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2010年5月24日 (月)

辺境もぐるっと回れば中心に

 たしかに、ヨーロッパを中心とした世界観の中では「FAR EAST(極東)」であるし、中華思想から見れば「東夷」である。列島の東には太平洋という大きな海があるだけであるし、それは「その先には何もない」のと同じである。一方、太平洋のずっと東には「アメリカ合衆国」が今から200年ほど前に出来上がり、ぐるっと丸い地球世界の中で、FAR EASTはアメリカにまかせたとヨーロッパ(西欧)が考えて知らんぷりを決め込むという一丁上がりを選んだ理由もよくわかる。ただし、東欧=ロシアだけは、その東の隣にある国を無視できなかったんだな。

 って、何を言っているのかよくわからないでしょうけれども、要は内田樹の『日本辺境論』(新潮新書/2009年11月20日刊)について話をしているのだ。

 地政学的に言った「辺境」に位置する日本及び日本人が、いまさら世界に学ぶものがなくなったからと言って、世界に先駆けて何かを「論」ずる必要はない。<「辺境性」という私たちの「不幸」(というより、私たちの「宿命」」)は、今までもこれからも確実に回帰し、永遠に厄介払いすることはできません。でも、明察を以てそれを「俯瞰する」ことなら可能です。私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできませんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる。>と結論づける内田の「論」は耳触りは良い。しかし、じゃあ何をもって新たな闘いに挑めばよいのだろうか。「啐啄之機」といっても「石火之機」といっても、結局は外部からの働きかけがない限りは自分からは動けない。

 内田自身が書くように、本書は<「辺境人の性格論」は丸山眞男からの、「辺境人の時間論」は澤庵禅師からの、「辺境人の言語論」は養老孟司先生からの受け売り>である。内田の新論といものはない。しかし、それは問題ではない。問題は、ではそのように日本人は「辺境人」なのだから、自ら「論」を作り出してそれこそ日本人をして「世界標準」を作り出さなくても良いのだろうか、ということなのである。

 内田は、まあそんなことは考えなくてもよい、という発想なのかもしれないが、実は今、日本が求められているものはそのような、「日本発の世界標準」なのではないだろうか。そのようなものを日本人から出てくる可能性はない、というのが内田の結論であるし、出す必要もないというのが内田の「論」であろう。

 しかし、日本がFAR EASTであったのは、まだ新大陸が発見されていない時代のヨーロッパ(西欧)の思想であり、まあ、取り敢えず「うっちゃときゃいいや」という考えのもとにある発想である。しかし、新大陸の発見によって世界は丸くなってしまい、いまや「辺境」は無くなってしまっている。それなのに、未だに「日本は辺境にあり」として収まっていて良いものだろうか。内田のような「敗北主義者」にはそれで良いのかもしれないが、そうそう、世界はそんな日本を許してはくれない。

 勿論、だからといって偉そうに「日本発の世界標準」を声高々に言い募る必要はないが、しかし、何かを発信することを求められている日本である。

 いつまでも「辺境にいます」と言っている訳にはいかないのだ。

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