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2010年2月

2010年2月28日 (日)

八ッ場ダム問題を考える

「八ッ場ダムをストップさせる東京の会」の総会をのぞいてきた。

 群馬県にはよく行くし、また草津に行くときにちょうどこの川原湯温泉駅前を通り、歓迎 ようこそ ダムに沈む 川原湯温泉」という看板を毎回目にしていたので、八ッ場ダムのことは以前から知っていたし、「八ッ場ダムを考える会」のホームページなども以前から見ていた。昨日の「ストップさせる東京の会」総会の開催もそのホームページで知ったような具合である。

 さて、民主党の衆議院選での勝利によって具体化してきた八ッ場ダムの工事中止であるが、問題は58年の長きにわたって当初の反対から次第に賛成やむなしとなってきた水没住民のケアの問題だろう。当初、住民はみなダム建設反対であった。しかし、その後国や県の切り崩しにあい、1992年に反対運動が終わり、次第に建設やむなし、後は補償問題だという時になっての突然の政策変更である。

 八ッ場ダムはいらないということはよく理解できるし、工事中止には賛成である。しかし、住民の補償問題はそれとは別である。それと、やりかけの工事をどこで止めるのか。地元の土木建設業者はどうなるのか。そうしたさまざまの問題を抱えて八ッ場ダム問題はある。

2010年2月25日 (木)

裁判長・・・ちょっと、ちょっと

 荒井晴彦vs.絲山秋子の裁判、第4回口頭弁論が2月24日に開かれた。

 やっと、まともなやり取りが始まって、だんだん面白くなってきた。原告側弁護人の柳原敏夫弁護士から被告側弁護人の清水浩幸弁護士へいくつか質問とやりとりがあった後、荒井氏が直接被告弁護人に尋ねたいというアクションがあった。裁判長としては法律の素人が直接話すと訳のわからないことになると考えたのだろうか、なんかあまり歓迎しないような雰囲気。

 荒井氏の言いたい点は、被告の準備書面の内容について、初めに映画の脚本も原作からは独立した著作物であることを認めているのに、後半の方で、原作の通りでない脚本を認めないのは矛盾しているのではないかということ。しかし、これは裁判長の判断で、それは法律論ではないということでチョン。しかしなあ・・・そんな簡単に却下していいのだろうか。一度、被告側に尋ねた方が良いのではないだろうか。この辺の訴訟指揮はよくわからない。

 とはいうものの、だんだん面白くなってきたこの裁判、次の口頭弁論は4月14日午後1時30分から、東京地裁721法廷で行われる。

ロマン、ロマン・・・エッ嘘ロマンポルノでしょ

「ロマンポルノ」と言えば日活が1971年から1988年まで持っていた映画路線だが、もうひとつ思い出がある。映画評論家のT脇氏がまだ役人も兼ねていた時期の話。つまり「役人=T脇氏」と結婚したつもりのカミさんが、しょっちゅう遅くなってから返ってくる亭主の行く先をつかんだら、何と「ポルノ映画」を観ていたということ。「なあに、私というものがありながら」とカミさんが思ったかどうかは知らないが、「だったらポルノ観ながらマスでもかいていなさい」と言ったかどうかは知らないが、呆れたカミさんから三くだり半を突き付けられたという話。まあ、この話の真偽は知らないが、一時期のT脇氏のロマンポルノについてののめり込み方は半端じゃなかった。私に関して言ってしまえば、私もロマンポルノは支持していて、そうした文章を書いていており、その時は日活から試写状が毎度毎度来ていたのだが、ある時「らしゃめんお万」だったかな、コテンコテンに批判した文章を「キネ旬」に載せた途端に、試写状が来なくなったという、やはり資本主義社会とはそういうものか、と納得された思いがある。日活労組も、まあ、そんなもんか、というところかな。

 で、映画『団地妻 昼下がりの情事』である。前回の、というか1971年の『団地妻 昼下がりの情事』(監督:西村昭五郎/脚本:西田一夫/主演:白川和子)の時とどう違うのか、ということが、前回も見た人間としては気になるところである。

 基本的には、前回の『団地妻~』は、ルイス・ブニュエルの『昼顔』(カトリーヌ・ドヌーブ主演)をベース(というかパクッて)にして、「貞淑な妻」が「昼間に売春」をして・・・という話なんだが、今回は「売春」はしない。しかし、いまだに「マンション」じゃなくて「団地」に住んでいる、でも「そこそこ」幸せな妻が如何にして他所の男と「する」かという問題である。その問題は、夫の方にありそうだな。つまり、その段階で「濡れていない」妻に対して、「じゃあいいや」という感じでそっぽむいてしまう夫。何で、妻を「濡れる」状況にしないの? ということは問題にされず、要は「濡れる」状況にさせてもらえる人なら誰でもいいわ、ということになってしまうのですね。で、インチキ浄水器のセールスマンに体を開いてしまう。割と単純な成り行き。でも、結局は元のサヤに収まってという。

 まあ、そういう映画なんでしょう。

 しかし、こうまで予定調和でいいのだろうか? と考えるのだが、その辺が「ロマンポルノ」なのだろう。ね、山田耕大さん?

 ユーロスペースで公開中(同時にスカパー パーフェクトチョイスでも放映)

  

2010年2月21日 (日)

すごい新人監督見つけた

『イエローキッド』(真利子哲也監督/東京藝術大学大学院映像研究科/2009年)という映画を観た。

 要は大学院の修了制作作品として200万円という超少額な製作費で、10日間という撮影期間で作られた作品である。通常こうした制約の中で作られた作品というと、かなり自己中心的で観念的な作品をイメージしてしまうのだが、いやはやなかなかエンターテインメントしている作品ができたものだ。

 ボクサー志望の青年・田村とそのタチの悪い先輩・榎本との対立。田村の所属するジムに漫画の取材のために訪れた新進の漫画家・服部と彼の友人の元ボクサー・三田との女を挟んだ対立。そして、田村と服部の描く新作「イエローキッド」のアナライズ。という三つの線が絡み合い、実に見事なドラマに仕立て上げている。

 こうした、低予算の作品の場合、如何に脚本をうまく作るかが決め手になるのだが、その辺がうまい。ただし、脚本の作り方として「ストーリー構成」と「台詞」という二大要素というのがあるとするならば、「台詞」については生硬で、まだまだ力量不足が見られるものの、「ストーリー構成」については見事だ。当初はなかなか前に進まないストーリーに少し不安が生じたものの、服部の登場から先はうまくストーリーが進んで行き、見る者を飽きさせない。これが、監督・真利子の初脚本だというから驚きである。

 監督としては、これまで8mmやDVを使った短編・中編作品ばかりで、長編はこの修了制作が初めてである。スタッフもほとんどは藝大の学生だと思うが、まだ技術的には不十分な感じがある。さらに、HDで制作されているために(だから200万円で出来たということもあるが)不安定な映像になったいたりする。しかし、それを補って余りあるのが脚本の出来である。確かに、バンクーバー映画祭で受賞したり、今年もロッテルダム映画祭、香港映画祭、全州映画祭などから招待されるだけの力量のある作品だ。うまく、もっとメジャーで配給されれば、それこそ化けるのではないかという思いもする。

 いやあ、なかなか末恐ろしい監督の出現だ。

 現在、ユーロスペース(渋谷)で公開中である。

2010年2月18日 (木)

日本は再び鎖国をすべきである

『ガラパゴス化する日本』(吉川尚弘著/講談社現代文庫/2010年2月刊)を読む。

 ガラパゴス化という言葉は日本の携帯電話の進化についてよく言われていたことを覚えているが、この本ではそうした日本製品のガラパゴス化ばかりでなく、日本という国のガラパゴス化、日本人のガラパゴス化という観点から、日本がそうしたガラパゴス化現象からいかにすれば脱却できるかを提案したものだ。

 しかし、考えてみれば、日本は開国してからまだたかだか150年しか経っていない国である。元々、鎖国という制度を採用できたのも日本が外国とは海を隔てていたという地理的な要素もある。つまり、日本は地政学的に言って、元々ガラパゴス化しやすい環境にある国なのだということである。例えば、よく言われる携帯電話について、海という国境を持つ日本は始めから国境付近の状況を考えなくてすむ。これが、国境を地面で決めている(要はヨーロッパなどでは)国だと、この国境付近の電波のスピルアウトを考えなくてはならない。従って、国境を同じくする隣国との間に共通の形式を持つ通信形態を考える必要が出てくる。こうした、隣国との共通する形式を考えて協議を重ねているうちに、国境を持たない国は勝手に自分の国のことだけを考えて新しい形式を作ることが可能なのだ。それがどんどん進んでいくと、その国だけでしか通用しない形式の携帯電話ができてしまうし、同じことが他の機器でもあり得るだろうし、そうなるとそうした企業がどんどん増えてくるだろうし、企業が増えれば国の政策なども同じようにガラパゴル化するし、そんな国の中で育った人間がやはり同様にガラパゴスかすることもあり得るだろう。

 特に、1970年代から1990年代にかけての20年年間は、途中オイルショックとか経験しながらも、逆にそこからの復活という実体験を経て、世界中に対し「日本はここにあり」という実に大変な経験をしてきたのである。一時的には、日本のテクノロジーが世界のデファクト・スタンダードになりのではないかという、幸せな錯覚も持っていたのである。しかし、それが錯覚であったと気づくのに大した時間はかからなかった。その後の「失われた10年」。そして、21世紀に入ってからの10年を見れば充分である。

 もはや、日本は世界のGDP第2位の座も、かろうじて昨年は保っていたが、もはや今年は中国に抜かれるわけだし、日本の製品・規格がデファクト・スタンダードになっているものなど何もない。

 だとしたら、日本及び日本人がとるべき態度・立場はどうなんだろう。そこで、吉川氏は「脱ガラパゴス化」を言うわけである。確かに、脱ガラパゴス化することは、今後日本企業が世界企業として生き残るためには必要なことであろう。というよりも、既に例えばニッサンなんかはフランスのルノーグループの傘下に入ってブラジル出身のフランス人の社長をいだく会社だし、ソニーだって、トヨタだって、日本企業といいながらも、実際には外国資本はかなりの比率で入っているし、そのどの部分をもって日本企業というのかもわからない状況になっている。すでに、日本企業の脱ガラパゴス化は進行していると言っていいのかもしれない。

 とすると、日本という国の脱ガラパゴス化、日本人の脱ガラパゴス化、というところなのだろうけれども。この辺どうなのだろう。

 企業は、「生き延びることが株主に対する責任の取り方」なのであるから、大きくなった際は世界企業になって、生き延びることが必要。元々の生まれ故郷なんて考えずに、企業としての成長を考える必要があるのだ。

 しかし、日本人の脱ガラパゴス化はどうなのだろう。今の若い世代に海外への希望とか、興味とかがなくなっいるということを根拠に「日本人がガラパゴス化している」という言い方をするのであるけれども、いまや、世界の大国化している日本に住んでいる若者である。いまの生活には満足していないけれども、さりとて外国に行って「新天地を目指す」気はないのである。「世界の大国」にすむ人間が外国に興味がなくなってしまう状況は、まさにアメリカ人をみれば分かることである。

「ニューヨークやワシントンがどこにあるかも知らないアメリカ人」「世界中のひとがアメリカ語(英語ではない)を喋っていると思っているアメリカ人」という、とにかく「超ガラパゴス化しているアメリカ人」が世界の真ん中にいるのである。そんな中で、日本人だけが「ガラパゴス化しちゃいかん」ていうこともないでしょ。

 たぶん、吉川氏が何と言おうと、もはや日本人は「ガラパゴス化」してるし、もう日本は滅びの世界に向かっているのかもしれない。じゃあ、いじゃないですか。企業には頑張ってもらって、世界企業になってもらって、どんどん日本企業から離れてもらってですね、日本という国と日本人は鎖国をしましょう。

 鎖国の結果、日本人が滅びてもそれは仕方のないことだし、その中から坂本龍馬みたいな人がまた出てくるかもしれないし、まあ、その結果を座して待つ、ということがこれからの日本のとる道かもしれないじゃないですか。

 ま、ちょっと暴論ですがね。

2010年2月16日 (火)

ふたつのネット論・・・でもなあ

 ほとんど同時に出た<ネット論>というか、ネットについて書かれた文章が現れたので、それについて書きます。

 一つは『ネット帝国主義と日本の敗北』(岸博幸/2010年1月30日/幻冬舎新書)、もうひとつは『インターネット新新世代』(村井純/2010年1月20日/岩波新書)である。

 岸氏は一橋大学を卒業後、通産省(現・経産省)に入省し、2000年から当時の森首相(!)のもとに作られた「IT戦略本部」に従事し、その当時の第1次、第2次インターネットバブルを作り出した張本人。一方、村井純氏はみんなよく知っている、慶應大学SFCの教授でネットのエバンジェリストであります。

 で、この両名が何を言っているかというと。岸氏は、今、インターネットの世界はプラットフォームレイヤー、つまりグーグル、ヤフー、アマゾン、フェイスブックに支配され、これに情報を提供するコンテンツレイヤーの世界、つまり新聞やテレビといった従来の「メディア」企業はまったく儲かっていないという事実であるというように、今のネット社会ではプラットフォームレイヤーの企業だけが儲かって、おまけにそれらの会社はすべてアメリカの会社であるということから、メディアのアメリカ支配が確立されてしまっている、という問題点を挙げる。

 一方、村井氏はことここに及んでも「インターネットの中立性」を言っているのであります。

 確かに、「インターネットは中立」的存在ではあるけれども、それを確立した企業は全部アメリカでしょう、おまけにそれは「インターネット環境がある世界だけでの中立性」でしかないわけであって、いまだにネット環境がない国々は世界中にいっぱいある。それをどうするのか、という視点は村井氏にはない。というよりは、村井氏の視点は「世界中がネット環境になったら」という前提に立っているのだ。現状は、全然世界中がネット環境になんかなっていないわけで、つまり、今の現状は見ていない、ということ。

 まず一つ、岸氏の論点は正しいとしよう。しかし、その結果を招いてしまった原因は自分にあることに対する反省はどこにあるのでしょう。この辺の、「反省のない」人たちがネット社会には多すぎる。反省したんだったら、もうものを言うなよ。反省したことを偉そうに言うなよ。というのが普通の人の感情でしょう。今更、岸氏が何と言ってもネット社会のアメリカ支配は変えることはできないんでしょ。もし、この社会のアメリカ支配を終わらせる方法論があるのならば、その時に発言をすべきである。という意味で、この本は最低の本である。

 次に村井氏の本である。これも最低だね。確かに、このブログだってネット技術のおかげである、ネット技術のおかげで私のような市井の一人間が自分の意見を言えるようなことも可能になった。でも、結局はそんなことも「ごまめの歯ぎしり」でしかない。「ごまめの歯ぎしり」は今までのメディアでもいくらでもあったのである。そんな、「ごまめの歯ぎしり」を集積したって、ロクなメディアにはならないのである。

 そんな、メディアに期待したってねぇ。

 それより、グーテンベルグから以来、メディアが発展する状況の中で、だんだん、発言することとか内容とかが「バカ」になっていっていないか?

 グーテンベルグ以前は、聖書を僧侶が書き写すことでしか、言葉は伝わらなかった。それはそれで確かなものだったんだろう。それが「印刷」で伝わるようになっってから、聖書は普通の人が見るものになった。次に人間は「新聞」を「出版(本)」を考え出した。ここで、人は「バカ」なことを書くことの(読むことの)快感を覚えた。そして次に人間は「電波」を使うことをおぼえた。ラジオとテレビである。この辺から「バカ」化が始まっている。要は、ラジオとテレビは「感じたことをそのまま言っていい」メディアなんだよな。でも、その前に「放送」という倫理の問題がある。

 それが、ネットになって大爆発しちまった。もう、何を言ってもいい。外国人に対する差別発言なんかはあたりまえ。弱者に対する差別も当たり前う。女を犯してもいい。人殺しの予告をしてもいい。

 もはや、まさに「ネットはバカと暇人のもの」というとおりの状況なのだ。

 どうする?

2010年2月14日 (日)

東京散歩カメラ4写真は一回性

 久々の天気に浅草へ散歩カメラ。EPSON RD1s Sumicron 35mm。

 何故浅草へ行ったのか。実は1月に浅草でライカで撮影したものと同じような写真を撮りたかったのだ。その理由は、ちょっと別のところにあるのだけれども・・・。

 静物は問題ない。ほとんど同じ写真が撮れる。というか、すでに1ヵ月経過しているわけだけれども、同じ風景があったことが幸いというべきか。ということで、1か所は幸いOK。

 しかし、人間がいる場面はまったくダメだ。それは仲見世のあるお店の店頭風景なのだが、同じようなアングルで、同じ人を狙っていても、ほとんど同じように撮影をすることはできない。その対象の人は、1ヵ月前と同じ仕事を、同じようにしているのだけれども、でも、同じ動きはしてくれない。こちらも、演技付けをしている訳ではないので、ひたすら同じような動きをしてくれるのを待つだけなのだが、やはりダメ。

 やはり、写真は、というかスナップ写真は一回性のものなのだろう。出会いの「一期一会」というのがスナップ写真のすべてなのだということは分かりきったことなのだが、でも何とかして「同じ」というのは無理なのだろうか。あのときうまくいった「偶然の」一瞬を、同じことを求めることは、もともと無理なのだろうが、それでも「何とか」とおもったのだが、やはり無理。「写真の一回性」というものを思い知らされた。

 まあ、それは理屈としては分かっていたのですがね・・・。

 それにしても、浅草という場所は、とにかく人々でいっぱい。こんなに写真に撮って面白い場所はないだろう。今後とも、浅草には撮影欲がわいてきてたまらない。おまけに、スカイツリーもできるしね。

2010年2月11日 (木)

ランスより別府、新城・・・

『ランス・アームストロング』(マット・ラミィ著/井口耕二訳/2009年7月刊/アメリカンブック&シネマ)を読んだ。

 2009年のランスのツール・ド・フランス復帰の最中に刊行された本である。しかし、幾たびか言われているランスのドーピング疑惑についてさほど触れているものではない。期待したのはそこだったんだけどなあ。1998年、フェスティナ事件という大量ドーピング事件がツールの最中に起きて、それ以来フランスではドーピングについて神経質になっており、そこにフランス人のアングロ・サクソン嫌いが重なって、特にツール・ド・フランスというフランス人の誇りのような大会で7連覇したアメリカ人ということで、特にフランスでは嫌われているのである。

 何事にも「やりすぎ」というところは嫌われるのであろう。特に、「敗者へのいたわり」という騎士道が生きているヨーロッパでは、余りにも強すぎて、プロトンを支配し、なおかつ「敗者へのいたわり」のないアメリカ式のやり方は嫌われる。まるで、どこかの国の「国技」で外国人があまりにも強いと、「ガッツポーズがよくない」とか「品格がない」とか言われて嫌われるようなものである。しかし、自国に強いプレイヤーがいなくて、その外国人の人気に頼るしかない状況の中で、「品格」もないだろう。「強けりゃいい」という発想でそのプレイヤーを雇ったのであるから、最後までその姿勢を貫くべきであり、ある時突然に「品格」を持ち出すなんてルール違反である。それまでの「弱い」プレーヤーばっかりの頃には「八百長」が跋扈し、その「八百長」だって「スポーツではない、国技だ」といってごまかしてきた国である。

 と、話がズレてきた。ランス・アームストロングのことである。要は「強けりゃ大丈夫」というアメリカ式の考え方はヨーロッパではなかなか通用しないということなのだろう。まるで、現在のネット社会のようなアメリカひとり勝ちといった構図は、アメリカでは許されるがヨーロッパではね。おまけにランスはアングロ・サクソンである。これがグレッグ・レモンというフランス系の選手だったらどうなのだろう。ランスほどには嫌われなかったのではないだろうか。

 しかし、一方でランスの出ないツールはどこか中心のないレースであり、ツール以外の各レースでは、主催者からランスに出走料が支払われたのである。つまり、「ランスがでる」というだけで観客は集まり、TV放映権料も上がり、それだけ各主催者にとってランスは大事な存在なのだ。ということもフランス人の「妬み」のネタになっているのだろう。特に、最近はフランス人ライダーでスターがいないからなおさらだ。

 昨年はアルベルト・コンタドールというランスの同僚が優勝し、ランスは3位に終わった。それは良かったのだろうか。ランスにしてみれば、やはり自分がチームの中心(エース)でなければおさまらないらしく、昨年のツール後の会見でコンタドールとの不仲について触れており、そのコンタドールとの確執はいまだに尾をひいているのだ。ウーム、そこまでやっちゃいけなんじゃないか。以前7連覇したといっても、それはあくまでも以前の話であり、昨年のエースはあくまでもコンタドールだったはずである。

 ま、今年は別のチームになったし、今年のレディオ・シャックは完全にランス中心のチームである。その辺は安心できるであろう。しかし、またフランスでは嫌がらせをされるんであろうな。

 まあ、そんなことはどうでもいい。むしろ我々の関心は、レディオ・シャックに加入した別府史之はツールに出られるのだろうか、ブイグ・テレコムの新城幸也はどうなるのだろう、ということである。初期ステージで大活躍した新城と最終ステージで敢闘賞を獲得した別府。はたして彼らが今年のツールに出られるか? ということの方が気になる。いやあ、我々日本人もようやくアメリカ人の人気に頼らずになって良かった良かった。

 ということで、私も自転車に載らなきゃ。もう、2か月もまったく乗ってないもんな。

2010年2月 7日 (日)

ダッチワイフに愛はあるのか?

 前から気になっていた映画『空気人形』(是枝裕和監督・脚本/2009年)を観た(目黒シネマ)。公開規模が小さいので、東京で見られたのは久々ではないだろうか。

 まあ、細かいところでこれはファンタジーの方向へ行こうとするのか、リアルな方向へ行こうとするのか、というところがよくわからない話なのだが、基本的には「空気人形=ダッチワイフ(ラブ・ドールって言うのかな)が心を持ってしまった」という大ウソなので、まずはファンタジーだということで納得するべきなのだろう。

 しかし、毎日テレビでニュースを見ては、それが自分のことではないかと交番に駆け込む老女や、過食症かつ「片づけられない女」だったり、メイド姿のフィギュアの下半身アップ画像を自分で撮影してその映像を見ながらオナニーする男やら、そして、一番は「主人公=空気人形」のオーナーであり、しかし空気人形が出て行ってしまってからは、即、次の空気人形を買って、まるで生きている人のように扱いながら、毎日、上司に叱られながらも、いつもニコニコしている宇宙オタクの中年の男(板尾創路)が実にリアルに描かれているじゃないか。この辺は、「ファンタジーの中のリアル」じゃなくて、リアリズムの映画の演出なのである。

 しかし、基本的には「ダッチワイフが心を持つと」というあり得ない話であるし、突然心を持ってしまったダッチワイフが、ビデオショップに勤めたり(ビデオショップって、身分を確かめないで雇っちゃうの?)、美容院に行ってダッチワイフならではのビニールのつなぎ目を化粧で隠してもらったり、いろいろ洋服を買ったりしているが(お金はどうしたの?)、というようなことは「大事の前の小事」、要は「大ウソ」をどうやってつくかということである。まあ、映画は基本的に「ウソ」なんだけどね。

 そして、最後の「大ウソ」がこれ。空気人形がビデオショップで手を傷つけてしまい空気が抜けてしまう。それを見ていたビデオショップの男性店員が、そのことには全く驚かず、セロテープ(!)で傷口をふさぐと、主人公が恥ずかしがることも気にせずに、おへその空気穴から空気を吹き込む。その時、主人公が感じた「快感」。

 その後、持ち主の家をでた主人公はビデオショップの店員のところに転がりこむのだが、「なんでもしていいよ」という主人公に、店員は「空気を抜かせて」とお願いする。つまり、いままでの日本映画(外国映画も?)になかった、歴史上初のセックスシーン、ダッチワイフの空気を抜いたり入れたりというセックスシーンが登場したのである。まあ、「入れたり出したり」という点では同じだが、入れるものが違う。・・・が、これがなかなかエロチックである。なるほど、こうした「性」の見せ方もあるのだな、というのが是枝監督に感心した点である。

 だとするならば、「空気を抜いたり入れたりすれば気持ちいい」ことを知ってしまった空気人形が、楽しみで店員の腹を切ってしまい、店員を殺してしまった後、ゴミ捨て場に自らの体を横たえるところから後は映画としてはいらないんじゃないか。

 要は、前述の「リアリズムの映画の演出」についての決着はいらないのである。その辺、いい加減にうっちゃっちゃうのがファンタジーの礼儀じゃないだろうか。

 唯一、リアルな終了語は「君たち(空気人形)は燃えないゴミなんだよ。僕たち(人間)は燃えるゴミだけどね。」という、オダギリ・ジョーの台詞。

 そうなんだよ、我々人間だって、死んじまえば「ゴミ」なんだよな。

 

2010年2月 5日 (金)

重箱の隅をつついたら・・・こんなん出てきました

 前回「重箱の隅をつつく」(1/13)で書いたことの続報です。詳しくは、取り敢えず1/13付けのブログを読んでください。

 その裁判の「被告(絲山秋子氏と文藝春秋社)準備書面1」と「被告準備書面2」及び「原告(荒井晴彦氏と日本シナリオ作家協会)準備書面(1)」が『シナリオ誌』3月号に載っている。

 まあ、それを読む限りは、1/13に書いたとおり「原作使用契約は文藝春秋社とステューディオスリーで契約したものだから、原告は本件訴訟の当事者じゃない」という点と、「脚本の出版は映画の二次利用に特に決められているわけではなくて、それだけを指摘して二次利用を一部的に拒否したものではない」という点が文藝春秋と絲山秋子側の主張のようだ。

 しかし、これは絲山氏側としては、あまりにも弱い主張だろう。原作使用契約は文藝春秋とステューディオスリーとの契約であるから、原告は当事者じゃない、というのは理屈としては分かるが、それだけのこと。ステューディオスリーから依頼を受けて脚本を執筆した荒井氏は、その著作物の出版を原作者によって拒否された、という事実でもって、表現の自由を原作者によって侵されたという抗弁が出来る筈だ。また、二次利用の範囲についても、何度も絲山氏あてにその掲載の方法論を提案したシナリオ作家協会の方に分があるといえるだろう。

 ここは、訴訟金額も1円しかないのだから、絲山氏は妥協してすべて認めてごめんなさいした方が良いと思うのだけれども、ことは文藝春秋まで巻き込んだしなあ、というところでしょうか。絲山氏は、仮に(本当に仮に)勝ったとしても、何の得にもならない裁判です。ま、荒井氏も別に得にはならないけどね。

 まあ、だからはたから見ている分には面白いんだけども、そろそろ口頭弁論も本当に「口頭弁論」になりそうな雰囲気だし、一度、裁判所に行ってみるのも面白いんじゃないでしょうか。

 次回は2月24日、13時30分より、東京地裁721法廷でやります。

 

 

2010年2月 4日 (木)

戦争の実相にどれだけ近づけるか?

「歴史に学ぶ」という言葉がある。かつての歴史を学んで、同じような過ちを犯さないようにする、という意味であろう。

 しかし、そのようにして学んだ歴史も、結局はその体験してきた人によって異なる歴史となり、それら多くの異なる人にとっての歴史の中から、何を選んで「今」選択しようとするのかによって、新たな歴史が生まれる。その結果、その歴史は反省の多い歴史になってしまうのか、あるいは実りの多い歴史になるのか、それはわからない。アメリカの歴史家、アーネスト・メイによる三つの命題によれば・・・

①外交政策の形成者は、歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じているものの影響をよく受けるということ。

②政策形成者は通常、歴史を誤用するということ。

③政策形成者は、そのつもりになれば、歴史を選択して用いることができる。

 ということだそうである。

 結果、ベトナム戦争はそうした歴史の誤用の代名詞になってしまったし、イラクやアフガニスタンでの戦いも、そうした部分に踏み込んでいる。それは何故なのか?

 テキストは『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著/2009年7月/朝日出版社)である。12月20日で11版なので売れているのだろう。

 神奈川の栄光学園という中高生向けの講義をそのまま本にしたものなので、若干話は前後しながらではあるものの、論文などよりはわかりやすい言葉で書かれている。序章の「日本近現代史を考える」という総論的な部分を除けば、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変と日中戦争、太平洋戦争という日本がこれまで行ってきた戦争についての講義録である。第二次世界大戦後の戦争。朝鮮戦争やベトナム戦争、イラン・イラク戦争、アフガニスタン問題などへの日本の関わり方、についての記述がないのがちょっと残念であるが、まあ、日本が主体的に関わってきた戦争という意味では、適切なものなのだろうが。後2者には日本も出兵しているのだから、気にはなるが。

 主に戦争指導者たちが戦争にどのように関わってきたのかについて、史料を駆使しての講義で、なかなかに興味はあるのだが、やはり大いなる興味を持って読んだのは「第4章 満州事変と日中戦争」と「第5章 太平洋戦争」であろう。それまでの日清・日露・第一次大戦は基本的には日本は勝ち戦だったわけで、それまでなんとなく「それいけドンドン」でやってきた日本が初めて負けて「無条件降伏」をせざるを得なかったのだから。この本も、はじめの3章までは言ってみればこの第4章、第5章のためのプロローグである。さらに、第3章までは「地政学」がなくて、現在、戦争を考える際にもっとも援用されるこの学問的見地がないのが不満に思いながら読む進んでいたが、第5章になってやっと地政学的な見方が入ってくる。

「ドイツの国防軍などは日本軍を馬鹿にしていました。第一次世界大戦で総力戦の血の洗礼を受けてこなかったわけですので。けれども、その態度を劇的に変える。日本は、やはり地政学的に見てソ連に対する天然の要害(要塞)だったからです。~ここで大事なのは、ドイツが中国を捨てたことです。~日独の接近は中国とソ連の接近をもたらす。その裏面には、共産主義をどうするかというイデオロギーと地政学があった。持久戦争を本当のところで戦えない国であるドイツと日本であるからこそ、」アジアとヨーロッパの二ヵ所からソ連を同時に牽制しようと考える。アジアの戦争である日中戦争が第二次世界大戦の一部になってゆくのは、このような地政学があったからです。」

 という具合に、ここの部分だけ「地政学」が出てくる。たしかに、地政学は「戦争をするための学問」だから、それを使って戦争を語ることはいけないことなのかもしれないが、地政学を使うと戦争の力関係がすぐにわかるようになるのも事実である。まあ、中高生向けの講義ということなので、地政学を用いなかったのかな。

 ともあれ、資源もない、食料も少ない、工業力も枯渇することは見えている、それでも、日本人は「戦争」を選んだのかがよくわかる本である。

 それでも反省をしない、日本人。

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