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2010年3月29日 (月)

私写真を考える2 白石光一氏の『カメラマン目線』を読んで

 3月12日のブログで飯沢耕太郎氏の本『私写真』について触れながら「私写真」とは何かを少し考えた。というところに、白石光一氏という愛媛県松山市で商業写真を生業としながら写真家を続けている人の本『カメラマン目線』(アトラス出版/2009年4月刊)を、たまたま見つけ、その中に「私写真」という一章を見つけたので、またまた「私写真」とは何かについて考えることになった。

 白石氏にとっては、写真とは「見ることだけ」や「撮ることだけ」では完結せずに、『みずから感じて撮影し、出来上がった写真を再度目にして感じ取る。この一連を指して「私写真」と呼びたいと思います。写真は元来極めて個人的なものなのです。』という感じ方をしている。

 たしかに、写真の歴史は写真というものを「公」から「私」へと進めてきた歴史でもある。これはカメラが大型のものからライカに代表される小型カメラへと移ってきた、これは写真フィルムの高感度化・高細精化というテクノロジーと共に進んできた歴史であり、それは特に近年デジタル化によって超高速的に進んできた歴史でもある。いまや、デジタル写真の多くは「個人」のものであり、そのほとんどは「公」から切り離されている。

 しかし、本来「公」から切り離されているはずの写真も、一度マスメディア化することで、突然「公」を取り戻すのである。これは、白石氏も「AKB(アキバ)」で、2008年の秋葉原歩行者天国通り魔事件について触れているように、その事件の際に、多くの野次馬が現場写真を撮っていたということと同時に、その撮影した動画がマスメディアで流されたりしたことでよく判る。しかし、問題なのはその「公」を取り戻した写真が、それを撮影した者がどれほど「公」を意識していたのか、ということである。単なる野次馬=「私」として撮影した映像を、たまたまそこに来たマスメディアの人間に渡して、それが放送されることに何か喜びを感じていたのではないか。こうした「公」としての撮影映像でないものが、たちまち「公」になってしまう怖さが現代社会ではある。勿論、マスメディアだけではない、YOU TUBEなどの映像も同じである。「私」として撮った映像を、「公」にしてしまうメディアは現在いくらでもある。そこに映像を載せる(投稿する)時に、撮影者はどこまで「公」を意識しているのか。「公」を意識するときに、どれだけ映像は変わってくるのか。あるいは変わってこなければいけないのか。

 白石氏の言うように「大量の第三者の価値観に対抗できる自らの強固な価値観の形成に」つながるような「私写真」の形成という、重要なテーマがそこにはひそんでいるのだ。

 なお、『カメラマン目線』は四国の小さな出版社から出ているので、私は新宿のブック・ファーストで見つけたのであるが、あまり通常の書店にはないと思う。見つからない場合はAMAZONでどうぞ。

 

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