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2012年1月31日 (火)

『チーズは探すな!』はダメ本の典型ですな

「世界2400万部ベストセラーに異議あり!」という腰巻が巻かれた本書は、基本的には『チーズはどこへ消えた?』への返書という体裁になっている訳なのであるが。

『チーズは探すな!』(ディーパック・マルホトラ著/佐藤志緒訳/ディスカバー・トゥエンティワン/2011年11月15日刊)

 原題は『チーズはどこへ消えた?=Who moved my cheese?」に対して「チーズは探すな=I moved your cheese.」である。つまり、"Who moved my cheese?"では人にチーズを持っていかれちゃった人たちの受動的な立場、対して、"I moved your cheese."ではチーズを持っていっちゃった人たちの能動的な立場を表している。

 たしかに、『チーズはどこへ消えた?』が経営者によって沢山買われて従業員に配布されたというのはよくわかる。つまり、「チーズを持っていっちゃう」経営者の立場から、「チーズを持っていかれちゃった」従業員に対して「いつまでもチーズがあると思うなよ。そんな変化に対応しろ」という脅しにも似た警告を、経営者はしたんだろうな。しかし、その警告は結局は従業員に対して、「解雇されることも、変化として受け容れろ」ということでしかないという、トンデモ本だったわけですね。

 じゃあ今回の"I moved your cheese."はそんなトンデモ本に解決を与えるのかというと、実は全然答えになっていないのだ。つまり、それは「お前らチーズを勝手に持ってかれちゃう立場にならないで、自分でチーズを持っていっちゃう立場になりなさい」と言っているだけにすぎないのだ。つまり、それは「勝者の論理」ということでしかない。確かに、ハーバードビジネススクールならそんな教え方もいいかも知れない。基本的には経営者及び経営スタッフになるための学校だからね。

 しかし、ごく一般のサラリーマンが、基本的に"I moved your chees."になることはないだろうから、そんなことを教えても意味はない。

 マルホトラ氏にとっては、ハーバードビジネススクールで教えるのには、やはり"Who moved my cheese?"ではなく、"I moved your cheese."を教えたいのだろうけれども、それを一般の人に出版する意味ってあるんだろうか?

 基本的にこの本を買って読む人の大半は『チーズはどこへ消えた?』の読者であろう。つまり「社蓄」って訳で、それでもどこか這い上がりたくて、経営者に近いところに行きたいと考えている人たちだろう。そう、会社の変化にi一生懸命ついていきたいという。でも、本書はそんな読者に対して「貴方の立場でこの本を読んでも意味はないのだよ」ということを言っているにすぎない。所詮、サラリーマンはサラリーマン、社蓄は社蓄なのである。勿論、そのホンの一部の人たちは「経営」に近いところにいけるけれども、でも大半は負け犬サラリーマンで終わるのだ。そんな「負け犬サラリーマン」に"I moved your cheese."を読ませて何の意味があるのだろうか。

 アメリカのサラリーマンだって、大半は「負け犬」である。大半は役員にまで上がれなくて、年金を受け取れる年齢になるとサラリーマンを辞める人たちばっかりだ。そんな人たちにとっては"I moved your cheese."という瞬間は有り得ない。といって、"Who moved my cheese?"という経験はいっぱいあっただろう。このまま行けば部長になれる、役員になれるという思いで"Who moved my cheese?"を乗り越えてきた人たちが、しかし夢破れて社蓄になっていくのだ。

 つまり、この本は殆どの人にとっては「役に立たない本」である。『チーズはどこに消えた?』を買って読んで、その気になった人たちが、今でも"I moved your cheese."という立場になっていなかったならば、読む意味はない。

 そんなクダラナイ本なのである。まあ、『チーズはどこへ消えた?』が売れたので、今度は『チースは探すな!』なら売れるかもと考えたなら、そんな編集者の判断を疑う。

『チーズはどこへ消えた?』が売れたんで、今回は『チーズは探すな!』という発想であれば、それはダメ。"Who moved my cheese?"が売れたんで、今回は"I moved your cheese."なんだったら、もっとダメ。もう編集者やめたらっていうくらいのダメ本です。

 だって、これって成功者だけの話でしょ。それを一般化するということだけでもダメだっていうのに、それを『チーズはどこに消えた?』と同じだけ売れると思ってしまったら、編集者のマーケティングがだめってところですね。

 編集の人が自分で考えた企画なの、ってとこまで疑っちゃうね。

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自分のアタマで考えるっていうのはこういうことですよ。

Fujifilm X10 @お台場 (c)tsunoken

 

 

2012年1月30日 (月)

王子 さくら新道

 JR京浜東北線の王子駅と飛鳥山公園の間の狭い空間に長屋状の飲み屋街がある。「さくら新道」という名前がついたその長屋が火事になったのは1月21日の早朝のことだった。

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 激しく燃え上がるその炎は京浜東北線の架線にまで燃え移り、結果、京浜東北線は午前中いっぱい不通になってしまった。その現場を見てきた。

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 火事から一週間過ぎているが、現場はまだまったく片付いていない状態で、とりあえず足の踏み場もない状態である。

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 線路側から見るとトタンの家に見えるが、しかし木造家屋だけに完全に焼け落ちてしまっている。三棟あるうちの上中里側の二棟は完全に焼けているが、王子駅側の一棟だけは類焼を免れて、無事だったのは良かったが、上中里側の二棟は完璧に家の中まで真っ黒になってしまっていた。怪我人や焼死者がいなかったことは幸いだが、果たしてこの飲み屋街は復活するのだろうか。

 私は一度も行ったことがくなく、いつも電車で前を通るたびに、一度行きたいなあと考えていただけに、返すがえすも残念でならない。

 もし、復活したら一度行ってみよう。

EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 @王子 (c)tsunoken

2012年1月29日 (日)

情報の呼吸法

 要はソーシャルメディア(Twitter)の使い方に関する提案なのだけれもど、つまり、情報はインプットだけじゃなくて、アウトプットもしなけりゃ意味がない、ということなんだよな。

『情報の呼吸法』(津田大介著/朝日出版社ideaink/2012年1月15日刊)

 Chikirinさんじゃないけれども『自分のアタマで考えよう』ということなのだ。Twitterでもいい、Facebookでもいい、もちろん2ちゃんねるだっていいんだけれども、そういったソーシャルメディアから受けた情報を、そのまま自分のもとにおいておくだけじゃなくて、そこから自分が何かを感じたのか、何か変化があったのかといったことを自ら発信しようよってことなのだ。

 情報をインプットするだけでは、情報の流通はそこで終わってしまう。そうじゃなくて、そこでまたアウトプットする回路があれば、そこから情報の回路は再び繋がるのだ。ということで、ソーシャルキャピタル(人間関係資本)という考え方が出てくる。

 ただし、ソーシャルキャピタルという考え方は、以前から「社会資本」という言葉で日本語訳もされているとおり、経済学用語として通用しておりインフラストラクチャとして知られている用語なのであるが、それとの混同はしないように、とも思うのだが、経済学用語としての「社会資本」も結局は社会学用語としての「社会資本」というどこかつかみどろのない雰囲気用語である、インターネット用語としてのソーシャルキャピタルに統合されてしまうのかも知れない。

 まあ、津田氏の場合はTwitterになるのかもしれないが、そうしたソンーシャルネットワークを通じた人間関係の繋がりを、うまくリアルな繋がりにもっていって、なにか有意義なこととか、何か新しいこととか、をやろうよということなのだろう。

 つまりそれは、昔は住んでいる場所が近いからとか、仕事をしている場所が同じだからという理由で繋がっていた人間同士のコミュニティが、今はネットを通じた人間関係にもっていこうということなのだろう。

 結局、人間というのは「つながり」がほしい生き物なのだろうな。そうして繋がった人間の絆でもって世の中は動いていくというのか。って、それは東日本大震災のお涙頂戴のストーリーじゃないかよ。

 それはそれとして、3.11は尊い経験として東日本では受け止めなければならないし、そのなかでTwitterで繋がったコミュニティがあるのであれば、それはそれで重要視しなかればならないだろう。

 しかし、そんなソーシャルな繋がりは私はあまり信用できない。結局、何か大きな問題があった時には、その人たちは逃げちゃうんでしょ。逃げずに残った人たちがいて、そこで新たなコミュニティができればいいのだけれども、そうじゃなくては意味はない。問題はソーシャルで繋がった人たちがリアルの世界でも繋がっていけるのか、ということなのだ。結局はそこだけ、人間と人間の繋がりというのは実際の人間同士の知り合いでしかないわけで、それはバーチャルな繋がりではありえなんだよな。

 そんな「バーチャルからリアルへ」という人間の繋がりを作っていけるのかが、津田氏の問題なのだろうな。

 結局「金が動く」「人が動く」というのはリアルな世界でのことなのだからね。

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 これが、リアル最高の世界ですよ。カメラはデジタルですが。つまりは、カメラヲタク(だけの)の大問題(というだけのこと)。フィルムももうコダックは作らないしねえ。

EPSON RD1s Summicron 35mm/F2.0 (c)tsunoken

2012年1月28日 (土)

『RIDEX』が描くのはオヤジの夢なんだよな

 結局、バイク物のコミックをみると『バリバリ伝説』に戻ってしまうのだな。

『RIDEX 5』(東本昌平著/モーターマガジン社/2011年9月15日刊)

 この第5巻に掲載されているバイクは以下の通り。

RIDE 41 STRUGGLES : DUCATI 900MHR

RIDE 42 RUN THE LIFE : カワサキ GPZ900R

RIDE 43 COOLY FLASH : スズキ GS1000S

RIDE 44 A SPRING BULB : ホンダ CB1300 SUPER FOUR

RIDE 45 TAKE A VOYAGE : 陸王 RQ

RIDE 46 MR.GREEN TIME : カワサキ Z1000R KERKER

RIDE 47 SPRING BE : ヤマハ SRX600

RIDE 48 TURBOOO UP : カワサキ 750TURBO

RIDE 49 GOOD MORNING : ヤマハ YZF-R1

RIDE 50 AROUND THE MENU :  ホンダ CB1100R

 それぞれ、名車とか癖車といわれていた車ばっかりだ。陸王があるんだから、この1巻から4巻の間にはメグロなんかもあったのだろうな。これは全部読んでみないといけないな、という気分になってくる。即、Amazonで注文か? 

 しかし、こうしてバイク物のコミックを読んでみると、結局出てくるキャラクターはみな40~50代のオヤジばっかりだ。

 昔『バリバリ伝説』のアニメーションを作っているときに、ホンダにいって協力を申し出たときのことを思い出す。『バリバリ伝説』の原作はスズキGSX400がホンダCBR400を破って鈴鹿4時間耐久レースで優勝する話なんだけれども、当然コミックの連載時とアニメの制作時では時間が異なっており、この年はホンダが巻き返しを狙ってVFR400というニューマシンを引っさげて鈴鹿4時間耐久レースに出場する予定だった。で、ホンダに協力を申し出た際に、ホンダ側から出た提案が「VFR400が勝つというストーリーに変えられないか」というものであった。ホンダ側としては当然である。しかし、我々は原作の設定を変えることには抵抗があり、それはダメという条件を持ち出して、その結果ホンダが協力を降りてもしょうがないと考えていたのだが、それをものともせず、ホンダ側は協力に乗ってくれたのだった。いやあ、この懐の深さには私達アニメ制作スタッフはまいりましたね。要は、ホンダとしてはホンダ車が勝つかどうかよりも、バイク文化を進歩させるほうが正しい文化の進歩になる、というスタンスに立ってくれたのだ。当然、ホンダが協力したのでホンダ車が勝つというストーリーになってしまえば、ああホンダってのはそういう会社なのね、という判断を『バリバリ伝説』読者は持つだろうな、という考え方もあったのだろう。まあ、これはホンダの英断ということだろう。

 で、結局その年に優勝したのは「予定通り」ホンダVFR400であり、それだけ当時はノービスクラス(アマチュアの初心者クラス)であっても、4時間耐久レースなんて大レースになってしまうと、ワークスの手が入ったすごいレースになっていたのであったことがよく分かる。

 そんな『バリバリ伝説』から25年過ぎて、しかし、今でもバイクに乗っているのは、そんな時代のライダーのままなのかよ、という気分になる。結局、『RIDEX』でいまでもバイクにのっているのは、そんな昔の『バリバリ伝説』世代のままなのだった。

 え? いいのか若い世代よ。バイクは若者のホビーじゃないのか? 4輪なんてのはオヤジにまかせて、若者はバイクじゃないのか、ブァイクじゃあ。

 なんてことを言っても、今の若者は何の反応もしないのだろうな。「そんな刹那的な楽しみに何の意味があるんだよ」ってなもんでしょうね。しかし、若い時期には「そんな刹那的な楽しみ」が一番似合うんだけれどもなあ。若いときから先のことを考えても意味はないでしょう。という言い方も、既にして年寄りの繰言なのか………。

 嗚呼。

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こういうバイク屋さんもあるにはあるんですがね。

EPSON RD1s Elmarit 28mm/F2.8 @高円寺 (c)tsunoken

2012年1月27日 (金)

『ロボジー』はロボットと女の子のラブストーリーなのだ

 自律式人型二足歩行ロボットというのがモチーフなんだけれども。それ自体は面白い設定だが、実際にはそんなロボットは現実的ではないのだ。

『ロボジー』(矢口史靖監督・脚本/アルタミラピクチャーズ/2012年1月14日公開)

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予告編はコチラ→ http://www.robo-g.jp/trailers/

 つまり、ロボットは基本的には「単機能」のものほうが現実的だし、実用的でもある。映画でも出てきたけれども、日産の工場で自動車を汲み立ってていた産業ロボットが実はロボットの一番の姿なのだ。

 所詮、ロボットというものは「機械」でしかない。機械である以上は、その目的の作業に一番適した姿・形をしているものだし、そのほうが能率的である。それを「人型多機能」ロボットを作ってしまうと、それこそ人間のいろいろな不都合をロボットでありながら受け継いでしまう、とても中途半端な「機械」になってしまうのだ。

 したがって、ガンダム以降の人型多機能ロボットというのは、兵器としても中途半端、その他の作業ロボットとしても中途半端という存在でしかない。闘うための機械であれば、闘うことに特化してそんなスタイルにすればいいわけで、そのための空中戦用ロボットであれば、今の戦闘機と同じようなスタイルになるだろうし、陸戦用であれば戦車のようになるだろうし、海戦用であれば潜水艦みたいな格好になるだろう。つまり、それぞれの兵器が実は、すでに結構ロボット化しているのも事実であるけれども。

 人は、それを目的に分けて使えばいいのである。機械というものはそういうものである。誰も、道を走っている自動車でもって空を飛ぼうとは思わないし、海上に浮かべようとも思わない。

 それが何故、人は人型ロボットとか、人型多機能ロボットを作ろうとするのだろか。「人は自らの姿に似せ、人形を作る」という球体関節人形の世界に近いものがあるのだろうか。だとすると、結構これは妖しい雰囲気になってくる。というのも球体関節人形の世界というのはかなり倒錯した世界であり、まあ美少女偏愛の世界ではあるのだから。

 ロボットがそんな世界にまで行くのはまだまだ先の問題だろうけれども、でも、いまやこんな人型ロボットに「ロボット萌え」する女の子が出てくることも分からないではない。ホンダのASHIMOなんかはそれはそれで、結構可愛く見えてしまうけれどもね。しかし、球体関節人形は完全に男の偏愛する世界なのだ。ロボットに関してはまだ男女の問題ではなく、女の子が惚れるロボットなんてのもいるのだろうか。

 まあ、それが爺いだったっていうのがこの映画のオチであり、女の子がこのロボット(も一応は作っていることになっている)企業に就職する理由なんだけれども、じゃあ本当にこの女の子(吉高由里子)はロボットに萌えているのだろうか、ということが気になる。

 男が人形やロボットに恋するのは理解している。まあ、基本的に男ってのは自分以外の動物には誰でも恋してしまうどうしようもない生き物であって、下手をすれば木の又をみて勃起するような馬鹿もいるし、人間以外の動物ともセックスしてしまう大馬鹿者もいたりしちゃうのだ。

 そんな、男的な分野にまで、最近は女も入ってきてしまい。その結果として「女の子のロボット萌え」という映画テーマになったわけですね。

「女はロボットに恋するか」というのが、この映画の基本テーマであるのだ。

 恋しているのだろうな、この子は。

 

2012年1月26日 (木)

『タブーの正体!』だけじゃなくて、メディア評論をしたいんでしょうが

『噂の真相』の元副編集長による書である。しかし、その正直なところがいいね。

『タブーの正体! マスコミが「あのこと」に触れない理由』(川端幹人著/ちくま新書/2012年1月10日刊)

『噂の真相』時代からのいろいろなタブーに触れた取材や報道記事に関しての発言なのだけれども、その構造を見ると『タブーはさまざまな要素が複雑に絡み合ってつくられるものではあるが、つきつめれば、最後は暴力、権力、経済のうちのどれかに対する恐怖にいきつく。』ということなのだろう。事実、私自身がそういった(小さいけれども)メディア企業にいるということも含めて、自戒の念を持って読んだわけなのだが。

 しかし、本書に書かれていることは実際に『噂の真相』をオンタイムで読んでいた私にとっては「ああ、そんなこともあったなあ」というだけのことにすぎないのであって、特別目新しいことは載っていない。それは、すこし残念。

 しかし、一番いいのは「あとがき」である。右翼による『噂の真相』襲撃事件のときの筆者の態度。つまり「へっぴり腰」である。筆者は『そう。あの「へっぴり腰」は私のジャーナリストとしての姿勢そのものなのだ。『噂の真相』編集者としての使命感からタブーに踏み込んではきたが、本当はそこから逃げ出したくてしょうがない。口では「圧力には屈しない」「言論の自由を死守する」と強気の言葉を並べていても、内心はトラブルがこわくてこわくてたまらない。』と書く正直さである。

 つまり、『噂の真相』読者であった私にとっては、別にそこで仕事をしていた記者・編集者も私達とかわらない人たちだったのだなということと、もうひとつは、基本的に『噂の真相』も『週刊現代』も持ってるタブーはたいして変わらないのだなということである。問題は、そのタブーをどうやって誌面に出すかということ。

 それよりどうより、講談社の社員に対する取材で得た話が気になる。

『つい最近、講談社でファッション雑誌の編集をしている若手社員数人と話す機会があり、ついでに週刊誌ジャーナリズムについての感想を聞いてみたのだが、彼らは真顔で「どうして会社が『週刊現代』や『フライデー』みたいな雑誌を出しているのかサッパリわからないという台詞を口にしていた。』

 ということなのだが、そんなのは簡単。そんなことを言っているやつを『週刊現代』『フライデー』に異動しちゃえばいいのだ。多分、そこにいくとやつらの言い方は180度変わって、「ぜったいにスキャンダリズム・ジャーナリズムが必要だ」とか何とか言うんだろうな。そんな、「会社の事情」を分からないのが、若手社員なのだからしょうがない。まあ、まだ会社の事情ってものを分かっていないのでしょうね。

 私も、昔、田原俊彦(別に私のキャスティングじゃなかんたんだけれども)主演の映画を作る際には、『週刊現代』『フライデー』には「田原俊彦のスキャンダルには触らないででね」というお願いをして、逆に『フライデー』からはパブ記事まで勝手に作っていただいてしまったことがあった。まあ、つまり社内のタブーなんてのはそんなもの。どうにでもなるのだ。

 問題はそうじゃなくて、マスコミ(新聞、テレビ、週刊誌)におけるタブーが、今後更に強化されてしまうのじゃないかということに対する危惧なのであるけれども、私はそんなに危惧してはいないのだ。

 結局、現政権の恥部はどんなメディアであろうが、どこかのメディアが絶対に暴くだろうし、その方法論はいかなる時代においてもあったのだ、ということ。

 メディアに対するタブー攻撃やその他の暴力・権力・経済による攻撃は、多分今のようなメディア状況でない時代にもあっただろう。それこそ、ギリシア、ローマの時代にもあったはずだ。特にローマ時代なんてのは「建前上は民主主義」だったわけなのであるから、それはそれスキャンダル情報なんてのはいっぱいあったわけだがメディアはなかった。しかし、マスメディアはなかったけれども、「個人―個人」のメディアはあったわけで、当時はそんな状況を拡大して「ポリス・メディア」ポリスの広場をメディアとしてそこにいる人(奴隷を抱えた暇なローマ人=民主主義の人)に伝えたわけだ。

 つまり、昔から権力者=自らのいろいろなことを知られたくない=タブーと、それを暴きたい庶民の立場ってのはあったわけで、その辺の関係論はかわらないだろう。

 川端氏が憂慮するほどには、タブーに挑むジャーナリストは減らないと考えます。ただし、そんなジャーナリストが自分の言論・取材結果を発表する場所の問題ですね。それこそ、ネットでもいいのです。その、ネット言論を如何にリアルに持っていくのかを考えるべきでしょう。

 その先には何か解決策があるはずだ。しかし、そこにも問題が生じて、また先に………。と言う事なのでしょう。

2012年1月25日 (水)

『ニッポンのサイズ』だけじゃない、こんなことも

『ニッポンのサイズ 身体ではかる尺貫法』(石川英輔著/講談社文庫/2012年1月17日刊)

 しかし、さすがに「江戸文化研究家」で「江戸時代はエコロジー」を提唱する石川氏であるだけに、その度量衡に対する興味も、江戸までの日本文化を大事にしようという発想から書かれているのだ。

 例えば、本書の構成も;

第一章 一メートルとは?

第二章 二〇〇〇年前に決まった曲尺

第三章 鯨尺の歴史

第四章 一升という量

第五章 米一石という量

第六章 銭と泉と匁

第七章 重さをはかる

第八章 手拭いの幅

第九章 畳という単位

第一〇章 一坪という面積

第十一章 一里という距離

 まではこれまでの日本人が自らの体の大きさなどから作ってきた尺貫法と、世界中で通用するメートル法との比較が行われているのであるが、ここから少しずつ変わってくる。

第十二章 風呂敷の規格

第十三章 一町歩と一ヘクタール

第十四章 さまざまな一斤

第十五章 一刻という時間

第十六章 一ヵ月とは?

第十七章 一年とは?

 ときて最後の章にいたって、

第十八章 伝統と生きる

 として、『精密さという点では、「ニッポンのサイズ」や旧暦はとてもメートル法やグレゴリオ暦にかなわないが、何でも精密でありさえすればいいのではない。メートル法とグレゴリオ暦以外の世界にも、案外面白い世界が広がっているのだ。』と結論付けるのである。

 そのためには;

『風呂敷には大きな長所が二つある。

 第一は、同じ風呂敷を長期間使えるため、無駄のない省資源型という点だ。

 第二は、風呂敷でものを包む習慣をつければ、手と同時に頭を使うようになる。

 袋に放り込むのと違って、いちいち包み方を考えるし、複雑な形のものなら、そのたびに工夫しなくてはならない。人間は、できるだけ身をもって経験することが大切なのだ。手を使わなければ、人間は次第に退化していくだろう。

 古い伝統的な方法の短所ばかり見つけるのはほどほどにして、古いやりかたにも長所があったことを思い出してもいい頃ではなかろうか。』(第十二章)

 として、古いものの良さを強調したり;

『日付と季節が最大で一ヵ月もずれるのは、旧暦の欠点といえば欠点だが、考えようによっては長所でもある。たとえば、旧暦三月三日は、平成一一年(1999)がグレゴリオ暦四月一八日、一二年が四月七日、一三年が三月二七日、一四年が四月一五日、一五年が四月四日、一六年が四月二一日というように、このわずかな期間でも最大二五日のずれがある。

 三月二七日なら、南関東ではまだソメイヨシノが咲くか咲かないかの季節だが、四月二一日「なら、ヤマザクラも咲いて散っている。この頃が三月三日なら、もっと北の国でも自然に咲いた桃や桜の下で雛祭りができる。つまり、旧暦を使えば、日本全国の広い範囲で、何年かに一度は本当の桃の季節に桃の節句を祝えるのだ。

    <中略>

 三月三日は、一ヵ月ずれても大した影響はないが、グレゴリオ暦ともっとも相性が悪いのが七月七日の七夕だ。この頃は梅雨の最中で晴れる日は四年に一度ぐらいしかない。ところが、旧暦七月七日は、平成一一年がグレゴリオ暦八月一七日、一二年が八月六日、一三年が八月二五日、一四年が八月一五日、一五年が八月四日という具合に、台風が来なければあまり雨が降らない季節だから、空を見上げるのにふさわしい。』(第十七章)

 と旧暦の、日本の季節に相応しい使い方を提案する。

 いずれにせよ、度量衡はまだメートル法で端数は出るけれども対照法は作れるが、グレゴリオ暦になってしまうと、その対照法はせいぜい旧正月くらいで、ほとんど旧暦を顧みることはなく、季節感のない季節ばかりになってしまうのだ。最近の日本は季節感がないといわれているけれども、それの理由の一つはこうした「グレゴリオ暦と旧暦の対比」表のない季節の表し方があるのではないだろうか。1月~3月が春、4月~6月が夏、7月~9月が秋、10月~12月が冬という、俳句の四季はグレゴリオ暦ではまったく季節感がないが、旧暦だと実に腑に落ちるのである。『赤穂義士の討ち入りは、元禄一五年一二月一四日の大雪の日だった。グレゴリオ暦一二月一四日では、よほどの天変地異でも起きない限り東京に大雪が降ることはないが、この日は、グレゴリオ暦では一月三〇日に相当する。』ということである。

 そんなところから、石川氏はマスコミに提案する;

『度量衡に関しては、計量法という法律があるためできることは限られているが、法律には関係がなく、個人的あるいはジャーナリズムの編集者やテレビのディレクターさえその気になればすぐにでもできるのは、旧暦をつかうことだ。

 旧暦の使いかたには二種類ある。

 ①節句などを旧暦で祝う。

 ②歴史上の有名な事件のあった旧暦の日付に相当するグレゴリオ暦の日付を使う。』(第十八章)

 ということだ。

 こんなことなら、すぐにできそうだ。別に、法律を改正せよとか言っているわけではなくて、われわれの方の考え方だけの問題であるからね。ついでに、旧正月も中国人みたいにやりたいな。

 しかし、世界中に広まってると思われているメートル法なのであるが、実はアメリカとイギリスはいまだにヤード・ポンド法なのである。まあ、これなんかは「自分たちの常識が世界の常識だと思っている英米人の、世界的な非常識」に過ぎないのだが、車に乗っているとこの「常識の違い」が結構面倒くさい。それまでヨーロッパ車や日本車に乗っていた人が、アメリカやイギリスの車に乗ると、使う工具がまったく違ってしまうのだ。ミリゲージの工具とインチゲージの工具という具合。そこでヨーロッパ車に乗っている人はずっとヨーロッパ車に乗り続けることになり、アメ車に乗っている人もやっぱりアメ車に乗り続けるしかないということになってしまう。要は、米英と欧州の、これも覇権争いの一つなのだけれども、私に言わせれば、いい加減にアメリカもヨーロッパの軍門に下ってミリゲージを導入したらと言いたくなる。ボルボ、ベンツ、ランチアBMWとヨーロッパ車を乗りついで来た私も、別にアメリカ車が嫌いなのではない。○○○ー・○○○とか○ー〇・〇〇〇〇〇とか乗りたい車はあるんだがなあ………と、自分の趣味の話になったところで、今日はおしまい。

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 こんな祭りもね。

EPSON RD1s Summicron 35mm/F2 @駒込 (c)tsunoken

2012年1月24日 (火)

『知的生産の技術』と読書の記憶

 1月21日のエントリー『ウメサオタダオ展を見る』のミュージアム・ショップで久々に買ったのが………。

『知的生産の技術』(梅棹忠夫著/岩波新書/1969年7月21日刊)

 書いてあることは、大体覚えていることである。

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 京大式カードのことや。

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 ローマ字タイプライター(って、英文タイプライターのことだよね)とかかなタイプライターのこととか。

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「こざね」を使った発想法とかの考え方は、よく知っている。KJ法(川喜多二郎)と言うやつに近い方法論だ。

 結局それらの発想を持ってくるとパソコンのデータベースの考え方になるわけだ。つまり、一回アウトプットして知識を忘れる。そうしてアウトプットされた知識をつなげて新しい発想に繋げるというやり方だ。

 読みながら「そうそう」と昔読んだときのイメージが再び沸いてくる………。ところが、その「昔読んだとき」がいつの頃のことなのかが思い出せない。

 1969年の初版なので、初版時に読んでいれば高校三年の頃かとも思うのだが、高三の頃には教師の言うことなんか聞かない生徒だったんだから、教師が薦めても読まなかっただろう。大学生かサラリーマンになってからなのだろうか。サラリーマンになって最初の研修でKJ法を「やらされ」川喜多二郎氏の本は読んだような記憶はあるが、そこでも梅棹忠夫氏の本を読んだ記憶がないんだよな。

 昔、見たことがあるような風景に出会うという「デジャブ」の逆転状況があるのだろうか、本の中身は全部知っているので、多分どこかで読んだはずだけど、でもいつ読んだかはまったく覚えてない………という。

 しかし、読んでみて、その古さを感じるよりも、まさしく「情報化時代」を予見したひとらしい斬新さを感じるとともに、データベースの元になる考え方であるカード式や、まあこれは時代のテクノロジーからしてやむをえなかったローマ字タイプライターやかなタイプライターなどなど、まさに先進的な発想法を持っていた人だというのはよく分かる。

 面白いのは『知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。そのことは、中学・高校ばかりか、ざんねんながら学問の府であるところの大学においても、おなじである。しばしば、「大学は学問をおしえるところではない。学問のしかたをおしえるところだ」ということがいわれる。しかし、じっさいはやはり、大学においても、学問の方法をおしえるよりも、学問の成果をおしえるほうに熱心である』という日本の学校教育のありかたから、『知的生産の技術』を発想したということ。『くりかえしていうことだが、わたしたちの社会の、制度化された教育体系では、達成された成果を次代につたえることには、なかなか熱心であったが、その達成までの技術を開発し、発展させようという気もちは、あまりなかったようにおもわれる。技術の開発と発展のためには、成果よりも、それにいたるまでの経過の記録と、その分析がたいせつである。ところが、そのほうは、信じられないくらいおそまつなのである。』

 その結果、梅棹氏は「情報工学」という学問分野を提案する。『国文学の授業は、国文学専攻の人がうけもてばいい。しかし、国語の問題、ひいては文章の問題は、むしろ、情報工学の問題としてかんがえたほうがいいのではないか。』というのだ。なるほど、国語学の問題は国文学とは切り離したほうがいいという考え方。たしかに、いまの大学には「情報工学」的なタイトルをつけた学問分野が増えてきている。

 しかし、今回この本を読んでみて、またまた新しい発見をしたのだった。『日本人には、自分のしとげた仕事の記録をのこすという習慣が、あまり身についていないようである。どんな仕事でも、日本人のやったことを、すこししらべてみるとわかるが、たいてい、まことに貧弱な記録しかないものである。 <中略> 日本人は、記録軽視、成果第一主義で、実質的で、たいへんけっこうなのだが、社会的蓄積がきかないという大欠点がある。やはり、どうしてこうしてこうなった、ということを、かきのこしておいてくれないと、あとのもののためにならない。』という言葉は、まさしく1月23日に入ってきた「原子力安全・保安院は23日、東京電力福島第1原子力発電所の事故を受けて設置された原子力災害対策本部の議事録を全く残していなかったことを明らかにした。」というニュースそのものの問題なのだった。

 大体、役人が議事録を残さないというのは「自分の失策を隠蔽したい」から訳なのだろうけれども、今回の「議事録残さない事件」はそんな失策の隠蔽どころか、今後同じような事故が起きたときに、前例として参考にならないようにしたとしか言えない、結果としては重罪になってしまう。

 まあ、自分の事しか考えてない官僚って、やっぱりなんかなあ………、という感じなのであった。

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chikirinさんではないが「自分で考えよう」という方法論としての「こざね」なのであります。

Fujifilm X10 @お台場 (c)tsunoken

2012年1月23日 (月)

弱者の居場所がない社会

「格差極悪論」というのがあるそうだ。

『弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂』(阿部彩著/講談社現代新書/2011年12月20日刊)

 つまり『格差が大きい国や地域に住むと、格差の下方に転落することによる心理的打撃が大きく、格差の上の方に存在する人々は自分の社会的地位を守ろうと躍起になり、格差の下の方に存在する人は強い劣等感や自己肯定感の低下を感じることとなる。人々は攻撃的になり、信頼感が損なわれ。差別が助長され、コミュニティや社会のつながりは弱くなる。強いストレスに晒され続けた人々は、その結果として健康を害したり、死亡率さえも高くなったりする。これらの影響は、社会の底辺の人々ならず、社会のどの階層の人々にも及ぶ。』という考え方だ。更に『「自転車反応」は、社会的地位が高いものが、自分より低いものを攻撃し、攻撃されたものが、さらに低い地位にあるものを攻撃するという連鎖反応を起こす』ということ。

 格差の低いものに行けばいくほど、その攻撃性は強まり、それこそ中学生がホームレスを襲って殺してしまったりして、得意顔をしている様などが思い浮かぶのである。

 しかし、どうやったらそのような格差を無くすこと、は無理としてもその格差を少なくすることができるのか。阿部氏は社会のユニバーサル・デザイン化とベーシック・インカムの考え方を披露する。社会のユニバーサル・デザイン化とは『障害は、障害者の心身の状況(インペアメント)に起因・帰結するものではなく、インペアメントをもつ者が自由に活動できないような「障壁」を社会が内蔵していることが、インペアメントを障害している』という考え方に基づいて、そんな社会の「障壁」を無くせば、インペアメントを持つ者も、社会に参加できるのではないか、という考え方のこと。「インペアメント(impairment)」とは「機能障害」のことで、言ってみれば右利きの人が多い社会では左利きの人はインペアメントである。例えば多くの「はさみ」は右利き用に作られてあり、それを左利きの人が使うと紙を切れない。そんなときに、左利きの人でも紙が切れるようなはさみがあれば、それはユニバーサル・デザインに設計されているはさみだということになる。まあ、実際にはそんなはさみは出来ないから、左利き用のはさみが存在するわけなのであるけれども。まあ、要は、障害者や格差の低位者が排除されない社会ができれば、いいのだがという考え方。

 もうひとつベーシック・インカムの考え方は皆さんよく知っているとおり、『基本的な生活を保障する一律の給付を、すべての人に無条件で行い、人々は収入の一定割合をその財源として拠出するという斬新的な制度設計で、ヨーロッパを中心に関心を集めている』考え方である。

 実は、このベーシック・インカムの考え方は殆ど共産主義の考え方であり、社会主義者社会では「人々はその働きに応じ」て収入を得たものが、共産主義社会では「人々はその必要に応じて」て収入を得るという考え方なのだ。資本主義社会でこのような考え方が出てきたということは、それだけヨーロッパの資本主義は成熟してきたのかということである。人々はその働き(時間・地位・仕事の結果・生み出した価値など)に応じて収入を得ることが働くことのモチベーションになるが、そこで得た高い収入は積極的に低い収入しかない人に分け与える、高所得者から低所得者への所得の移動があって当然、という考え方だ。

 しかし、こうした「社会のユニバーサル・デザイン化」「ベーシック・インカム」という考え方は、我が国ではどれだけ可能なのだろうか。例えば「子ども手当て」という考え方は、実にベーシック・インカムな考え方なのであったが、所得制限つきの児童手当に戻ってしまった、という事実をみても。日本でこのベーシック・インカムの考え方を取り入れるのは「近々では」無理だろう。身体的な障害を持つ人にたいする「バリア・フリー化」は近年大分進んでいるけれども、経済的な障害を抱えている人にたいする「ユニバーサル・デザイン化」はほとんどなされていない。

 おまけに、食品や生活必需品にまで同率の税金を課す消費税増税に至っては、まさしく低所得者いじめでしかない。むしろ、所得税の累進化を寄り一層強めることと、税補足率の大幅UP、とそしてその結果としての税収UPをベーシック・インカムの方に使うということでしか、いまの日本がそうした先進社会に近づく方法はないだろう。

 で、はたしてどんな政治家がそれを可能にするだろうか。阿部氏あたりの研究者が発言しているだけでは、世の中は変わらない。やはり政治家なんだろうけれどもねえ………。

 

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Nikon D7000 AF-S Nikkor 18-105 @新宿 (c)tsunoken

2012年1月22日 (日)

駅前のオブジェ

 駅前のオブジェといえば、その街を象徴するようなものが多い。

 たとえば、立川駅の駅前にはこんな「飛行少年」のオブジェがあって、いかにも飛行機の街、立川と言う感じなのだ。

 今は立川基地もないけど、航空機工場は結構たくさんあるのだ。

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 で、ある日新橋の街を歩いていたとき、烏森の方からニュー新橋ビルを駅とは反対側を歩いていたとき、目の前にまず飛び込んできたのがこの重機なのであった。どこか、ミサイル発射台のようなイメージをもたせるそのオブジェに「ええっ、新橋駅前に新しいオブジェができたのか?」と思っていたのだったが。

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 実は、単なる重機であって、多分これから新橋駅前をボーリングでもするのだろうか。その準備のための「置物」なのであった。もうちょっと行けば、いつものSLが目に入ってきて、ごく普通の新橋駅前風景なのであった。

 最近、新橋駅で乗り降りしないものだから、思わず新しいオブジェか何かと勘違いしただけなのでありました。

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 で、浅草に行けばいまやこんなに大きなオブジェもあるしね。

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 まさに634mのオブジェなのでありました。

(今日はちょっと手抜き)

Fujifilm X10 @立川・新橋・浅草 (c)tsunoken

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