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2010年5月18日 (火)

脚本家が入り込めない原作者の<世界>

 4月14日の第5回、5月14日の第6回の口頭弁論をサボッてしまった「荒井晴彦vs絲山秋子 出版妨害禁止等請求事件」だが、いよいよ次回は9月10日(金)13:30から東京地裁721法廷だ行なわれる、ということは次回で結審ということだろう。

 結審の行方は概ね見えていつというところで、取り敢えず、ここでは月刊『シナリオ』誌に載っている裁判報告をもとに話をしたい。つまり、裁判に行方を決める法律論争ではなく、ここでは<原作者>と<脚本家>の間の埋められない溝といったものについて。

 4月14日の第5回口頭弁論に提出された荒井氏の『陳述書3』及び『原告準備書面3』というものがある。このふたつの文書に基づいて話をしよう。基本的には荒井氏の言っていることの方が分があると思っているので、しかし、それでもなお「原作物」を「脚色」する際の注意事項だ。

 荒井氏は『陳述書3』に書く、<小説や脚本というものに「絶対」は無く、相対的なものでしかない>し<原作の脚色という仕事も、どう読むかということが大きい>のであり<脚本家の読みに基づき、小説とは異質な芸芸術ジャンルである映画制作に向けて新たに発揮された脚本家の独自の創作性というもの>を否定することはできないのである。まさに、荒井氏が結論として述べているように<私は、「脚本とは原作の読み替えであり、原作への批評なのだ」ちう先輩田村孟氏の言葉を指針にしてきたし、これからもそうしたいと思っています>と。この荒井氏の発想はまったく正しい。

 しかし、『原告準備書面3』のポール・ヴァレリーからの引用にあるように《一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、<芸術>という現象がふたつのそれぞれに完全に区別され変形されるということを見出すのです。(中略)極めて重要なのは、これらふたつの変型作用――作者からはじまって製造された物体に終わる変型作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変型作用――が、相互に完全に独立しているということです》と言っているのは、ひとつには「原作と脚本はまったく別の創作物である」ということだが、もうひとつの意味として「<原作>というものを挟んで、それを作った人(原作者)と、それを読む人(脚本家)ではまったく異なった<変型作用>がある」ということである。

 つまり、ひとつは<作者からはじまって製造された物体に終わる変型作用>である。<原作>は、その<原作者>の様々な人生経験、取材経験、思想、想い、想像などの結節点として生み出される。しかし、生み出されたものにそれらが十全に書かれているわけではないだろう。いや、むしろそのほとんどは<作品>として<製造された物体>に書かれることはない。ただし、そうした<いろいろのもの>が積み重なって<作品>は出来ている、と<原作者>は言う。

 しかし、読者たる<脚本家>はそうした<作品>の裏側に隠された<原作者>の想いやら人生経験などは知らされない。彼はあくまでも<作品>として提示されたものからしか、それらを<読み取る>しかないのだ。つまり、荒井氏の言うとおり<原作の脚色という仕事も、どう読むかということが大きい>のであり、原作者のそれを書いたバックグラウンドには気をつけつつも、基本的には<原作>に<書かれたもの>だけが<脚本家>の拠りどころである。

 ここに、<原作者>と<脚本家>の相克が始まるのだ。<原作者>は<原作>にいたる経過を見てほしいのに、<脚本家>は<原作に書かれたもの>しか見てくれない。<脚本家>は<原作者>が要求するものは<原作>にも書かれていないことなので、しまいには<原作者>が何を要求しているのかわからなくなってしまう。

 多くの原作者は、小説や漫画と映画は別のものだと考えているので、こうした相克が表に出ることはないが、まれにこうした原作者がいる。とくに漫画家にはこういう人が多い。

 多くの作品作業で、こうした相克が原作と脚本のやりとりの中で現れてくると、大体その作品は脚本段階でお流れとなるのだが、そうならずに映画ができてしまった。できてしまった映画は仕方ないが、原作小説と同じ活字表現となる脚本の出版化には抵抗したい、というのが今回の事件だ。

 本来ならば、脚本段階での判断でこうしたやりとりがあった場合、プロデューサーと原作出版社の間で、「この映画はないな」という判断をしてストップをかけるのが普通なのだが、この映画の場合それがなかったわけだ。要は、プロデューサーと文藝春秋の判断ミスなのである。それがお互い自分の判断ミスを棚に上げて高みの見物を決め込んでしまったために・・・<世間知らずの原作者>と<無頼の脚本家>が直接あいまみえるということになってしあった不幸、というのが今回の事件のあらさまなのだ。もっとも<世間知らずの原作者>は一度も法廷には出席しなかったけどね。

 まあ、事件そのものは単純な事件なのだが、そこに至る経過があまりにもズサンであります。

 プロデューサーにも文藝春秋にも猛省を促したい。

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