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2010年3月12日 (金)

私写真を考える

 飯沢耕太郎の『私写真』(筑摩書房/2000年刊)をテキストに「私写真」について考える。

 私写真とは何だろう。つまりどんな写真でもそれを撮影した人がいる以上は、言ってみれば私写真であると言えるのである。特にその写真が一つの文脈=コンテキストにおかれた場合、そのコンテキストによって「写真の意味」は変わってきて、まさに正反対の意味にさえなってしまうという写真の存在の「脆弱さ」を考えると、私写真というのはまさに写真の存在を意味づける一番よい考え方だろう。

 私写真と正反対にあると思われる「報道写真」、新聞などに掲載される撮影者の名前が出されない写真においても、最近は撮影者をクレジットされることが多くなってきた。この辺は、宮嶋茂樹などの活躍によって、まさに「エンターテインメントとしての戦場写真」という奇妙な「私性」の成立もあるし、まあ、それ以前からマグナムあたりの活動から「報道写真の私性」が認識されはじめていたのであろう。つまり、報道写真であっても撮影者がクレジットされればそこでその報道写真も私写真に成り得るということであろう。

 写真創始の頃の「肖像写真」や「風景写真」などは、撮影者のクレジットはない。しかし、少しずつそうした写真の撮影者がわかってくるに従って、そうした写真も私写真になっていくのだ。ウジェーヌ・アジェは絵描きの為に、背景になりそうなパリのそこここを撮影して歩いた。それは、写真そのものを「作品」として残すためでなく、むしろ絵画を作品として残すための素材にすぎなかった。しかし、その後その写真がアジェという人が撮影したと言われた瞬間、それはアジェという人の名前と切り離されなくなってしまうのだ。

 本書の中で飯沢氏はタルボットの写真について述べている。タルボットの写真集『自然の鉛筆』の中の例えば「開いた扉のようないかにも撮影者の意図がありそうな写真と、「パトロクラスの胸像」のような撮影者の意図が入っていないような写真。しかし、「パトロクラスの胸像」であったとしても、そこにはタルボットの狙った陰影があるわけだし、それなりに「商品見本」として撮影したという意図はあるのだ。

  飯沢耕太郎は本書で<あらゆる写真は「私写真」?>とクエスチョンマーク付きで慎重に述べているが、実際にはまさに「あらゆる写真は私写真」であると言っていいのである。

 本書では、その後、中平卓馬、深瀬昌久、荒木経惟、牛腸茂雄という、特に写真の「私性」にこだわっている写真家の作品論に入っている。もちろんこの4名はまさに「私性」を前提に写真の仕事をしている人たちだし、私写真という概念抜きではまったく語れない写真家たちである。

 いまや、写真の「私性」はすべての前提であり、広告写真のブツ撮りであっても、そこで写真家が私性をだすこともあるのだ。

 そう、「すべての写真は私写真」なのである。まあ、狭義の意味での私小説とはちょっとちがうけど。

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