか「ASAHI.COM」なんかの立ち上げを行い、朝日から独立し、いろいろあってJ-CASTニュースというニュース・サイトを立ち上げた。蜷川氏はJ-CASTを「1.5次情報」として位置づけ、新聞・テレビなどを「1次情報メディア」、雑誌などを「2次情報メディア」として、その中間に位置するメディアとして自らのJ-CASTを規定する。つまり、新聞・テレビはまず情報として「何があったのか」を伝えるメディアであり、雑誌はそれを「何故それがあったのか」を伝えるメディアである。J-CASTはその中間、つまり「何が」あって、その結果周辺で「何が」起こったのかを伝えつつ、「何故」を考えるメディアであるという。

 でも、要は新聞・テレビを見ながら、それをネタ元にして、その周辺で、というかネット周辺で、どういったことが起こっているのかを、面白おかしく伝えるメディア、ということであろう。故に、新聞・テレビネタで「炎上」が起きたりすると、まずそれを伝えることが第一になってきて、その結果、更に「炎上」することになるのだ。要は「ネット上の街ネタを取材(って、ネット・ウォッチをすること?)して」それらをニュースソースとして「コピペ」して「コメント」を追加する形でJ-CASTニュースは成り立っている。

 私なんかは出版社というところにいるので、どうしても新聞・テレビなどの1次情報に接すると、その裏側には何があるのだろうということを考える癖がついている。当然、新聞社やテレビ局の資本関係やらスポンサー関係をまず考えて、そこから類推できる情報をまず考える、そしてニュースの裏側には何があるのだろうということを考えるのだ。従って、そうした思考方法には、単純に「炎上」という反応はないのだ。しかし、J-CAST的な「脊髄反応」にはすぐに「炎上」する可能性がある。元々、ネット漬けになっている連中の多くはテレビネタに反応する連中であり、それに対して深く考えずに「脊髄反応」することから、ひとつの事象に対して単純な発想からしか反応できずに「炎上」のネタを作ってしまうのだ。「ネット右翼」なんてのも、単純な「嫌韓」やら「嫌中」の「感情」だけから事象に反応してしまうだけの思想以下の「反応」でしかない。こうした底の浅いネット人種たちの中からまともなジャーナルが出てくることは無いだろうし、J-CAST自身も自分たちをジャーナリストではないとしている。「ミドルメディア」という呼び名に対しても距離をおいていることがそうであろう。

 しかし、こうしたスタンスも「ニュース・サイト」として定着してしまうと、それをあたかも「ジャーナリズム」の一種として捉えられることになってしまってはいないか? J-CAST自身も自分ではジャーナリズムではないといっても、世間的にはジャーナリズムとして捉えられてしまってはいないか? 

 蜷川氏は新聞・テレビの1次情報メディアとしての重要さは充分わかっていて自らを1.5次情報メディアとして捉えているのだろうが、1次であれ、2次であれ、1.5次であれ、メディアであることには変わりはないわけで、そうした場合「メディアとしての責任」を果たす必要があるのではないか? つまり、1次情報を「炎上」させないための努力である。「炎上」は確かに面白い。しかし、その面白さだけに注目していては物事の本質を見失うことになるだろう。むしろ、「炎上」するような事象があったら、如何にしてそれを「鎮火」させるのかを考えなければならないのではないか? 

 まあ、「炎上」なんて、大半の人は知らないままで過ごしてしまうことなので、それでいいっちゃいいんだけれどもね。

2010年6月13日 (日)

「肉声の昭和写真家」というほどには「肉声」が・・・

 三木淳(大正8年生まれ、平成4年逝去)、前田真三(大正11年生まれ、平成10年逝去)、薗部澄(大正10年生まれ、平成8年逝去)、秋山庄太郎(大正9年生まれ、平成15年逝去)、稲村隆正(大正12年生まれ、平成元年逝去)、中村正也(大正15年生まれ、平成13年逝去)、入江泰吉(明治38年生まれ、平成4年逝去)、藤本四八(明治44年生まれ、平成18年逝去)、緑川洋一(大正4年生まれ、平成13年逝去)、岩宮武ニ(大正9年生まれ、平成元年逝去)、植田正治(大正2年生まれ、平成12年逝去)、林忠彦(大正7年生まれ、平成2年逝去)。

『肉声の昭和写真家』(岡井輝毅著/平凡社新書/2008年7月15日刊)に収録されている12人の「昭和の写真家」の名前と生年・享年である。

 著者の岡井氏は昭和51年に『アサヒカメラ』の編集長になり、5年あまりの編集長生活の中で出会った写真家の思い出を綴った作品がこの本である。明治34年生まれの木村伊兵衛、明治42年生まれの土門拳、明治43年生まれの名取洋之助に続く世代の写真家たちが、上記の写真家たちである。『日本カメラ』に平成19年の一年間に亘って連載した12名の写真家についての記憶がこの本の元になっている。写真雑誌の編集長としての濃密な時間が岡井氏を取り巻いていたはずである。しかし、それはあくまでも各作家の記述の導入部分に触れたものが殆どで、本分部分にはあまり触れておらず、本分部分は「評伝」のような形で記述がすすめられてる。

 これが、あと10歳若い編集長であれば、あるいはもっと別の雑誌の(もっと編集長個人の個性が出る雑誌の)編集長であれば、もっと違った各写真家の個性的な部分が見られたかもしれない。我々が読みたいのはそんな部分である。ある写真家がある写真を撮った瞬間に何を考えていたのか、何をやっていたのか、何をしようとしていたのか・・・。

 しかし、そのような「深辺」には触れないのが、大マスコミたる朝日新聞の編集者というものなのであろうか、あるいは古い世代の編集者というものは、あくまでも「黒子」である以上、既に現役を去っても「黒子」という状況は変わらない、ということなのであろうか。

 あまり、これらの写真家のことを知らない読者にとってはこうした「評伝」的な書き方の方が丁寧なのかもしれないが、かなりスレッカラシの写真マニアにとっては、ある写真家の「裏話」的なものの方が喜ばれる。

 その意味では、この本は真面目に写真のことを勉強しようというエントリー写真ファンに向けた本なのであって、我々のようなスレッカラシ向けのマニア本ではないのかもしれない。そう言う意味では「私にとっては失敗本」であった。

 まあ、「新書」なんてのはそうした「永遠のエントリー本」なのかもしれない。変なことを期待した方が間違っているのだ。

2010年6月11日 (金)

グーグルも成長の限界?

 グーグルの共同創設者、ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリン、CEOのエリック・シュミットへの何回にもわたるインタビュー、グーグル社員に対する150回のインタビューの結果書かれた労作が出版された。

『グーグル秘録~完全なる破壊~』(原題:GOOGLED/ケン・オーレッタ著/土方奈美訳/文藝春秋/2010年5月15日刊)である。

 1998年9月7日、知り合いの家のガレージでスタートした、今や世界最大のウエブ検索会社グーグルの始まりは、ある日単純に思い付いた「ウエブ全体をダウンロードして、リンクの記録をとったらどうだろう」というアイデアにすぎない。サーチエンジンとしての最適のアルゴリズムに基づく(と彼等が思っている)方法論でスタートした会社は、そのままの考え方でこれまですべて生きてきた。まさにマイクロソフトのビル・ゲイツが「最も恐れている挑戦者は?」という質問に答えて、ネットスケープ、サン・マイクロシステムズ、オラクル、アップルといった予想された答えでなく、「怖いのは、どこかのガレージで、まったく新しい何かを生み出している連中だ」と答えたように、それはテクノロジーのイノベーションというのは、まさにマイクロソフトがそうであったように、突然知らないところからやっくるものなのだろう。

 マイクロソフトのアプローチは基本的に「我々に従え」というもので、当然それはOSの会社だから当たり前と言えるのであるが、それに比較してグーグルの発想方法は「何があってもよい」というオープンソースのLINAX的アプローチであるという。それがペイジとブリンの出身であるスタンフォード流なのだそうだが、だとしたら「県外移転」を言い続けながら結局は沖縄に基地を持ってきた鳩山流も「何があってもよい」というスタンフォード流なのか、というあだしごとはまあよいとして、そんな「何があってもよい」というグーグル流、「邪悪になるな」というグーグル流が、何故、突然「著作権無視」という暴挙に出たのだろう、というのが基本的な疑問である。

 オーレッタは「技術者特有の効率至上主義とEQ(心の知能指数)の低さ」という問題を持ち出す。確かにそれはあるのかも知れない。エンジニアが主導するグーグルという社会では、「文学作品の著作権」なんてものに対する認識の低さというものがあるのだろう。

 しかし、私に言わせるとこのグーグルの著作権無視の問題にはもうひとつ、アメリカならではの問題もあったように思うのだ。つまり、アメリカの著作権制度にかかわる問題なのだが、実はアメリカは1989年までベルヌ条約に加盟していなかった。ようは、アメリカだけがヨーロッパやわが国のような著作権制度がなくて、著作権登録を行わないと著作権が認められなかったのである。ヨーロッパやわが国の著作権制度は、著作権はあらかじめ人間の本来認められている権利であり、著作権登録などということも必要なく、書かれたものを発表した、その時すでに書いた人の著作権は認められている。しかし、アメリカの場合、書いたものを著作権登録事務所に提出しないと、書いた人の著作権は認められないという、特許権からきた発想で著作権も行われていたのである。勿論、1989年にアメリカも他の国と同じような著作権制度に変わった以上は、グーグルだってそれに従わなければいけないのであるが、その辺がエンジニアならではの著作権意識の低さもあって、「うっかりやっちまった(という割には堂々としたものだったが)」というところにしておこう。ま、多少グーグルに対して甘い見方ではあるが。

 マイクロソフトの「覇権主義」には腹が立つが、その「著作権を守る姿勢」には安心できる。グーグルの「自由主義」には好感はもつが、基本的な「著作権なんて何であるんだ」という姿勢には腹が立つ。どうにも上手くいかないもんだ。

 そのグーグルも、この本がアメリカで刊行されて半年後、マイクロソフト・ウィンドウズの社内での使用を段階的に取りやめ始めたというニュースが入ってきた。問題は「セキュリティ」であり、中国のハッカー攻撃がその理由だとしているが、まあ、それは言い訳にすぎないだろう。Mac OSかLINAXに変えるといっても、それは理由にならない。確かに、Macの方がウィルスに強いとか、ハッカー攻撃を受けにくいといったって、それは単にMacのほうがウィンドウズに比べてマイナーな存在だからというにすぎない。要は、クロームOSへの移行をそろそろグーグルは考え始めているということだろう。

 これまでは、サーチエンジンではマイクロソフトと競ってきたが、OSではマイクロソフトに従っていたグーグルが、いよいよOSでもマイクロソフト離れを始めたということだろう。

 グーグル対マイクロソフトの対決。面白くなってきた。

 

 以上、iPadからの投稿でした。

2010年6月 9日 (水)

『ザ・コーブ』を見ましょう

 6/4のブログに書いた『The Cove』についての世論が盛り上がっている。今日はその盛り上がりの盛り上がりたるものであろう『「ザ・コーブ」上映とシンポジウム』というイベントがなかのゼロホールで行なわれている。

 なかのゼロホールと言えば、以前アニメイベントなんかで良く使った場所なので、それはそれで懐かしかったのだが、残念ながら上映チケットは前売り・当日とも売り切れで会場に入ることは出来なかった。ホールに入れなかった人たちはロビーのビデオで見るという劣悪な条件ではあるけれども、それでも「見たい」と言う人が多かったのだろう、ロビーまで満員という状態であった。

 例の「主権回復を目指す市民の会」とかいうネット右翼の連中が来て混乱をもたらすのではないか、という思惑で来ていた中野警察署のおまわりさんも、全然右翼が来ないので手持無沙汰で早々に引き揚げていた(ちょっと期待したりしていて)。

 結局、「主権回復を目指す市民の会」のやったことと言えば、要は映画の宣伝にかえって役立ってしまったということなのだ。多分、アカデミー賞のドキュメンタリー部門で受賞したっていったって、なにもなければひっそりと公開されていた映画だろうに、右翼が騒いだおかげで有名な映画になってしまってのである。バカですね。それとも共謀の上?

 結局、映画はみられなかったので、せめてシンポジウムだけはと思って

http://ourplanet-tv.org/

を見たら、下記のサイトに変わっていたり、

http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/06/1840.html

http://www.ustream.tv/channel/politics-of-japan-today

でも、それでも今すぐには見られなかったりして・・・なかなか見られない。

 う~む、残念。「創」出版の篠田博之氏とか、オウムのドキュメタリーで有名な森達也氏とか面白そうな面々のシンポジウムなのになあ。

2010年6月 8日 (火)

トロツキーとディズニーの関係って?

 You Tubeで"Trotsky"を検索してみると37,000件ほどヒットして、トロツキーの演説シーンの映像が見られる。まあ、いかにもトロツキーらしいアジ演説ばかりなのだが、中にどうも関係なさそうなアニメーションの映像がある。

 タイトルは"Trotsky's Broom Army (トロツキーの箒軍)"というタイトルのその映像は、ディズニーの『ファンタジア』の中の『魔法使いの弟子』というお話である。魔法使いの弟子のミッキーが魔法使いの帽子を勝手に使って、自分の仕事である水汲みの仕事を箒にやらせる。箒はどんどん水を汲んできてしまい、あわてたミッキーは箒をめった切りにしてしまい、やれやれと思ったら、いつの間にかめった切りにされた箒のバラバラになったひとつひとつが分身して沢山の箒になってしまい、その箒がぞれぞれに水汲みをまたまたどんどん始めてしまう。あわてたミッキーは一生懸命箒が汲んできた水をかい出そうとするが、それも全然甲斐も無く家の中は水だらけになってしまう。そこに戻ってきた魔法使いが水を切り分けて、ミッキーから帽子を取り戻し、一件落着という話。

 この話のどこがトロツキーと関連があるのだろうか。クロンシュタットの反乱の際にトロツキーが「クロンシュタットは鉄の箒で一掃した」という報告をしたという故事にちなんでつけたのだろうか。トロツキーに率いられた赤軍が帝政を侵略して革命を成し遂げるという状況を、ミッキーが箒の水汲み部隊にどんどん侵略されていく状況になぞらえたのだろうか。

 後は、トロツキーの暗殺とこの『ファンタジア』の公開が同じ1940年という位しか、ディズニーとトロツキーの関連は見えないのだ。

 ウォルト・ディズニーはタカ派だったと思うのだが、このトロツキーとディズニーの関連って何なのだろう。

 

2010年6月 6日 (日)

マルクス主義とトロツキー主義は永遠の左翼反対派である

 マルクス主義やトロツキー主義について、「根元的民主主義」とか「環境社会主義」なんて言葉があることを初めて知った。しかし、共産主義を共生主義という言い換えのように、そうした言葉の言い換えとか、新し(く見える)い概念の導入とかでは解決できないものがある。基本に帰ってマルクス主義とは何かを考える。

 テキストは『21世紀のマルクス主義』(佐々木力/ちくま学芸文庫/2006年10月10日刊)である。

 ただし、この際佐々木が元々第四インターの活動家であったことや、セクシャルハラスメントの疑いで東大を辞め、同時に第四インターも除名になったことは関係ない。純粋に「根元的民主主義」とか「環境社会主義」という概念規定が、マルクス主義とかトロツキー主義とは相入れない考え方であると思うので、そのことについて述べたいと考えるのだ。

 佐々木は根元的民主主義を説明するのに吉野作造と陳独秀を持ち出す。つまり〈民主主義の概念は、議会制民主主義などといった狭い民主主義概念だけによってとらえることはできないだろう。吉野は、「根もとからの民主主義」、換言すれば、「根元的民主主義」(radical democracy)の唱道者であったと考えられる。この概念こそ、陳がその旗手であった形態の民主主義にふさわしい。〉とし、陳を「根元的民主主義の永久革命者」として称える。しかし、その「根元的民主主義」とは、要するに「プロレタリア民主主義」に他ならない。「プロレタリア独裁」に対置した「プロレタリア民主主義」というにとどまる「根元的民主主義」に何か新しい概念でもあるのだろうか。「プロレタリア独裁」が「ボルシェビキ独裁」になって、それがスターリン独裁になったソヴィエト連邦一国社会主義とその崩壊から、根元的民主主義なんていう概念をひっぱり出してきているが、そんなものは古い古い「プロレタリア民主主義」の言い換えにすぎない。それがプロレタリア民主主義ではなぜいけないのだろうか。

 つぎが「環境社会主義」である。フランスのマルクス主義理論家ベンサイドの「国際環境社会主義宣言」からの引用〈環境社会主義は、初版社会主義の解放目標を保持し、社会民主主義の軟弱な改良主義的目的と、官僚社会主義の生産主義的構造とを拒否する。エコロジー的枠組み内での社会主義的生産の手段と目的を再定義することを主張する〉として、要はエコロジーの試みを社会主義の政体で行うこと、社会主義的な枠組みの中で行うこと、社会主義運動の中で行うことを意味する。しかし、そんなことを今更言っても意味のないことだろう。エコロジーはいまや資本主義の世界でも当たり前のこととして、それ自体がビジネス化している状態だ。むしろ、資本主義的な進め方のほうが、時間的にも手続き的にも効率よくできるかもしれない。社会主義は、そうした資本主義の成果物をうまく頂戴したほうが良いような気がするのは私だけだろうか。

 マルクスは、資本主義経済を徹底して研究し尽くした。確かに、それは19世紀的な資本主義かも知れないが、そうして研究し尽くした結果として、その資本主義の対立概念として共産主義という言葉を見つけ出した。そう、共産主義とはあくまでも資本主義に対する対立概念であるにすぎず、実際の「政体」を表すことばではないのだ。

 しかし、20世紀はじめの世界は共産主義にとっても過酷な試練を与えてしまった。ヨーロッパの東の果て、ロシアで社会主義革命が成就してしまったのだ。レーニンにとって、それはうまく回った歴史の歯車かも知れないが、同時にマルクス主義と共産主義にとっては、実際の「政体として共産主義」を行わなければいけないという不幸が訪れたのである。従って、レーニンからスターリンへと社会主義体制という「政体」が引き継がれたのはある意味で必然だったと言えるし、そこでトロツキーら左翼反対派が「政体」を持ちえなかったのも当然である。

 そして、革命から70年。ソヴィエト連邦が崩壊し、世界が再び資本主義の世の中になって、実はマルクスはよみがえったのである。つまり、「資本主義の対立概念としての共産主義」という考え方、つまりそれは古典マルクス主義の時代の考え方であるが、それが再びよみがえったのである。我々はこれを奇貨としなくてはいけない。

 つまり、マルクス主義というのは資本主義に対する永遠の対立概念であるし、資本主義社会の中での永遠の左翼反対派がマルクス主義であり、レーニン主義段階(前スターリン体制)になったところでも、トロツキー主義という最高の左翼反対主義がいまでも生きている。陳独秀は最晩年の書信で、自らを旧友胡適が「生涯にわたる反対派」(終身的反対派)と形容したことを肯定しているそうだが、そう、まさに「反対派」であればこその「永続革命・永久革命」であるだろう。

 マルクス主義とトロツキー主義は、永遠の左翼反対派であり、だからこそ永続革命が可能になるのだ。革命の先に何があるのか。それはわからないし、あらかじめそんなものを措定する必要はないのだ。

 いまから「環境社会主義」だとか「根元的民主主義」だとかに(あらかじめ)政体を規定する必要がどこにあるのだろうか。それも第四インターナショナルの人が何で・・・。

最近は「電動アシスト」疑惑ってのもあるんだ

 4/26のブログで「グラン・ツールはファビアン・カンチェラーラに注目」という記事を書いたが、それにまつわるトンでもない話が出てきた。出どころは6/3日付の「ラ・ガゼッタ・デッロ・スポルト」というジロ・デ・イタリアの主催で有名なイタリアのスポーツ新聞である。

 4/26の記事はカンチェラーラがロンド・ファン・フラーデン(ツール・ド・フランダース)とパリ~ルーベのふたつのレースの終盤の追い込みで勝ったのを見て、その勝ちっぷりに驚いて書いたものだ。両レースとも最後の場面で突然スパートをかけたカンチェラーラが、そのままトム・ボーネンらを置いていって、結局圧倒的な差をつけて買ってしまったのだが、特にロンド・ファン・フラーデンではカンチェラーラってこんなに登りで強かったのかしら、と思わせる速さで、「タイムトライアルの人=ファビアン・カンチェラーラ」というイメージを一新する強さだった。

 噂はそんなところから出てきたわけなのだが、ところが面白いことによくある「ドーピング」疑惑でなく、なんとなんと「電動アシスト」疑惑なのである。えっ、そんなものが自転車についていればすぐバレるのに、と思っていたらちょっと太めのシートチューブの中にバッテリーとモーターが仕込まれていて、ボトムブラケットの中にギアがあって回転力を伝えるというもの。ハンドルのブレーキブラケットにふたつのボタンがあって、それでコントロールするらしい。装置全体の重さは約900グラムで、約100ワットのパワーを60~90分の間、出せるというものである。普通は数キログラムあるはずの電動アシスト装置であるから、それがパワーを出さずにいる間の重量的な不利があるはずなので、電動アシスト装置は競技用自転車の世界からは関係ないものと思われていた。しかし、装置全体で900グラム位であれば、現在の競技用ロードバイクの最低重量9.8kgを下回る重量のカーボン製バイクを作るテクノロジーがあるのがメーカーである、電動アシスト装置をつけたところで最低重量に近いバイクを作ることは可能かもしれない。

 なるほど、電動アシストがあればこその、あのラストスパートか、それも不得意だったはずの登りでのスパートってなあ。と、なるほど「電動アシスト疑惑」が出てくるのもやむを得ない状況ではある。また、ドーピングだったらあんなに突然のパフォーマンス発揮状態になるのもおかしいというところだろうし、何かそのきっかけになる注射か何かが必要になり、それを衆人環視の中でやるのは難しかろう。その辺も、見えにくいスイッチ一つ入れれば済んでしまう電動アシストの方がやりやすい。

 ただし、シートチューブの中にバッテリーとモーターとギアを仕込むことは可能だろうが、問題はそれらの装置が実際にサイクリストをアシストするほどのパフォーマンスを生み出すことが可能なのだろうかということである。現在は、電気自動車の研究が相当に進んでおり、以前に比べるとバッテリー、モーターともにかなりのパフォーマンス向上が見られている。とはいうものの、「人+バイク」で70kg~80kgほどの重さを30分位の時間にわたって移動させるほどのパフォーマンスを見せる装置が出来れば、それはすごいテクノロジーの進展である。何らかの、メーカーからの発表があるはずである。少なくとも自転車に「内緒で」取り付けて、「違法に」レースで使うような方法じゃなくて、正々堂々と発表するはずである。その方が、その会社の株だって上昇するってもんだ。

 ということで、毎度どこかの選手がハイ・パフォーマンスを見せると「ドーピングだ」と騒ぎ立てる輩が出る自転車業界である。今回も、その一つだと思いたいが、一方、電動アシストがあっても面白いかもね、という興味がある。問題は、選手がそんなバレたら一生もんの危険を冒すだろうか、というところだけど。

 まあ、オランダ国籍のデンマーク・スポンサーのチーム・サクソバンクに所属する、スイス国籍のファビアン・カンチェラーラの話である。イタリアのラ・ガゼッタ・デッロ・スポルトにとってみれば書いて書き捨て扱いの記事なのだろう。いかにも面白がって書いているというのが分かる書き方でありました。

 勿論、チーム・サクソバンクは「馬鹿馬鹿しい」とばかりに、一回否定記事を出しておしまいだけどね。再反論があれば面白いのにな。

 

 

2010年6月 5日 (土)

「就活」もいい加減やめれば・・・って誰が言うのかなあ?

 6/3のブログでブラック企業のことを書いたが、その際に企業が新卒採用ばっかりしていることが、ブラック企業(職場)がはびこる原因であるかのようなことが書かれていたので気になって、今度は採用についての本を探した。ということで、同じ光文社新書を買い求めた。

『就活のバカヤロー』(石渡嶺司・大沢仁/光文社新書/2008年11月20日刊)である。だがしかし、やんぬるかな、その本がでる2か月前にリーマン・ショックがあって、まあ、ぎりぎり2008年の就活は既にほとんど終わってた時期ではあるが、その次の年からは完全に「買い手市場」の就活に変わってしまった。つまり、この本はまだ比較的学生に有利な「売り手市場」がまだ残っていた時期に書かれた、というホンのタッチの差でもって「過去の本」になってしまったのである。まあ、その辺が「電子書籍」ではないツラさなのであるが。それは本稿のテーマではない。

 しかし、この本のサブタイトルに書かれてるような「企業・大学・学生が演じる茶番劇」という状況は今でも変わっていないし、むしろ「買い手市場」の中でそのような「茶番」は更に深く進行しているといっていいだろう。カバー折り返しの惹句に言う<就職活動(通称「就活」)をテーマに、企業の人事や大学の教職員、就活中の大学生らに徹底取材したあと、腹の底から出てきたのがこのひと言だ。「私は納豆のようにねばり強い人間です」と決まり文句を連呼する”納豆学生”、「企業は教育の邪魔をするな」と叫ぶわりに、就職実績をやたらと気にする”崖っぷち大学”、営業のことを”コンサルティング営業”と言い換えてまで人材を確保しようとする”ブラック企業”――「企業と社会の未来をつくる行為」「学生個々人が未来へ向けて大きな一歩を踏み出す行為」であったはずの就職活動は、いまや騙し合い、憎しみ合いの様相を呈し、嫌悪感を倦怠感が渦巻く茶番劇に成り下がった。さていったい誰が悪いのか?>ということである。

 第5章に「マッチポンプで儲ける就職情報会社」という一節がある。私が就職をした35年ほどまえにはまだリクルート位しかこうした就職情報会社はなくて、面白そうなので一度リクルート社の会社説明会に行ったことがある。行って分かったのは、広告獲得企業名を紙に書いて張り出しているような広告営業会社の体質丸出しだったので、まるで入る気もなくて一回行っただけでもうやめたというところであった。これをしも、今の言葉では「ブラック」というのだろうか、とにかく「広告取ってきた奴がエライ」とばかりに名前を張り出したりする社風であった。でも、いまやリクルートも就職では優良企業の方に入っているのだろう。まあ、35年という時間はそれほどに永い時間の経過である、ということと同時に会社の在り方なども大きく変化するということだろう。つまり、就活していた時代と、それから30年ほど過ぎた時代、つまり20代前半から50代に至る間に、企業というものは如何に変化するものかということである。入社した時には「いい会社」だと思っていたものが、30年経って見たら・・・、ということは誰にもわからない。実は、だれも企業の30年先、40年先を考えて就活する奴なんていない、ひたすら20代の「その時」だけを見て就活しているのだ。

 であるならば、就職情報雑誌や書籍、就職情報会社の話を丸飲みして自己分析や自己アピールする学生やら、就職課をキャリアセンターなんて言い方に変えて何かやったと思っている大学やら、就職情報会社にまるでのせられてひたすら早期採用活動に突っ走る企業の側も、結局はみんながみんな、その状況を招いた自分の責任を忌避して茶番劇を演じているのすぎない。「この世の中が先行きどうなるか」なんてことは一切考えずにね。

 ということは、やはり「就活」も今の時代を写した合わせ鏡みたいなものかも知れない。いまの時代、自ら属するこの社会の先を考えて行動する人間なんてどこにもおらず、ひたすら「今どうすればトクか」という観点でしか物事を考えていない。要は、この社会自体が、みんながみんな「茶番劇の主人公」なのだから、その一部である「就活生」も「大学」も「企業」もみんな「茶番劇」の参加者であることは間違いない。

 まあ、みんなで茶番劇を楽しんで、この世の中がどうなるのか、行く末を楽しみましょう。

 

 

2010年6月 4日 (金)

またまた上映中止問題が

 上映中止という言葉を聞くと、自民党の稲田朋美衆院議員が検閲をやって右翼団体を動員し、一部上映中止に追い込んだ映画『靖国 YASUKUNI』のことを思い出す。

 またまた同じような映画の上映中止問題が起きた。映画は『THE COVE』(イ・シホヨス監督/2009年/2010年サンダンス映画祭・アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞受賞作)。和歌山県太地に取材をした、反クジラ・イルカ漁のドキュメンタリー映画である。

 どうせ、またまた「日本人のやることにイチイチ文句をつけるな」とばかりに動き出した右翼団体がいるのだろう。そのバックには国会議員がまたるいるのかな。

 しかしまあ、どうして日本人て、こうした低次元の反応しかできないのだろうか。勿論、プロパガンダ要素を持った映画だから、この映画の主張するところに反対の立場の人もいるだろう。だからと言って、映画を上映中止に追い込むことについては、なんら正当性を主張することはできない。むしろ、上映をしてその映画について話し合うような素地が必要なのではないか。それを「上映中止にする=映画がなかったことにする」という態度では、その映画について我が国の国民だけが存在を知らないというような、極めて恥ずかしいことになってしまう。

 おまけに、この上映中止について、太地では『靖国 YASUKUNI』の時と同様、またまた「肖像権」問題を持ち出しているらしい。要は「許可を得ないで撮影したのだから、写っている人の肖像権侵害だ」という論理。ふざけるんじゃないよ、「肖像権」を持ち出せばすべての撮影を禁止できると思っているバカがここにもいる。そんな「肖像権=パブリシティ権」を主張できるほどの「有名人」なのか? そんなこと言ったら、ドキュメンタリー映画なんて作れなくなってしまうのである。要は、「日本人以外の人に見られたら困る」映像を撮影されてしまったから、その上映を中止に追い込んだのだろう。それじゃ「自分たちは悪いことをやっている」ことを認めたも同じじゃないか。

 取り敢えず、シアターN渋谷での上映を再開せよ。問題は、それから話合えばいいじゃないか。

 

2010年6月 3日 (木)

鎖国中のビルマで何が起こっているのか

 5月1日の拙ブログ『東京写真展散歩~カチン独立運動の内側から』でも書いたけど、ビルマの軍事政権が軍事政権としてアウン・サン・スーチー氏の軟禁状態を解くわけにはいかない理由として、民主化を認めてしまうと、多くのビルマ内の民族独立運動を認めることになってしまい、国が壊滅する恐れがあるからでもある。

 映画『ビルマVJ 消された革命』(監督/脚本:アンダース・オステルガルド/2010年作品)でも描かれるのはそうした民主化運動とそれを圧殺しようとするビルマ国軍との闘いの模様である。「VJ」というのは「ビデオジャーナリスト」のことで、多くは民生用ビデオカメラを使用して個人で状況を撮影してまわり、それを報道する人たちのことである。この映画でもAPF通信社の長井健司氏がビルマ国軍に殺されるシーンが写っているが、まさにこの長井氏がビデオジャーナリストの一人であるし、その長井氏が殺されることで、ビルマの状況、更にはそこにいるビデオジャーナリスト達の状況がわかる構造になっている。

 映画はビルマのビデオジャーナリストが撮影し、ノルウェイのオスロにある「ビルマ民主の声」というビルマ向けの短波放送やインターネット放送をおこなっている組織が作った映像をもとに作成されている。当然、民生用のHDでもないビデオカメラによる映像なので、かなり粗い映像だ。しかし、そこに写されているものはまさにビルマの現状であるし、ビルマ国軍としては一番写してもらっては困る映像である。何しろ、ビルマでは一番崇められている仏教僧侶を捕え、暴力をふるい、ついには殺してしまったところまで写されている。まさにビデオの威力を存分に使った映像であるし、そこまで民主的なメディアが存在するにもかかわらず、未だに軍事政権を続けるビルマ国軍とは一体何だろう。

 軍事政権をバックアップする中国にしても、同じような民族独立問題を抱えていて、ここは何としても(イギリス式)民主主義を唱えるアウン・サン・スーチー氏を抑え込まなければならないし、民族独立運動を抑圧してづけなければならないのだ。普通、ここまで国軍の反民主主義的な行いが外国にバレてくると、それはかなり国としてまずいことになり、ヘタをすれば外国軍隊の導入を招くことになってしまいかねない。もはや軍事政権も風前の灯とも言えなくもない状態であるはずなのに、いまだそのような状況は見えない。相変わらず、民主化引運動は抑圧されたままであるし、民族独立運動も抑え込まれたままである。中国もそこまでして自分の国に独立運動が影響を与えることを危険視しているのだろうか。

 映像的には、かなり見にくい作品であるが、一度見ておく必要のある映画であろう。とにかく仏教僧侶のデモシーンなんて、結構感動モノであったりするのだ。

 渋谷のシアター・イメージフォーラムにてロードショウ公開中である。

ブラック企業にもいろいろある

 ブラック企業というと、なんとなく先物取引とか不動産投資なんかの電話セールスのような、ちょっと胡散臭くて、おまけに従業員には残業代も払わずに長時間残業を強いる、ちょっと違法営業をやっている企業というイメージだ。しかし、本書に収められている「ブラック企業」というのはもうちょっと広い意味での「ブラック」であり、厳しい営業を行っている企業まで含めている。

 本は『ブラック企業、世にはばかる』(蟹沢孝夫著/光文社新書/2010年4月20日刊)である。

 本書によれば「ブラック企業」を三つに分けている。

 ひとつは「肉食系ブラック企業」であり、先にあげた「いわゆるブラック企業」から、たとえばIT会社の元請けから仕事をもらう下請け企業にある「いつまで続くぬかるみぞ」的な過重労働を強いられる会社を中心に、さらには出版社系の編集プロダクションやTV放送会社の下請け制作会社までを対象に、ようは「過重労働」をいつまでも続けていて辞めていく従業員の多さを競うような企業を指している。勿論、その原因のひとつは「元請け」の「下請け」に対する過剰な要求や無理な要求と、それを請けなければ生きていけない業界構造といったものがある。勿論、そうした企業ばかりでなく、ノルマの厳しい証券業界やらエステサロン、教材の販売会社なんてのもある。要は新卒使い捨て業界というわけだ。

 もうひとつは「草食系ブラック企業」で、過重労働というようなものが無いかわりに、「肉食系」ではまだあったスキルの向上というものがまったくない仕事、というものである。例えば、パソコンのコールセンター業務なんかがその口で、おまけにいまやコールセンターは中国などの低賃金国におかれていることが多く、名目としては「中国語が学べます」なんていって募集しといて、低賃金で人を雇おうという発想の元に行われている職場である。

 さらに本書ではそうした「肉食系」「草食系」とは別に、大手優良企業や官公庁などの就職の「勝ち組」の中にある「隠れブラック」として「グレーカラー企業」を入れている。いわゆる「勝ち組」企業の中にある過重労働職場といったものだ。

 しかし、こうした「グレーカラー企業」の場合は、いわゆる「ブラック」とはまったく異なった状況から過重労働をしている訳で、ここをしも「ブラック」と言ってしまっては本当のブラックには申し訳ない。例えば、出版社なんかでも週刊誌やコミック誌を出版している会社では、20代社員ははっきり言って編集部の員数外、編集会議でも「お客さん」扱いであとはひたすら先輩社員にくっついて長時間残業のOJTの繰り返し、確かに時間内での労働はそんなに過重ではないが長時間の仕事場くくりつけで厳しいには厳しい。しかし、企画を出さなければならない編集部仕事では、企画を出すべくブレーンのいない新入社員はとにかく仕事をいっぱいやって社外ブレーンなどの人材とのつながりをつけるしかないのだ。そうしておいて30代にでもなれば、やっと企画会議や編集会議での発言にも重みがでてきてやっと一人前。と言う具合に、言ってみればスキルアップの為の準備期間が必要なのである。つまり、大手優良企業や官公庁の「グレー」は必要悪でしかなく、これをしも「ブラック」に入れてしまえば、企業は成り立っていかなくなる。

 むしろ問題なのは、最初にあげた「肉食系ブラック企業」が、いまや社会の必要な歯車になっていることだろう。まあ、よっぽどの違法営業や過重労働を強いている状況で無い限り、こうした「ブラック」企業はなくならない。蟹沢氏は自らのキャリアカウンセラーの経験から、こうした「ブラック」をなくすための、日本の就職環境やら就業状況への提言を行っている。

 しかし、そうした提言が受け入れられる状況はしばらくは無いだろう。なぜなら、そうした就業状況を受け入れてしまったら、企業の採用担当者自身の身が危なくなるからだ。といって、政策でそうした状況を作る出すのも難しかろう。

 而して「ブラック企業、世にはばかる」のだ。

2010年6月 1日 (火)

iPadで京極夏彦を読む、ウ~ム「みっしり」じゃない

 京極夏彦についてはデビュー作『故獲鳥の夏』以降、京極堂シリーズは全部読んでいる。とにかくノベルスの分厚さ(シリーズを追うごとに製本技術の限界に挑戦するように厚くなる)と、そして何といっても京極氏のこだわりのひとつでもある、<見開きが必ず「。」で終わる>(ので、文庫化に際しては、その為に書き改められている)というのが魅力のひとつであり、そこからくる1ページの「みっしり」詰まった感じが、更に京極作品の「お得」感である。

 この『死ねばいいのに』(講談社/2010年5月15日刊)でもそれは踏襲されており、京極堂シリーズのようなノベルスでなくて、四六判の本でもおなじみの「みっしり」感が京極作品の魅力の一つであることには変わりはない。

 が、今回iPad版で(電子)書籍で出版されたものにはそれがなくなてしまったのは残念だ。iPhoneでも読めるように配慮したのだろうか、小さい文字で「29字×11行」、大文字版で「23字×9行」という字詰めではこの「みっしり」感は感じられない。そんな感じを持つこともなく、どんどんスクロールしていかなければ読めないのだ。この「どんどんスクロールしていく」感じが普段の京極作品を読んでる感じと大いに異なっていて、わりと「スカスカ」感にとらわれてしまう。どうせA5判サイズのモニターを持っているiPadなのだから、四六判の本と同じように「40字×19行」で「みっしり」と文字ページを埋めて、見開きの左ページはちゃんと「。」で終わるようにしてほしかった。そうすれば京極ファンも納得の電子書籍化になった筈である。

 現状では京極氏が言うような「電子出版はテキストの出版ではなく、『版』の出版でなくてはならない」どころか、まんま「テキスト」の様態でしかない。京極氏の想い半ばというのは誠に残念でならない。ソフトウェア的にはまったく可能なことなのだが、何故iPhoneに妥協したのだろうか。実は、iPad用のアプリが少ないせいか、『死ねばいいのに』はiPad用のアプリとしてもかなり上位に属する販売実績を持っているのだ。

 まあ、取り敢えず「実験」ということで許されることかもしれないが、この結果をキチンと総括して、秋の新作品ではちゃんと「みっしり」感のある作品をiPadでも出して欲しいものだ。

 で、内容なのだが、そこはいつもの京極作品である。最初はとても小さな小さな「小状況」からスタートして、読者をどこに導こうとしているのかさえ見えなくさせて、そのあと結局は「なあんだやっぱり」というところに持っていく、が、そのあとに人の「死」とか「生」とかって何だろうと考えさせるテーマを(京極氏は意識していないと思うが)持っている。初めは、死亡した亜佐美について知りたいという、物事の道理も知らない無遠慮な青年ケンヤが、亜佐美の派遣先の部長やら、隣に住んでいる女やら、ヤクザの三下やら、亜佐美の母親やらを訪ねていく話。しかし、その段階では、まったく話の展開は見えてこない。が、突然、刑事との話の最後に突然「アサミ殺したの俺だから」というのである。話が進むにつれて真相に近づいているようで、結局はまったく近づいていないという、『故獲鳥の夏』以来の「とんでもないオチ」である。何のためにそれまでの「伏線らしきもの」があったのだろうか。そういった「伏線らしきもの」をすべて破壊してとんでもないオチを用意するという、京極作品の魅力はたっぷりある。

 ああ、やはり「紙の本」で読んでおきたかったなあ(って、後から読んだのだが)。

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