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2010年3月

2010年3月30日 (火)

ドアノーの写真集

 ロベール・ドアノーと言えば有名なのは「市庁舎前のキス<Le baiser de l'Hotel de Ville>」であるが、それ以外にも「Coco」とか、「ロミ店の中からの眺め<Le regard oblique (Boutique de

Romi)」でも有名だ。

 要は、フランス国民の(というかパリ市民の)日常を撮らえて充分にして重要な大事な部分を、撮影したきた写真家だということである。収録されている写真もドアノーの日常写真というか、あまり政治的な「トピック写真」はない。実はそうした写真も撮っているんだけどね。

 しかし、こうした姿勢というか、撮影方法が日本人写真家を迷わわせてきたのだろうな。要は、フランスに行けばなんとかなる、パリに行けばなんとかなる、パリに行けばドアノーみたいな写真が撮れる。しかし、パリに行っても所詮は東京にいる時と同じ写真しか撮れないのだ。写る題材が違うだけ。なんでそうなのだろう。

 要は、写す主体の問題なのである。東京で撮影しようが、パリで撮影しようが、問題は撮影している君の問題なのだよ。ただし、ドアノーは元々パリに在住していたわけだし、パリが彼に生活の基盤であったわけだし、いやでも「パリ」を撮影しなければならなかったのである。そこが大きい、だったら我々は東京にもっとこだわって撮影をしなければいけないんじゃないか。東京に世界でも見ない場所を探して、探して、探して撮影してみたら、それがどこにもない状況として写ることもあるかもしれない。そんな状況を探って毎日撮影行を繰り返すのが、スナップ写真家の性である。そうすると、そこには世界のどこにもない「東京の姿」が見えるのではないか。

 結果として、その写真は「世界のどこにでもありそうな」写真として認められることもあるかもしれないということなのである。

 写真なんて、いまやそんなものである。誰だって写真を撮れる時代なのである。そんな時代に、ライカで撮りました、ニコンで撮りましたと言ったって、撮った写真が携帯のカメラよりは力を持たなかったらおしまいでしょ。では、カメラ人種はどうしたらいいのか。

 難しいな。とかいいながら、毎日、ライカをもって出かける日々です。

 本は『ROBERT DOISNEAU』(Jean-Claude Gautrand/2003年/TASCHEN刊)です。

サイゴンのコニャックソーダ

 コニャックソーダ、ビール各種、ワイン、果実酒各種、ラム、ジントニック、ホットウィスキー、テキーラ、アブサン、マティーニ、ブラッディメアリー、シェリー、アレキサンダー、ウォッカ、漢方薬酒、団栗酒、マティウス、ルアモイ、泡盛、アクアヴィット、スコッチ、ポートワイン、カルヴァドス、VSOP、ラオラオ、五星碑酒・・・。これは石川文洋氏の近著『サイゴンのコニャックソーダ』(七つ森書館/2009年8月刊)に収められている酒一覧である。

 石川氏といえばベトナム戦争である。ベトナム戦争で従軍取材を終えてサイゴンに帰ってきて「今日も一日生き延びて、写真を撮って帰ってこられた」と一息つき、サイゴン(元ホーチミン)のホテルのバーで飲んだコニャックソーダが、これまで飲んできて一番旨かった酒である、というところから、写真取材と酒についてのエッセイが始まる。

 しかし、我々(というより私)はそんなに充実感の中で飲む酒なんてあるのだろうか。毎日の仕事を終え、ホッと一息ついて飲む酒はやはり旨い。が、しかしそんなに緊張した毎日を送っているわけではないし、その緊張が解けた一瞬なんて味わったことはない。それでも、石川氏のこの本を読むと、なんて旨い酒の飲み方をしているのだろうとうらやましくなる。やはり、旨い酒は緊張感とともにあるということだろう。その緊張も、命に関わるところまで高まれば高まるほど、そこから解放される気分というものは高揚するものであるし、高揚すればするほど、旨い酒、ということである。

 う~ん、羨ましい。

2010年3月29日 (月)

私写真を考える2 白石光一氏の『カメラマン目線』を読んで

 3月12日のブログで飯沢耕太郎氏の本『私写真』について触れながら「私写真」とは何かを少し考えた。というところに、白石光一氏という愛媛県松山市で商業写真を生業としながら写真家を続けている人の本『カメラマン目線』(アトラス出版/2009年4月刊)を、たまたま見つけ、その中に「私写真」という一章を見つけたので、またまた「私写真」とは何かについて考えることになった。

 白石氏にとっては、写真とは「見ることだけ」や「撮ることだけ」では完結せずに、『みずから感じて撮影し、出来上がった写真を再度目にして感じ取る。この一連を指して「私写真」と呼びたいと思います。写真は元来極めて個人的なものなのです。』という感じ方をしている。

 たしかに、写真の歴史は写真というものを「公」から「私」へと進めてきた歴史でもある。これはカメラが大型のものからライカに代表される小型カメラへと移ってきた、これは写真フィルムの高感度化・高細精化というテクノロジーと共に進んできた歴史であり、それは特に近年デジタル化によって超高速的に進んできた歴史でもある。いまや、デジタル写真の多くは「個人」のものであり、そのほとんどは「公」から切り離されている。

 しかし、本来「公」から切り離されているはずの写真も、一度マスメディア化することで、突然「公」を取り戻すのである。これは、白石氏も「AKB(アキバ)」で、2008年の秋葉原歩行者天国通り魔事件について触れているように、その事件の際に、多くの野次馬が現場写真を撮っていたということと同時に、その撮影した動画がマスメディアで流されたりしたことでよく判る。しかし、問題なのはその「公」を取り戻した写真が、それを撮影した者がどれほど「公」を意識していたのか、ということである。単なる野次馬=「私」として撮影した映像を、たまたまそこに来たマスメディアの人間に渡して、それが放送されることに何か喜びを感じていたのではないか。こうした「公」としての撮影映像でないものが、たちまち「公」になってしまう怖さが現代社会ではある。勿論、マスメディアだけではない、YOU TUBEなどの映像も同じである。「私」として撮った映像を、「公」にしてしまうメディアは現在いくらでもある。そこに映像を載せる(投稿する)時に、撮影者はどこまで「公」を意識しているのか。「公」を意識するときに、どれだけ映像は変わってくるのか。あるいは変わってこなければいけないのか。

 白石氏の言うように「大量の第三者の価値観に対抗できる自らの強固な価値観の形成に」つながるような「私写真」の形成という、重要なテーマがそこにはひそんでいるのだ。

 なお、『カメラマン目線』は四国の小さな出版社から出ているので、私は新宿のブック・ファーストで見つけたのであるが、あまり通常の書店にはないと思う。見つからない場合はAMAZONでどうぞ。

 

2010年3月27日 (土)

東京散歩カメラ5 西新井大師

 今日は久しぶりにフィルムカメラを持って出た。ライカM6+SUMMICRON 35mmF2+TriX。

 西新井大師は子供のころから遊び場にしていたところなので、懐かしく、かなりの頻度で撮影に行っている。

 関東の三大師と言われている西新井大師である。寺の名前は、総持寺であるから、石川県の門前町にある総持寺の流れになるのだろう。当然、弘法大師をまつってあるのだから、基本的には交通安全(道中安全)が第一義である。が、以外にお七夜を迎える子供(赤ちゃん)と一緒の家族なんかも結構来ている。ただし、大半は中高年のカップルが多い。でも、カップルで来ているから、夫のほうの自由がきかないんだよな、これが。旦那の方は「いやあ、割烹とかあるじゃない。一杯やりたいな。」と思っているのがよくわかる。しかし、一緒にいる奥さんが「だ~め」と言っているのだ。

 なんてことを考えながら、西新井大師参道の料理屋「小柳家」で酒を飲みながら、通りを眺めているのだ。こちらは一人なので、真昼間から一杯という塩梅であります。

 小柳家は、多分西新井大師参道でも古いほうの店だろう。私が子供のころからあったと思う(といっても、西新井大師の参道の店はみんなそうだけどね)。というか、昔からのまんまの店構えでやっているのだ。正面右の入り口から入れば、裏の料亭風のところに入れるのだが、私はそちらには行かない。正面の草団子を売っている場所の右左に入口があるのが、同じ小柳家の居酒屋部門ともいうべき、普通の店。料理は料亭の方と同じく、川魚料理が基本だが、普通に刺身定食やら、天麩羅定食なんかと一緒に、うなぎの蒲焼のバラエティがあります。

 今日は、まず空豆と肝焼きでお酒を一杯いただきました。肝焼きは時刻が遅いと売り切れ御免なので食べられないが、今日はまだまだ昼過ぎであります。その後は、「うな酒」という、これまではあったことは知っていたが、あえて頼まなかったものをお願いしてみた。「ひれ酒みたいなもんですよ」という店の人の話なのだが、だったらOKなのだが、「白焼きなの?」という問いには「いや、蒲焼です」との答え。

 富山に「岩魚の骨酒」というのがあって、地元では珍味と言われているのだが、要は、岩魚の塩焼きをどんぶりに入れて、そこに熱燗の酒を注いだものである。これは、好きな人は好きなのだろうけど、私には酒が生臭くなってしまい、あまり旨いものとは感じられなかった。だったら、岩魚の塩焼きと酒を別々に貰って、岩魚を食べながら酒を飲んだ方がよっぽどおいしいのに、ということである。

 うな酒にも同じ予感がした。要は「蒲焼と燗酒」でしょう、これはちょっと警戒。と思っていたら出てきました。「うな酒」が。茶碗位の容器にうなぎの蒲焼が半分位入っていて、そこに熱燗を注いでください、というわけだ。まあ、これはダメですね。

 といっても、店では「名代」といっている「うな酒」なのだから、こうした飲み方を歓迎する向きもあるのだろう。したがって、この感想はあくまでも「私個人の感想」であります。

 ということで、口直しじゃないけど、お酒をもう一杯いただいて、白焼きをいただいてきました。

 勿論、帰りにはお店の「看板娘」さんを撮影させていただきました。

「『東京裁判』とは何か」ということについて

「東京裁判」というと、すぐに「平和に対する罪」や「人道に対する罪」というような、それまでに概念のなかった罪をあてはめる「エキスポスト・ファクト・ロー=事後法」で人を処罰することはできない、とか、あるいは無差別爆撃や原爆などの連合国(アメリカ)の戦争犯罪が裁かれない「法の下の平等」がなされていない、また、ナチスの犯罪を裁いたニュールンベルク裁判のように、ナチスという組織がドイツという国を共同謀議で乗っ取り、ヨーロッパに災禍を招いたことを裁くようには、日本という国の体制から同じような共同謀議説をとることは不可能だ、といったような「東京裁判」批判がすぐに出てくる。いわく、戦勝国による敗戦国を裁く「勝者の裁き」でしかない、という。

 また、こうした「東京裁判」からくる歴史観として「東京裁判史観」、つまり日中戦争から太平洋戦争は日本による侵略戦争であり、日本はいつまでもこの戦争について「反省」をする立場にあるのはおかしい。そもそも、中国やアジアとの戦争はABCDラインなどで封鎖された日本経済を、ヨーロッパの列強から守るための防衛戦争だったのだ。といった、視点からの批判などがある。

 しかし、いまや重要なのは「東京裁判は既に歴史的事実なのであり」、それが正しかったのか間違っていたのかを論議する時代は既に終わっており、その「東京裁判で審議された歴史的事実から、我々は何を学ばなければいけないのか」ということなのである。

「東京裁判」が「勝者の裁き」であるから何がいけないのか。「事後法」で裁くことの何がいけないのか。これらは、既に「東京裁判」の中で清瀬弁護人やアメリカから選ばれた弁護人によって言いたてられていることなのである。当然、そうした主張はウェッブ裁判長により却下されているのだが、要は「却下」という処分も含めてそうした主張が審理されたのは事実である。既に、「東京裁判」の中でそうした点は触れられているし、審理されている。しかし、「東京裁判」という「特殊な裁判」の中ではそれは却下されざるを得なかったのだ。なぜなら「東京裁判」はまさに「勝者の裁き」であるし「事後法」であれそれを適用できる、「特殊な裁判」だあったからである。

「特殊な裁判」であるからそれは無効であるというのは、当時の事情を全く理解していない発想である。なぜなら、「東京裁判」当時、「東京裁判は無効である」という国民運動は起きなかったし、そうした弁論もなかった。つまり、当時の大半の日本人は「東京裁判」を受け入れたのであって、一審制の「東京裁判」が結審した後で、いくらそれが「無効」である、といったところで、何の意味もない。

 つまり、「東京裁判」について批判的な態度をとることは自由だが、それが有効な発言となる可能性はいまやゼロなのである。一方、「東京裁判史観」あるいは「被虐史観」に対する批判も同様だ。そもそも、戦争が侵略戦争なのか防衛戦争なのか、などということは、第三者から見れば単なる立場の違いでしかなく、日中戦争やアジアへの侵略、真珠湾攻撃が防衛戦争だというのは、要は、当時の指導者、東條英樹らの論に乗ることでしかない。では、日本はそれで防衛出来たかもしれないが、その際に、その為に、侵略をうけたアジアの国々に人々はどうなのだろうか。日本人が生き延びるためには、アジア人は死んでも良いのだという発想は、やはり受け入れられないだろう。

 その為の「見せしめ」が「東京裁判」であり、それは敗戦国が受け入れなければならない「運命」としての「裁き」なのである。問題は、我々はこうした「既にある事実としての東京裁判」から何を学ばなければいけないのか、ということである。

 保坂正康氏の作品『東京裁判の教訓』(朝日新書/2008年7月刊)は、そうした「東京裁判から何を学ばなければいけないのか」という問題に、真面目に向き合った良い本である。この本は「東京裁判」を称揚するでもなく、批判するでもなく、まさに「事実としての東京裁判」について触れた本である。

 保坂氏には、更に突っ込んだ研究をお願いしたい。「新書」という読みやすい形をとった書籍作りも良いのだが、本格的な研究書が書けそうなのである。

 私自身は、久々に小林正樹氏の映画『東京裁判』(脚本:小林正樹・小笠原清/講談社/1983年)を観たときのような興奮を味わいながら読んだ。製作には関係していないが、その後のいろいろの利用について関係して、故小林氏や共同脚本の小笠原氏とも知り合いであるので、もう何十回と観た映画だが、DVDをもう一回観てみよう。

 

 

2010年3月26日 (金)

『百鬼園写真帖』について

 再び内田百閒であります。ちくま文庫の「内田百閒集成」というシリーズの最後No.24に「百鬼園写真帖」というのがあります。1から23までは当然内田百閒が書いた文章で編纂されたものなのだが、この24だけはそうでなく、内田百閒が撮影された写真約200枚で編まれている。当然、こんな本があることは生前の内田百閒は承知しているわけではなく、写真の嫌いな内田にしてみれば、そんな本の存在は許さなかった筈である。筈であるが、今の我々にしてみれば、そんな存在がありがたい。多分、生前の時期にはこんなに内田の写真が世に出ることはなかっただろう。

 しかし、写真嫌いといいながら、よくもまあこんなに写真が残っていたものだ。特に、後半の内田の少年期から学生、結婚、戦後のプライベートな写真がなぜ残っていたのか。まあ、戦前生まれの「ものを大切にする」発想から、大事にしていたものなのだろう。おかげで、少年から学生時期までの普通の少年が、その後年を重ねるにしたがって、段々と「への字口」のいかにも「頑固親父」然としてくるさまが良くわかる。人間って、こんなに顔が変わるのだな、ということである。

 写真は、まず「阿房列車」の写真から始まって、当然ヒマラヤ山系君もほとんどの写真に内田と一緒に写っていて面白い。その後が法政大学教授時代と東京帝国大学の学生時代の写真を若干はさんで、「魔阿陀会」の写真。法政大学航空研究会の写真と続いて、日本郵船嘱託時代の写真と、「乗り物系」の写真が続く。

 その後は、筝曲の写真や戦後のプライベート写真などが続いて、幼年期から学生までのプライベート写真が続く。

 写真が嫌いだった内田百閒だったそうで、本来ならば「阿房列車」の時代の写真がもっとあって然るべきなのであるが、そこが少ないのがちょっと残念。同じく、日本郵船時代の写真も少ない。別に、「乗り物系」の写真が欲しいわけではないのだが、一方で、それが少ないのが残念なのである。文章ではそうした資料は豊富にあるのに、というところである。

 まあ、いずれにせよ、この「百鬼園写真帖」のおかげで、内田の作品を読む際の楽しみが増えることは確実。この「写真帖」を見ながら、内田の小説を読むのであります。

 なお、よく知らない人の為に。「百鬼園」とは「内田百閒」の別名であります。←こりゃ蛇足でしたね。失敬失敬。

2010年3月25日 (木)

漫画の『阿房列車』もいいですぜ

 思うに内田百閒という人は「乗り物マニア」なのかなということである。

 昭和4年には、当時教授を勤めていた法政大学の航空研究会の初代会長になっているし、昭和14年には日本郵船の嘱託になってちょくちょく日本郵船の船で旅に出ていて、おまけに『ロッパの頬白先生』を製作している。

 そんな内田百閒が昭和25年に、つまり太平洋戦争が終わってズタズタにされた日本の鉄道が戦前の運行水準を回復しつつある時期になって、「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行ってこようと思ふ」とある日思い立って、大阪へ行くというのが『阿房列車』シリーズの始まりである。

 本来は大阪まで行って、そのまま大阪駅で30分くらい待って、また東京まで帰ってこようという発想である。ううん、実に「阿房列車」ですね。要は、「乗ること」が一番大事なのであって、大阪に行って何かをしようという発想はないのである。基本は「乗り鉄」であります。

 こういう作家が当時いたということ自体が珍しいのであるが、そうした作家の登場を当時の国鉄は待っていたのだろうか。要は国鉄と旅のPRである。この時代、つまり昭和20年代後半、電波が民間に開放されて民放ラジオが始まったばかり、テレビがすぐそこに来ていた時代に「PR」という言葉が既にあったのかどうかは知らないが、国鉄は「ヒマラヤ山系」君という(実は平山三郎という人なのだが)実に内田百閒氏のための人物を用意していたのである。平山氏が内田氏が指名したのか、国鉄が指名したのかは知らないが、少なくとも『阿房列車』シリーズではなくてはならない人物であり、内田百閒という人を盛り上げるためには実に重要な人物である。といっても、別に内田百閒について何かをした人ではない。要は、内田百閒が何か「つまらないこと」を言って「ボケ」た時に「ツッコミ」を入れない人なのである。要は、「朴念仁」。でも、そろそろ老境にさしかかった内田百閒ひとりで旅に出すのは少々怖いというところと、紀行文の主人公に対する相手役という、そのためには必要十分な人物。って、これは結構難しい人事なのである。まあ当時の国鉄(日本国有鉄道)にはそれだけの余裕があったということでしょう。ちなみに、平山氏はその後、法政大学を内田氏の資金で卒業し、作家の道にはいったようです。といっても、内田百閒がらみの仕事しかなかったようですが。

 で、すいません、今回は内田百閒の『阿房列車』じゃなくて、一條裕子の『阿房列車』を語る予定だったのだ。いやあ、実は百閒の『阿房列車』が面白くて、次に一條裕子の作品を観て、「ええっ、こんな面白い漫画ができるんだ」という風に面白がったのが、話が遅くなった理由なのだが。

 百閒の『阿房列車』は、走り出すまでが長い。一番最初の『特別阿房列車』なんぞは、まず旅行に行くための借金の話から始まり、市ヶ谷の駅から東京駅までの心配感、そして東京駅での行ったり来たりなどで実際の小説(と百閒は言っている。紀行文ではないそうだ。)の7~8割はすんでいるのである。残りの2~3割が、要は紀行文なのだが、それもヒマラヤ山系君とのつまらないやりとりばっかり。とはうものの、その「つまらないやりとり」が面白いのだ。こうした、本来ならば「つまらない」やりとりを一條は、一字一句漫画にする。実はそれが面白い。背景を入れずに百閒氏とヒマラヤ山系氏との話だけを、背景を入れずに描く。その、すこしずつズレていく関係がおもしろい。そして、見開きページの映像と言葉の選び方。

 この見開きページの選び方だけでも一條氏のセンスがうかがえるのだが、そのページの「絵」がいいね。やはり漫画は「絵」だ、というような「絵」があります。この「絵」だけでも、『阿房列車』を読む意味はあります。つまり、それは原作の内田百閒を知らなくても、という意味であります。

 いい雰囲気出てるんだよな、この絵。

 『阿房列車 1号』『阿房列車 2号』小学館/IKKI COMIX)

2010年3月24日 (水)

ネタ切れなしの『テルマエ・ロマエ』

 昨日のブログで「ネタ切れ」を予想したヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』であるが、今日、『コミック・ビーム』4月号を読んでみて、まあ、安心したというか、そういう方法もあるのだな、という気分になった。

 今回のルシウスは、前回の続きで、カミさんに逃げられた傷心の男として出演する。男としての機能を失ってしまったルシウスは、その治療の為に魔女のような人に「風呂」のようなものに入れられて、その結果、日本(要は「顔の平たい族」といういつも発見する不思議な民族あるいは「奴隷」)の(時代はよくわからないが)多分、愛知県あたりの「金精様」のお祭りに行ってしまい、そこで男根力を回復するというか、要は「立派に勃起したってところで運よくローマに帰ってくるという、今までの『テルマエ・ロマエ』とは、ちょっと違う展開の漫画です。「金精様」というのは、「男根」を神様としてあがめたてまつり、神輿にしたり(まんまですよ)してみんなで(女も含めて)担ぎ、「女陰(ほと)」に向かって突入する儀式です。要は、男と女の寿ぎを祝う儀式なのです。まあ、子宝を授かったり、五穀豊穣を祈ったりというお祭りであります。

 ただし、厳密な意味での「風呂」は出てこない。

 キリスト教一神教になる前の古代ローマは多神教の時代があった訳で、その中には当然「金精様」のような男根信仰などはあったようである。今後、ルシウスの「立派に立った」チンチンはどうなるのかは、作者のみ知ることであるが、できればそれがまた「温泉」に戻ってくることをお祈りしつつ、続編を待つのが正しい読者のあり方であろう。

 この時代のはやりである、男色のほうにいくのであろうか。それも面白いかな。

 今後、どうなるのでしょう。

 そして「風呂」はどうなるのだろうか? 多分、どこかででてくるのだろう。

2010年3月22日 (月)

ローマ風呂と日本風呂の奇妙な関係

『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ著/エンターブレイン/2009年12月刊)が2010年度マンガ大賞を受賞した。マンガ大賞というのは、書店のマンガ担当者が選んだ賞だということで、(最初の頃の)小説の本屋大賞のような、実質のある賞だということだろう。本当に面白い。というか、こんな面白いマンガがあったことを知らなかったことを恥じる。

 本家の本屋大賞が最近は「なんだかなあ」というような、要は沢山売れている本が選ばれたりして、本来の「みんな知らないだろうけども、こんなに面白い本があるんだよ」ということで選ぼうよという主旨から外れてきたことを考えると、まだマンガ大賞は健全かなという気がする。ちなみに、2008年は「岳 みんなの山」、2009年は「ちはやふる」という風に、当たっているけど、爆発的になるには、いまひとつという作品が選ばれている。なんか、マンガ大賞の方が選者はしっかりしているというか、本屋大賞の選者たちに「今さら東野圭吾じゃないだろう」と言って欲しい。

 で、『テルマエ・ロマエ』だが、要はハトリアヌス帝時代のローマで、そのローマ風呂を中心に設計をしていた建設技術者であるルシウス・メデストゥスという人間が、ある日、建築技術者からクビになり、その後、ガッカリしながら風呂に入っていたときに、その風呂の湯水吸い込み口に突然吸い込まれ、吸い込まれた先が何故か現代(よりちょっと前?)の日本の銭湯であり、そこに突然あらわれたルシウスが経験する日本の銭湯の方法、まず富士山と三保の松原の絵、上がり場に描かれた映画の看板、そして出されたフルーツ牛乳を腰に手をあてて飲むやりかた・・・、などをローマ風呂に取り入れて、大当たりする最初のエピソードに笑わせられる。え、待てよ、富士山の変わりのベスビオ火山は1200メートル位だから、雪が冠をかぶせるベスビオ火山はないんじゃないの・・・と思うのだが、72ページには「山・海・松を取り込んだ、ナポリの定番絵葉書」の写真が載っていて、たしかに「雪を抱いた富士」ではないけれど、「火山と湾と松」という定番の風呂絵はあるのだ。

 しかし、その後の「温泉」で、まず「猿の温泉」から入って、人間の温泉に行って、温泉玉子やら、雪見酒(というか温泉で飲むお酒)、混浴、などなど行くところまではいいのだが、その後、個人のヘルパー風呂やら、ショールームの風呂(ここにシャワートイレを入れたのは大正解だとは思うが)、オンドル風呂まで行ってしまうと、これから先はどうなるのだろか、と心配になる。ちょっと先を急ぎすぎじゃないかという気になってしまうのだが・・・。

 2009年12月8日初版で、2010年2月22日で第5版の本書。売れているのだなということは良いことだと思うのだが。3月発売の『コミックビーム』から連載開始だそうである。ネタ切れも予想されるが、しかし、連載開始するということは、それなりに成算もあるのだろう。だとすれば、これからが楽しみな作家である。

 ただし、ポルトガル在住というのが気になる。うまく、その辺の「日本にいない」良さが出ると面白いのだが。

2010年3月21日 (日)

 売り買いを繰り返すカメラマニアってやつは

 四谷は荒木町にあるアローカメラの親父の本が出た。『野田康司のカメラ四谷怪談』(吉岡達也著/東京キララ社/2010年2月刊)である。

「買い取り名人」の名前で知られる野田康司氏の一代記と買い取りの哲学やら、野田氏へのインタビュー等々でまとめられた本で、吉岡氏自身が野田氏にしょっちゅうカメラを買い取ってもらった縁があるようだ。

 カメラマニアというものは、経済的に、あるいは住宅事情的に、またはカミサン対策的に、のどれかの理由によって、結局は自分で買ったカメラをすべて持っている訳にはいかないことになっている。したがって、新しいカメラを買おうという時には、必ず前のカメラのどれかを売らなければならないのだ。どれを売るか、ということは何を買うかによって決められることが多いわけで、本当は手放したくなかったんだけど、でも新しい「コレ」が欲しいんだよなあ、ということで残念ながら前のものを売ることになるのだ。

 ということで、こうして売り買いを繰り返すカメラマニアは、どうしても売る先は決まったところになってくる。買う方は、買いたいものがあった場所で・・・ということになるので、いろいろなところで買うことになるのだが、売る場所は大体決まっている。どうせなら、買う場所で「下取り」という手もあると思うのだが、なぜか決まったところで売ることになる。まあ、親しんできた機械を手放すのである。やはり、知ったところにお願いするのがいいのだろうなあ。

 ということで、私はアローカメラの存在はずっと知ってはいたのだが、昨年、外付けのセルフタイマーを買いに行くまでは、その店には行ったことがなかった。したがって、野田名人に買い取ってもらったこともない。私の場合は、市ヶ谷にあるK商事ばっかりなのだ。一度、野田名人にお願いしてみようかな、というところで、今のところ買いたいカメラもないし(本当はあるけど、今は言わない)、したがって売らなければならないカメラもない(本当はあるけど、今は言わない)。

 取り敢えずシドニー(第4土曜日の午後2時)に行ってみようかな。

2010年3月19日 (金)

泰山鳴動、鼠一匹

 もう公開から2カ月過ぎているのだが、やっと『パラノーマル・アクティビィティー』を観た。

 なんか、こういう映画は早いとこみておかないと、「ネタバレ、ネタバレ」ということを気にしながら物を書かなければいけないという、ある種の「優越感」を感じながら感想やら映画評を書かなければいけないのだ。つまり、今頃映画評を書くということは、「ネタバレしてもいい?」ということである。

「今に出てくるぞ」「怖くなるぞ」「ホラもう出てくるぞ」といいながら、結局何も出てこなかった、「なんだこりゃあ」というのが『ブレアウィッチ・プロジェクト』だった。要は「泰山鳴動、鼠ゼロ匹」いやあ、見事に騙されたものですね、というのが「最低製作費」で作られた「ビデオ映画」だったのだ。結局、当時出始めたネットでの評判が先行して、観客は見事に騙されたのである。

 もうそのやり方には観客は騙されない。という状況の中で、映画製作者は何を考えたか、ということの答えがこの映画だ。途中では、一生懸命怖がらせて、つまり、ビデオ映像の中で、最初に何故か夜中に起きてずっと起きているケイティの姿を伏線としつつ、その後の訳のわからない、何度も起きる出来事を表線としながら、ストーリーは進む。

 しかし、結局は「ああ、そうなの」という予定調和の中にストーリーは収束するのだ。『ブレアウィッチ』にしない為には、こうなるしかないのか。まあ、普通のホラー映画の定義に従い、ケイティが憑依(したんだろうな)して、ミカを殺して、逃走するんだ、ってなもんである。ラスト、ワンカットだけでこれが語られる映画なのである。まあ、そこで「ビックリ」する観客はもういないと思うが。

 理由は「ない」。ただ、ケイティがミカを殺すだけの映画である。殺す理由はない。要は悪霊に憑かれただけだから。

 たしかに、1万5千ドルで作られた意義は認めるが、それが、大当たりするのは、製作費とは関係ないファクターが動いたからだろう。勿論「1万5千ドルで作った映画が、150万ドル使った映画より面白い」というパブリシティをいきわたらせたパブ会社の勝利かな。

 いずれにせよ、『ブレアウィッチ』とは違って、ドラマとして作られた本作である。ケイティが生きているという話がある以上、続編が作られる可能性は高いだろう。が、次にはこんな少額予算を裏手にとったやり方は、もう許されない。となると、とっても「陳腐=cheap」な映画になってしまいそう。そうならない為にも、とっても大きな期待がある。

 今回は、少額予算を「アイデア」一発で乗りきった形だが、次はどうする?

 もううやらない?    ならば、OK。

2010年3月18日 (木)

風俗ライター、じゃなくても戦場に行くけどね

 小野一光というライターを知った。『風俗ライター、戦場へ行く』(講談社文庫/2010年3月刊)という本である。

 いまやパチンコ・パチスロ関係の出版社として有名な白夜書房であるが、元々は「写真時代」などの「写真雑誌」といっていけなければ、要は「エロ雑誌」の出版社であった。そこの「百円ライター(要は使い捨て)」として使われていたライターが、何故かというか女にフラレたのがきっかけでカンボジアに行ってしまったというのが、このストーリーの始まりなのである。

 その後、戦争が始まるたびにカンボジア、アフガニスタン、そしてイラクへと場所を変えながら、取材を続ける。しかし、その継続に関してなんら繋がりがない。何故、カンボジアなのか。アフガンについても、何故タリバン政権下のアフガンなのか、何故北部同盟下のアフガンなのか、何故米軍支配下のアフガンなのか、という思想的なことは当たり前としても、そういった思想的なことを考えること自体が関係ない、といった感じで、でも戦場にこだわって取材を続ける。ウーム、それは他人が行かないところへ行けば別の記事が書ける、ってことだけ?

 最後は、イラクである。もはや混迷を極めるという形の場所である。これが、イスラエルとアラブとの関係論であればもう少し単純なのだけれども、要はアラブ人(イスラム教徒)同士の戦いになってしまうと、もやは、われわれ日本人がどうこうする問題ではないのかもしれない、ということになってしまう。

 そこで「ボクにとっての戦争は、ヒューマニズムの観点からの取材対象ではなく、好奇心を満たすための対象だったのだ。決して取材ではない。取材にかこつけた見物。だ」というスタンスで戦争・戦場取材を続けてきた筆者である。

 戦争取材をする記者には、「戦争に対する立派な考え方があって」取材する人、と単に「戦場に興味があって」取材する人があると思っていたが、もう一人「戦場に興味はないけど、今より面白そうだから」取材する人がいるのだな、と分かっただけでも、読者としては一歩前進である。

 まあ、いろんな人がいるから、僕らは戦争の状況も知ることが出来るわけだし、その人の動機は別にどうでも良いんじゃないか。

 まあ、ジャーナリスト(といってしまうとかっこ良すぎるが)、を自称するならば、一度は戦場に行ってみれば、ということなのかなあ。

 

2010年3月15日 (月)

もっと自由に評論を

 飯沢耕太郎氏の『写真評論家』(2003年/窓社刊)を読む。

 多分、写真評論家という存在が「見えにくい」ものだあるから、このようなものを書くことになったのかもしれない。他の、映画や小説、絵画などには評論家という確固たる居場所(地位ではない)があるのに、写真についてはそれがないことについての飯沢氏なりの返答なのかもしれない。

 写真展評について飯沢氏は「紹介」と「評論」と「批評」という三つの段階があるという風に書く。「紹介」についても、飯沢氏は写真展に参加している人たちの作品の公開意図にまで触れないと「紹介」とは言えないと書く。つまり、展評を読んで写真展をみにいく人達への、写真鑑賞の材料を提供しなければならない。それも、書くメディアの性格に合わせて書かなければならず、一般雑誌に専門用語を使った「紹介」はいらない、というのである。まあ、ここまで丁寧なデータがあれば充分である。

 次に「評論」であるが、ここで初めて書き手の文体・世界観が問われると書く。しかし、そこでも展示されている作品から「書き言葉」が離れてはいけないと書く。あくまでも、中心は展示されている作品であり、「評論」はそれに付随するものであるという風に。

 で「批評」という段階になって、「初めて書き手の独自のものの見方にあらゆるものを従属させることが可能に」なってくるというのだ。要は、作品評を出発点として、作品から離れて自由にものを言ってもいいという風になる。

 しかし、そうした「評論」「批評」段階論なんてものがあるのだろうか。飯沢氏の「評論」と「批評」の間には、基本的に作品批判をしない「評論」と、作品批判にまで踏み込むことがある「批評」というわけ方があるのではないだろうか。したがって、展評では「評論」までにとどめるべきで、「批評」まではしていけないというのが飯沢氏の内部での決めごとなのかもしれないが、別にそんなことはないのではないだろうか。展評で作品批判をしてはいけないなんてことはないわけで、その批判が面白ければ、それはそれでエンターテインメントになるわけで、要は写真展に行くきっかけになればいいのだ。

 多分、こうした「評論」に対する考え方は、美術評、映画評、写真評などに共通する考え方で、あくまでもそれは「評論より作品の方が上」という考え方によるものである。つまり、それらの、絵画、映画、写真の言論界に共通する作品コンプレックス、あるいは経済的な要請、があるように思われる。

 例えば、映画評論も作品を評価している場合は「評論家」の存在を認めるが、いったん同じ評論家が作品批判に回ると、とたんにその「評論家」の存在さえ認めなくなる、という状況がある。これは「経済的な要請」の最たるものである。

 まして、写真の世界はもっと小さい。したがって、展評なんかで批判をするとそれで客がこなくなってしまうから、批判はしてはいけないということなのではないだろうか。

 そんなことは気にせずに、もっと自由に批判し合う状況が必要なのではないだろうか。これは、映画も絵画もそうであるが。

森村泰昌・なにものかへのレクイエム

 東京都写真美術館で『森村泰昌・なにものかへのレクイエム」(5/9まで開催)を見に行く。

 森村泰昌と言えば、ゴッホの自画像や、モナリザ、マリリン・モンローなどのフェイク(偽物)・セルフポートレイトで有名なパフォーミングアーチストである。今回は全4章に分けて、第1章「烈火の季節」では、三島由紀夫の『薔薇刑』のフェイクや暗殺されるリー・ハーベイ・オズワルドやアインシュタインなどのフェイク。第2章では「荒ぶる神々の黄昏」と題し、毛沢東、ゲバラ、(ロバート・キャパが撮影した)レオン・トロツキー、レーニンの演説の動画像、そしてヒトラーの動画像によるパロディなどがある。ただし、ヒトラーのフェイクは、もともとチャールズ・チャップリンがパロディしたヒトラーのフェイクというの二重構造のフェイクである。

 そして、本展で初公開される第3章「創造の劇場」ではピカソ、デュシャン、ダリ、クライン、ウォーホルなどを動画像ですべてフェイクを行い、第4章では「1945・戦場の頂上の旗」では歴史上の大きな分化点となった、昭和天皇とマッカーサー元帥の対面や、タイムズスクエアの戦勝記念パレードに加え、一番大きな展示となったのは「硫黄島の星条旗」である。つまり、クリント・イーストウッドの映画で有名なやつね。アメリカではアポロの月面着陸の際にも同じ場面がパロディされていたことを覚えている。

 人物のフェイクを通して20世紀を語ろうとする森村の意志はよくわかる。たしかにこの第1章から第4章までで、20世紀の最初の大きな世界騒乱「ロシア革命」から「第二次世界大戦」までの動きがすべて示されていて、芸術家の仕事としては十分なのかもしれない。

 しかし、歴史の方から見ると、やはり何かが足りないのだ。そう、ヤルタ・ポツダムの面々、チャーチル、トルーマン、スターリンである。1945年以降の世界の趨勢を作ったこの3人が登場しないのは、やはり物足りない。この3人がいたからこその冷戦であり、新世界秩序であり、この3人に蒋介石を加えれば、東南アジア、アフリカの独立である。

 別に、トロツキーを演じてしまったからスターリンはなあ、というほどのものでもないでしょうから、やはり見たかった。それでこそ、20世紀の「戦後」が完成するというのに。

 結果として、一番目立ったのは、2階と3階の間の壁に映されていた三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地演説の動画像である。もはや、この作品における森村は三島になんか似ていない。しかし、演じている姿、演じている内容、これらを観れば完全に三島のパロディだと分かるし、話している内容は全く三島演説とは関係ない内容である。

 時間がなくてあまりこの三島演説をじっくり観られなかったんだが、この三島演説だけのために、もう一度観に行こうかなと考えている。

 

2010年3月12日 (金)

私写真を考える

 飯沢耕太郎の『私写真』(筑摩書房/2000年刊)をテキストに「私写真」について考える。

 私写真とは何だろう。つまりどんな写真でもそれを撮影した人がいる以上は、言ってみれば私写真であると言えるのである。特にその写真が一つの文脈=コンテキストにおかれた場合、そのコンテキストによって「写真の意味」は変わってきて、まさに正反対の意味にさえなってしまうという写真の存在の「脆弱さ」を考えると、私写真というのはまさに写真の存在を意味づける一番よい考え方だろう。

 私写真と正反対にあると思われる「報道写真」、新聞などに掲載される撮影者の名前が出されない写真においても、最近は撮影者をクレジットされることが多くなってきた。この辺は、宮嶋茂樹などの活躍によって、まさに「エンターテインメントとしての戦場写真」という奇妙な「私性」の成立もあるし、まあ、それ以前からマグナムあたりの活動から「報道写真の私性」が認識されはじめていたのであろう。つまり、報道写真であっても撮影者がクレジットされればそこでその報道写真も私写真に成り得るということであろう。

 写真創始の頃の「肖像写真」や「風景写真」などは、撮影者のクレジットはない。しかし、少しずつそうした写真の撮影者がわかってくるに従って、そうした写真も私写真になっていくのだ。ウジェーヌ・アジェは絵描きの為に、背景になりそうなパリのそこここを撮影して歩いた。それは、写真そのものを「作品」として残すためでなく、むしろ絵画を作品として残すための素材にすぎなかった。しかし、その後その写真がアジェという人が撮影したと言われた瞬間、それはアジェという人の名前と切り離されなくなってしまうのだ。

 本書の中で飯沢氏はタルボットの写真について述べている。タルボットの写真集『自然の鉛筆』の中の例えば「開いた扉のようないかにも撮影者の意図がありそうな写真と、「パトロクラスの胸像」のような撮影者の意図が入っていないような写真。しかし、「パトロクラスの胸像」であったとしても、そこにはタルボットの狙った陰影があるわけだし、それなりに「商品見本」として撮影したという意図はあるのだ。

  飯沢耕太郎は本書で<あらゆる写真は「私写真」?>とクエスチョンマーク付きで慎重に述べているが、実際にはまさに「あらゆる写真は私写真」であると言っていいのである。

 本書では、その後、中平卓馬、深瀬昌久、荒木経惟、牛腸茂雄という、特に写真の「私性」にこだわっている写真家の作品論に入っている。もちろんこの4名はまさに「私性」を前提に写真の仕事をしている人たちだし、私写真という概念抜きではまったく語れない写真家たちである。

 いまや、写真の「私性」はすべての前提であり、広告写真のブツ撮りであっても、そこで写真家が私性をだすこともあるのだ。

 そう、「すべての写真は私写真」なのである。まあ、狭義の意味での私小説とはちょっとちがうけど。

成田空港映画を批判してみたけれども・・・

 神田小川町にドキュメンタリー映画専門の映画館(と言っていいのかなぁ)neoneo座というのがある。まあ、ドキュメンタリー専門なんて言ったら絶対に商売にならないはずなので、どこかスポンサーがいなければいけないはずなのだが、それはよくわからない。

 いずれそれはわかるだろうということで、3月11日は「短編調査団 日航の巻~鶴のマークの4本立て」であります。上映作品は、1968年作品の『つばさとともに』、1964年作品『アロハ・ハワイ』、1969年作品『タイム・マップ』、そして1979年作品『旅を支える心は一つ』である。要は、日本航空のいわゆるPR映画というやつ。JALが金を出して作った映画であります。でも著作権はJALは主張せず、それぞれ毎日映画社、日本天然色映画、日本シネセル、博報堂+東洋シネマ(みんな懐かしいなぁ。あ、毎日映画社は別ですが)が著作権を持っているという、今では考えられない牧歌的な状況なのであります。

『つばさとともに』から『タイム・マップ』までは、1951年にダグラスDC4から始まった日本航空の歴史の黎明期の話。しかし、1968年の『つばさとともに』では、既にボーイング747ジャンボの導入の話が出ていたりして、随分早い時期から「大量旅行者時代」のことを考えていたんだなということが分かる。もっとも、同じ時期にコンコルドの導入も考えていたようなので、それはどうかな、勿論「早い」ということが大きな価値の時代だったので、いまさら「早くてどうなのよ」という立場からの批判は意味を持たない。とはいうものの、コンコルドの導入は所詮欧米の航空会社からの圧力というか、「欧米並みに」という当時の時代圧力からの導入計画だったのだろう。いずれにせよ、戦後の廃墟から立ち直った日本が、「早いとこ欧米に追い付かなければ」という意識の中で突き進んでいた時代。その時代の先兵として動いていた日航の姿がそこにはみえるのである。まあ、PR映画であるということを差し引いても、当時の日本社会の基本的実相から言って、そうした「前向き」の姿勢がモロ出しのイケイケドンドン映画になるのはしょうがない。

 で、4本目の『旅を支える心は一つ』である。1979年というのは既に成田空港が開設されている時期である。つまり、この映画は成田空港の存在がすべての前提になっているのである。で、実はこの映画のスタッフがすごいんですね。監督は黒木和雄、撮影が成島東一郎です。黒木は『龍馬暗殺』や『祭りの準備』を撮ったあと。成島は『青幻記』や大島渚作品『東京戦争戦後秘話』を撮ったあとです。まあ、「お仕事」としてそれらの作品を撮ったあとにまたしても「お仕事」として『旅を支える心は一つ』を撮ったと言われてしまえば、その通りなんだけど。そういうもんか?

 映画は、当然、日航の各セクションで一所懸命がんばっている人たちを描いている。定時運航なおかつ安全運航という、一種相反する命題に挑んでいる人たちをしっかり描いていてあまりある。当然、こうした運輸会社の宿命である、「提示運航と安全運航」という命題は「その会社にいる人たちにとっては重要な命題」である。しかし、その前に、「成田空港」の存在、「成田空港という問題」とは何なのかという命題があるだろう。そういう問題に目をつぶって映画を作っていいものなのだろうか。「生活のため」にこうした映画を作って、一方で成田に反対する人たちにも受けようとする映画を作っていいものだろうか。

 と、ここまで書いて、自分のことに戻ってしまうと。そんなことを言いながら、自分自身は成田から海外に何度も出張に行っていたのだ。あんなに反対していた成田空港から・・・。ということで、なぜか、黒木批判やら成島批判は、もうここでやめてしまうのである。ああ、情けない。

 いや、書きたかったのはそんなことではない。別にここで黒木批判やら、成島批判をしてもしょうがないのだ。つまり、こうした「PR映画という名のドキュメンタリー」における批評性ということなのである。当然、JALがお金を出して作っている以上、JAL批判をするはずはないのだが、それなりの批評性はあっていいはずだと考える。大きな意味での文明に対する批評、文化に対する批評はあっていい。と、考えていたのだが。それはやはりアマい考えなのだろうか。見事に批評性を捨象した映像がそこにはある。それでもドキュメンタリー?

 ま、別に前原国交相の「公的整理はありえない」という言葉に乗せられて数万円を紙くずにした腹いせではありません。

 あ、この上映は昨日だけなので、もう見られません。残念。

2010年3月10日 (水)

愛染恭子さん・・・もったいない

 愛染恭子主演の映画『奴隷船』(金田敬監督/福原彰・金田敬脚本)が「愛染恭子引退記念上映」という形で3月6日から銀座シネパトス他で公開されている。

 団鬼六作品が原作のつまりはS&M映画であります。S&Mの世界というのはよく知らないので、この映画について何とも言えないのがつらいが、M女が次第にS男から仕込まれてMの世界に入っていくというのは何となく「あるのかな」という感じはする。「所詮、女は男によって・・・」という世界なのだろう。つまりは、男の支配である。まあ、世の中にはS女とM男という関係もあるようなので、単純にS&Mは男支配ともいえないようだ。

 しかし、この映画での吉岡睦雄演じる北川のエキセントリックな芝居はなんなのだろうか。あそこまでエキセントリックにしないとリアリティがないのだろうか。そこまでしなくとも、もっと普通ん演技の方が「凄み」が出てくるのではないだろうか。その辺は監督に聞いてみないと分からないことだが、一点気になったところである。

 あとはまあよくある映画の感想でしかないが、一つだけ、愛染恭子さん、これで「裸」をやめてしまうのはもったいないのではないでしょうか。確かに、二十代、三十代のはつらつとしたヌードに比べると今の五十代の裸はたるんでいる。しかし、それは加齢によってしかたのないこと。今でも、充分に「見られる裸」になっているのだ。これからも、六十代、七十代の裸を見せるという挑戦をしてほしいのは私だけではないはずだ。加齢なりに「崩れてゆく」裸体というのも人には興味があるものである。

2010年3月 9日 (火)

まだまだカメラマン・・・だって?

 フォトグラファー石川文洋氏の新作『まだまだカメラマン人生』(新日本出版社/2010年2月28日)を読む。

 石川氏と言えばベトナム戦争である。朝日文庫のぶ厚い2冊、『戦場カメラマン』『報道カメラマン』を読んだ人は多いと思う。あるいは枻出版社の2冊『石川文洋のカメラマン人生 貧乏と夢』『石川文洋のカメラマン人生 旅と酒』かもしれない。いずれにせよ、石川氏とベトナム戦争は切っても切れない関係にある。しかし、石川氏とベトナム戦争の関係でいえば、毎日映画社をやめ、香港の通信社にいたときにたまたまベトナム取材があって、その後ベトナム戦争に立ち会ってから、朝日新聞に入社する4年間の間でしかない。その、4年間の間が石川氏の一番多感な20~30代にあたっていたということと、やはり強烈な従軍取材ということがことがあるのだろう。私たちも、石川氏というと「ベトナム戦争」という思いがあるのだ。

 石川氏にとってもベトナム戦争は特別の思いがあるのだろう。その後の戦争にも従軍したり、第三者の立場からも取材はしているのだが、やはり、その思いはベトナム戦争の際の体験から思い起こすことが多く、その比較というか「ベトナム戦争ではこうだったんだよね」的な書き方が見られる。

 その、石川氏の新作である。なんかこの時期あまり書いていないなという感じはあったのだが、それが心筋梗塞という病を抱えていたことは知らなかった。カバーの写真は、まさに石川氏のいつもの写真というか、四国巡礼の最中の石川氏の写真で、ライカを構えているのが石川氏らしいところかな、という感じ。

 ところが、読んでみると心筋梗塞で一度は心臓が止まったという話をみると「エッ」という感じである。それでも、その後、四国巡礼を最後まで済ませた話とか、ベトナムに行く話とか読むとまだまだ大丈夫だこの人はという感じになる。

 全体構成としては、四国巡礼の話。その四国巡礼の最中に心筋梗塞になって一度心臓が止まって、5回のショック療法で助かった話。そして、灰谷健次郎氏との交歓と灰谷氏の死。最後にベトナム戦争取材で出会った人たちとの交歓、という具合になっている。

 1938年生まれの石川氏ももうすでに72歳。80歳までは現役カメラマンを続けたいという思いがあるようだ。まあ、戦場カメラマンじゃなければその年でもやっていけるでしょうが、戦場じゃね、というところはありながらも、行くんだろうなこの人は、という感じがした。

 行くのかい? 石川さん・・・。

2010年3月 6日 (土)

しあわせの隠れ場所に隠れているものは

 12/4に書いた「ブラインドサイド」の映画が2月26日から公開されている。12/4には「あまり映画には期待しない」という書き方をしたのだが、いやいやなかなかいい映画になっている。前言撤回であります。

 まずすごいのは、NFLの作戦が変わったきっかけになった1985年11月のジャイアンツ対レッドスキンズの試合、ジャイアンツのローレンス・テイラーがレッドスキンズのQBジョン・サイズマンを「壊した」試合のビデオが冒頭映される。これがすごいのなんのって、まさにテイラーが襲いかかってサイズマンの体が奇妙な形で崩れてそのまま担架で運ばれるシーンがそのまま映されているのだ。困ったことに、これがすごい迫力でサイズマンのすぐそばにいたOTの選手も一緒に弾き飛ばされてしまう、そのシーンなのである。まさに「百聞は一見に如かず」、本でいくら言葉を尽くして説明しても、このシーンを観るだけで一発でその重要さが分かろうと言うものである。

 映画は、原作とは異なってサンドラ・ブロック演ずる、マイケル・オアーの後見人になる母親役のリー・アン・テューイを中心に、彼女の視線で描かれている。これがなかなか功を奏していて、映画の短い時間で話を描くのに成功している。リー・アンが寒い日にポロシャツ一枚のマイケルを最初に見つけて家に連れていくシーン。体は大きいが気が優しく敵をタックルできないマイケルを焚きつけるシーン。リー・アンと同じ南部の成功者の妻たちとのいくつかのシーン。これらのシーンは原作にはないシーンである。しかし、そうしたオリジナルなシーンを書き加えることによって、短い時間で状況を説明することに成功している。12/4に「映画化がうまくいったら脚本の勝利だ」と書いたが、こうした原作にないシーンの書き加えは明らかに脚本の勝利と言えるだろう。監督のジョン・リー・ハンコックが自ら脚本を書いているが、実にうまい脚本だ。

 また、サンドラ・ブロックもよい仕事をしている。ビジネスの成功者の妻という立場にあって、若く貧しい少年を助けるという役を嫌味なく演じている。

 しかし、「ビジネスの成功者」で「敬虔なクリスチャン」で「共和党支持者」で「全米ライフル協会会員」という典型的なアメリカ南部人の「正しいあり方」とでもいうものを、これほどまっとうに描くのは、実に難しいというかリアリティの欠如と写ってしまうのだが、まさに「実話」だというところが、それを説得してあまりある。

 原作ではQBの「ブラインドサイド」であり、マイケル・オアーという選手の「ブラインドサイド」であったのが、映画ではまさに「しあわせの隠れ場所」になっていて、最近の邦題としては結構シャレたものになっている。

 最後に一つだけ苦言を呈しておけば、マイケル・オアー役を演じているクイントン・アローなのだ。「1日2回のワークアウトを週7回と厳しいダイエット計画を実行」したそうだが、しかし、マイケル・オアーほどには体ができていない。どうしてもデブに見えてしまうのだ。おまけに、クロージング・タイトルバックで本物のマイケル・オアーのスチールが出てくるのだが、それがなおさらアローのデブぶりを強調する結果となってしまている。ま、そこがちょっと残念。

 とはいうものの、全体的には「良い出来の映画」になっている。珍しくオススメのハリウッド映画である。

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