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2010年3月15日 (月)

もっと自由に評論を

 飯沢耕太郎氏の『写真評論家』(2003年/窓社刊)を読む。

 多分、写真評論家という存在が「見えにくい」ものだあるから、このようなものを書くことになったのかもしれない。他の、映画や小説、絵画などには評論家という確固たる居場所(地位ではない)があるのに、写真についてはそれがないことについての飯沢氏なりの返答なのかもしれない。

 写真展評について飯沢氏は「紹介」と「評論」と「批評」という三つの段階があるという風に書く。「紹介」についても、飯沢氏は写真展に参加している人たちの作品の公開意図にまで触れないと「紹介」とは言えないと書く。つまり、展評を読んで写真展をみにいく人達への、写真鑑賞の材料を提供しなければならない。それも、書くメディアの性格に合わせて書かなければならず、一般雑誌に専門用語を使った「紹介」はいらない、というのである。まあ、ここまで丁寧なデータがあれば充分である。

 次に「評論」であるが、ここで初めて書き手の文体・世界観が問われると書く。しかし、そこでも展示されている作品から「書き言葉」が離れてはいけないと書く。あくまでも、中心は展示されている作品であり、「評論」はそれに付随するものであるという風に。

 で「批評」という段階になって、「初めて書き手の独自のものの見方にあらゆるものを従属させることが可能に」なってくるというのだ。要は、作品評を出発点として、作品から離れて自由にものを言ってもいいという風になる。

 しかし、そうした「評論」「批評」段階論なんてものがあるのだろうか。飯沢氏の「評論」と「批評」の間には、基本的に作品批判をしない「評論」と、作品批判にまで踏み込むことがある「批評」というわけ方があるのではないだろうか。したがって、展評では「評論」までにとどめるべきで、「批評」まではしていけないというのが飯沢氏の内部での決めごとなのかもしれないが、別にそんなことはないのではないだろうか。展評で作品批判をしてはいけないなんてことはないわけで、その批判が面白ければ、それはそれでエンターテインメントになるわけで、要は写真展に行くきっかけになればいいのだ。

 多分、こうした「評論」に対する考え方は、美術評、映画評、写真評などに共通する考え方で、あくまでもそれは「評論より作品の方が上」という考え方によるものである。つまり、それらの、絵画、映画、写真の言論界に共通する作品コンプレックス、あるいは経済的な要請、があるように思われる。

 例えば、映画評論も作品を評価している場合は「評論家」の存在を認めるが、いったん同じ評論家が作品批判に回ると、とたんにその「評論家」の存在さえ認めなくなる、という状況がある。これは「経済的な要請」の最たるものである。

 まして、写真の世界はもっと小さい。したがって、展評なんかで批判をするとそれで客がこなくなってしまうから、批判はしてはいけないということなのではないだろうか。

 そんなことは気にせずに、もっと自由に批判し合う状況が必要なのではないだろうか。これは、映画も絵画もそうであるが。

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