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tsunokenの昔の映画評

2012年5月27日 (日)

駒込の富士山、登頂!

「駒込は一富士、二鷹、三茄子」で有名な駒込富士に言ってきた。4月8日の『六義園の枝垂れ桜(2)』のついでに行けば行けたんだけれども、その日は時間がなかったんだよな。

 ということで、昨日登山に挑戦! 

 ついでに言ってしまうと、「二鷹」は現在の都立駒込病院のあたりにあった鷹匠屋敷、「三茄子」はこの富士神社の裏あたりが茄子の産地として有名で、本駒込一丁目の天栄寺には駒込土物店跡があって、要はそこが昔の野菜市場だったわけだ。江戸の縁起物が何でみんな駒込なのかということについては、諸説ある。それはいずれ。
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「富士山」と「浅間神社」の碑。その他にも石碑が沢山ある。多分、いろいろな人が奉納した石碑なんだろう。
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 山頂にある富士神社。結構広い山頂であり、それこそ噴火口があってもいいくらい。

 この富士山自体の対地面高さは7メートルくらいだが、なにしろ東京都23区で一番標高の高い場所にある富士山だ。多分、東京23区のなかで一番標高の高い富士山だろう。確かに山頂では酸素の薄さを感じさせる息苦しさがある……わけないよね。
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 下山の途中にある「小御嶽神社」(の碑)。富士塚の神社なんてこんなもんです。2012_05_26_021_2

 で、無事下山。ったって登り1分、下り1分ってなもんです。お手軽な富士登山でした。ハイ、スミマセン。

2012年5月26日 (土)

『計画と無計画のあいだ』もいいけど、やっぱり「無法者」社員だよな

『生物と無生物のあいだ』のパクリか、と思ったら三島氏自身が「あとがき」でパクリであることを認めつつ、福岡伸一氏からは了解をとった旨書いている。う~ん、『生物と無生物』」くらいのベストセラーになればよいけれどもね。

『計画と無計画のあいだ 「自由が丘のほがらかな出版社」の話』(三島邦弘著/河出書房新社/2011年10月30日刊)

 ミシマ社は社長を含めて従業員6名の、多分日本で一番小さな部類の出版社である。しかし、その出版物と言えば、内田樹『街場の中国論』『街場の教育論』、平川克美『小商いのすすめ』、小田嶋隆『小田嶋隆のコラム道』などなど、いろいろ話題作には事欠かないし、2006年設立というからまだ6年しか経っていない出版社としては、そのベストセラーの多さには「立派」としか言いようはない。

 何故そんなにベストセラーが出るのか。つまり、それは三島氏自身が書くように「この無法者たち!」のおかげなんだと思う。ミシマ社の社員がどう「無法者」(というよりも「規格外の社員」なんだと思うけれども)なのかは本書を読んでいただくとして、そんな「無法者」が生きていける空間がミシマ社にはあり、それは限りなく「普通の会社」になってしまっている大手出版社にはない空間なのだ。

 もともと、出版社なんてのは出自は無法者の集団であった筈だ。だって、教科書出版以外の出版業なんてものは海のものか山のものかも分からないベンチャー企業だったわけで、そんな会社にマトモな人間が来るわけはないでしょ。でも、そんな無法者集団が面白いことをやるから、出版社は面白いのだ。しかし、大手出版社になってしまうと、そこそこ普通の人ばかりを採用してしまうので、だんだんつまらない普通の会社、つまりルーティン・ワークの中で、ベストセラーを出さなくても会社が回ってくれればいいやという発想の会社になってしまうのだ。ま、各編集部単位になってしまうとそれこそ零細企業なので無法者もたまにはいますけれどもね。

 多分そんな無法者意識が、ゲバラ風の可愛い似顔絵の島氏自身にあるんだろう。それが、2回目に入ったNTT出版では上司と上手くやれなかった理由なんだと思う。結局、NTT出版はNTTの子会社であり、親会社のNTTは元々電電公社、つまりお役所である。その辺は大学を出て、最初に入ったPHP研究所とは違うところで、PHPもパナソニックの子会社であるけれども、親会社はあの松下幸之助氏の意向がまだ少しは残っている会社なのだ。カリスマの片鱗がまだ残っているパナソニックと、顔が見えないお役所のNTTという対比は面白いけれども、言っておくと三島氏は両極端を行ってしまったんですな。

 で、結局自分で出版社を興してしまった。これは正しい選択であり、その後の無法者ばかりを何故か入社させてしまった経過も、結局は正解だったわけだ。その結果、出版業界でも注目の出版社に、いまやなっているのであるから。

「原点回帰の出版社」というのがミシマ社のモットーであるようだ。まあ、しかしそのモットーがどこまで生きるかは、今後の三島氏次第だろう。あの講談社だって「三大社是」なんていって、創業者・野間清治の言葉が社員手帳(最近はみんなシステム手帳になってしまって、使っている人は少ないが)にも「面白くてためになる」なんて言葉とか、「雨の日風の日訪問日和」なんてのが印刷されている。まあ、ミシマ社がそんな「創業者の言葉」を社員手帳に印刷されない会社になって欲しいと思うのだが、どうだろうか。三島氏はミシマ社を100年続く会社にしたいという。ということは100年後に三島氏が生きていることは有り得ないので、それは三島氏の遺志を継いだ人たちが何をミシマ社に受け継いでいくかということであろう。それが、無法者を抱えて生きるということなのか、切り捨てるのかということでもあるのだ。

 結局、三島氏の発想は『結局のところ、「一冊入魂」以外にとりうるやり方はない。この一冊が売れないことには、次の一冊を出すことはできない』というところに行き着くだろう。まさに、零細出版社の基本である。いやいや、零細じゃなくて「出版社の基本」である。大きくてもその基本にはのっていなければならないのである。

 だからこそ、三島氏は言うのだ。

『いま目を向けるべきは、幻想の方ではなく、その産業のより「原点」の方であろう。
 そしてより「原点」、つまり原初的な喜びは何かといえば、一人の人がその本を手にとって喜んでくれることであろう。その手放しの喜びを知り、さらにいいものをつくりたいと思うことではないだろうか』

 つまり、それは出版業界にいる人間が、皆持っていなければならないはずの「思い」でなければならない。

 しかし、何で三島氏はミシマ社じゃなくて河出書房新社から自らの本を出したのだろうか。なーんてことを考えなくても、幻冬舎の見城徹氏が講談社から本を出すようなもんだろう。要は、売れなかったら自分の会社に迷惑をかけてしまうという深謀遠慮なんだろうな。社員に「社長の本を売れ!」なんてハッパをかけるのも嫌だろうし……、ね。

 
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『OZ Magazine』6月号にミシマ社が載っているのを発見。左下の写真が三島氏である。なかなか男前じゃないか。

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2012年5月25日 (金)

『小田嶋隆のコラム道』で見えてきたことはやっぱりね

「コラム道」なんてものがあるんだろうか。華道とか茶道みたいに。でも、もしあるとするなら、小田嶋氏はその宗匠であり、免許皆伝を与える人になるわけだ。

『小田嶋隆のコラム道』(小田嶋隆著/ミシマ社/2012年6月3日刊)

 私は『日経ビジネスオンライン』で毎週金曜日にUPされている小田嶋氏のコラム『ア・ピース・オブ・警句』の愛読者(なのか嫌読者なのか分からなくなるときがあるが)であり、それをまとめた『地雷を踏む勇気』『その「正義」があぶない』も読みました。で、その結論「名コラムニストだからって、いつも面白いとは限らない」っていう当たり前のこと。

 で、その「面白くないコラム」の集大成が、実はこの『小田嶋隆のコラム道』なのでありました。

 だって、当たり前でしょ。コラムニストの宗匠が「こうやってコラムを書けば皆に大うけ」なんて秘密を明らかにするわけはない。だって、免許皆伝されるにはそれなりに師匠のところに長年通って、弟子入りし、玄関や廊下の掃除から始まって、師匠の着付けの手伝いから、師匠の家に赤ちゃんでもいればその赤ちゃんをあやしオムツを替え、おカミさんの買い物の手伝いとか、その間に師匠から口伝でものを教わって、そんなことを10年くらいやってやっと二つ目というのが噺家の常識である。って、いつの間にか噺家の話になってしまったが、つまり小田嶋氏のコラムっていうのがこうなんだよな。

『ア・ピース・オブ・警句』の書き方はまさにこれである。「テーマA」についての書き出しがまずあって、しかし、いつの間にか「テーマB」に行ってしまって、どこまで読んだら元に戻るんだ、と思いながら読み進んでいくと、普通は90%くらい読んだところで、再び{テーマA」に戻ってオチにいたるんだけど、たま(本当にたまにですが)に戻らないで「オチ」に行ってしまうこともある。あるいは、最初のテーマからどんどん外れていって、おいおいどこまで行くんだよ、なんて読んでいたら、突然テーマが戻って、一瞬「オチ」なんてね。

 つまり、コラムに「正しいあり方」なんてのはないというのが正解。まず『書き出しはどうであってもたいした問題ではないのだ』に始まって、『その末尾の一行が、独立したワンフレーズとして読んでも鑑賞に耐えるものであれば良い』というのが結語についての話だし、文体とは主語の使い方だという、でもその主語だって「I, MY, ME」の英語ではない、「私」「俺」「僕」の他にも「おいら」「オデ」「おれっち」「ボキ」「わたくし」「女王様」「矢沢」などもあるそうで、それによって文体が変わるというだけのことだ。あっ、最後の「矢沢」はある人しか使えない「主語」ですけれどもね。

 ということで、コラムには「道」なんてものはないというのが正解なんだけれども、それでも基本はある。それはコラムの長さである。本書には800字、1000字、1200字、1600字、2000字位のそれぞれの見本が掲載されている(う~ん、これを「見本」といっていいのかな)が、確かにそれはそれとしてキチンと読めば勉強にはなる。

 つまり800字のコラムはワンテーマで押し進めなければならない。というより他のテーマにそんな短文で移ってしまったら、多分、結論にたどり着けないだろう。「tsunokenの昔の映画評」の中の『キネマ旬報』の「読者の映画評」の原稿がこの800字という制限があった。『小さな巨人』についての評論が採用されて舞い上がった私は、それから見る映画見る映画について800字評論を送りまくった。多分、それは年間で200本以上はあったのではないか。採用され掲載されたのは、そのホンの一部にすぎないんだけれども、でもそのときの「文章を書く修業」というのが、その後の生活でも(仕事でも、このブログでも)役立っているというわけだ。

 で、この「tsunokekのブログ」なんだけれども、大体1000字から2000字で書いている。別に、そういう長さを決めたわけではないのだけれども、基本的なワンテーマで1000字、プラス「書評」としての原本からの引用を入れて、それに論評を加えるという形式をとると2000字という感じである。で、多分、読者も2000字が読んで限界だろう。それ以上長い文章は、多分パソコンやスマホの読者は読んでくれないのだ。多分、それがデジタル読書の限界かな。

 ということで、携帯小説なんかを目指している人に言っときます。1回の配信は800字まで。それ以上書いたって読んでくれないよ。まあ、それくらいにスマホの読者は我がままなんです。なんでかって? それは彼らは金を払っていないから。ネットでは(多分、普通の世界でも)無料の読者(ユーザー)が世間では一番我がままなのです。

 有料の人たちが我がままなのは分かる、しかし、無料の人たちが我がままだというのが分からない、という人たち。そうじゃないんだよな。つまり、金を払った人たちは、自分の払ったお金の分だけ自由が買えればいいという発想なんだ。しかし、無料の人たちの発想は、金を払わないのは「金を払わなくてもいいよ」って言われたから自分たちは金を払わないだけのことであり、つまりこれは「金を払わなくてもいい人」たちの権利だっていう発想があるかならのだ

 つまり、そうやってサプライサイドの「善意」や「好意」はユーザーによって裏切られるわけなのです。

 まるで『小田島隆のコラム道』で、読者をちゃんと裏切る著者の反対だな。

 これでオチはついたのかな。

 

2012年5月24日 (木)

『インクジェット時代がきた!』というのは、実は社会変動の時が来たということなのだ

「インクジェット・プリンター」といえばいつもパソコンと一緒に使っているヤツだ。でも、「プリンター=印刷機」という意味で考える年寄りには「大量生産機械」というイメージなのだが、実はそうじゃなかったのだな。

『インクジェット時代がきた! 液晶テレビも骨も作れる驚異の技術』(山口修一・山路達也著/光文社新書/2011年5月20日刊)

 どうも「年賀状を大量に作る機械」というイメージなのだが、実はそうじゃなくて1枚1枚を違った内容で印刷できるという風に考えれば、つまり「オンデマンド」で印刷できる極小印刷機なのである。というところに目をつければ、まったく別の事業展開が見えてくるわけだ。

 つまり「版」を作ってそこにインクを付けて直接対象物に押しつける「印刷」と違って、直接対象物に触れずにプリントするインクジェットであれば、立体物にも印刷できるわけで、そこから次の商品展開が見えてくる。

 さらに、平面印刷であっても、アパレル業界では「デジタル捺染」という方法で、多品種少量生産が可能となって、消費者が他人と同じものを身につけなくてもよくなる可能性が圧倒的に増えてくる。また、建築業界でも壁材をインクジェットで作れば、多品種少量生産が可能であるし、データを保存しておけば生産ロットによって壁材のイメージが変わるということもなくなる。

 さらにラピッドプロトタイピングという技術を使えば、コンピュータの3Dデータからそのまま立体の模型が作れるのだ。なんか2Dの印刷という感覚のプリンターも、レイヤーを重ねることによって3D化することができる。言われてみればその通りなんだけれども、そうか、そういう方法もあったのか、と蒙を啓いてくれるのであった。

 その技術を使えば、一品生産のフィギュアなんかも作れるし、3D写真データからは本物とまったく変わらないジオラマなんかもできてしまう。3D CAD上での鋳物の砂型をつくるための原型を作るのであれば、じゃあ、直接砂型を作ることもできるんじゃないか、というのが積層工法の考え方だ。半導体の製造なんかも、これまでのクリーンルームや真空装置が必要な大がかりな設備が必要だったのが、インクジェットで半導体がプリントするようにできてしまえば、中小規模のメーカーがコンピュータとインクジェット・プリンターがあればトランジスターの開発なんかもできるようになる。

 医療分野では、DNAチップをインクジェットで作れるようになれば、患者ひとりひとりの異なった医療情報が分かるようになって、医者にとっては患者ひとりひとりに微妙に異なった治療ができるようになる、ということだ。しかし、これは当然患者ひとりひとりの医療情報がすべてデータ化されて、電子カルテに掲載されるようになれば、このビッグデータが誰かに握られてしまうという危険性も出てくる。

 こうしてみると、インクジェットによって知識集約型の産業が盛んになれば、そこで日本の産業が復活するのか、ということになるのだが、しかし、ことはそう簡単にはいかないようだ。

『リソース最適化によって、アトム=モノがビット=情報に近づき、ものづくりもこれまで以上に知識集約型が進むでしょう。円高不況などの理由により、日本国内における製造業の空洞化が懸念されていますが、リソース最適化が日本でのものづくりを復活させる可能性があります。
 ただし、これによって日本経済が復活し、私たちの暮らしが豊かになるかといえば一概にそうとはいいきれないように思います。
   <中略>
 リソース最適化されたものづくりは、まさに知価創造的な産業であるといえます。そして、そうであるがゆえに、製造業分野の雇用を増やすわけではないという点に注意が必要でしょう。
 原材料の使用量が減るということは、原材料の供給や輸送に携わる人の数が減るということでもあります。製造プロセスが簡素化され、オンデマンドの生産が可能になれば、やはり仕事は削減されることになります。
 知識集約型になったものづくりに携われるのは、ユニークなデザインやビジネスモデルを発案できる、新しい素子を設計できる、そんな人材に限られるかもしれません。』

 ということだし、更には。

『今は工場でモノをつくりそれを配送することが当たり前に行われていますが、そういう常識すら変わっていくことになるかも知れません。ものづくりの材料は消費者自身の手元にあり、それをつくるためのデータを消費者自身がダウンロードして、3Dプリンターのような機器を使って出力するようになることだってありえます。
 こうした社会では、得られる収入も二極化が進むことでしょう。知識集約型の仕事に従事していても、高収入を得られる人とそうでない人に分かれることになります。知識集約型産業にはそうした不安定さがあるのです。』

 ということである。

 つまり、今、美しい写真を印刷しているあのプリンターが、社会のありかた、仕事のありかた、暮らしのありかたすら変えてしまうかもしれないのだ。

 いずれにせよ、20世紀型の「大量生産・大量消費」型の経済はもはや終わっているわけで、いまや「多品種少量生産(その極端な例が「オンデマンド)・選択消費」の時代になっているのだ。出版社なんかはまさしくこの「大量生産・大量消費」型業界だ。ということは、もはや出版社の時代は終わったということなのだろうか。

 しかし、光文社新書でもこんな講談社ブルーバックスみたいな理系新書を出すんだな。

 

2012年5月23日 (水)

『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!』なあんてことを考えていたら……

 普通、旅をするというのは仕事でもない限り何らかの知的好奇心から発するものとばかり思っていたのだが、どうもそうでもないらしい。

『社会派ちきりんの世界を歩いて考えよう!」(ちきりん著/大和書房/2012年5月30日刊)

『一方、カリブ海クルーズでは、寄港する街の観光より、ダンス、音楽、パーティーなど船内イベントのほうがより楽しまれているように感じます。これはエーゲ海クルーズの客が純粋な観光客であるのにたいして、カリブ海クルーズ船には「アメリカの裕福な退職者」が多く乗り込んでいるからです。彼らは「食べて、飲んで、話して、ダンスする」ことが大好きで、「開放的な船の上で、たくさんの人と気軽に知り合いになれる」クルーズ旅行を選んでおり、最初から観光ではなく“ソーシャル”な楽しみを期待しているというわけです』という観光客がいるそうなのだ。うーむそうか、だからアメリカ人は団体旅行が好きなのか。何も言葉だけの問題じゃないのね。

 しかし、ちきりんさんって凄いんだな、約50ヵ国も旅をしているのか。私なんか、欧米のみ6ヵ国のみだもんな。

 とはいうものの、50ヵ国旅をしているちきりんさんも、6ヵ国だけの私も、あまり変わりはない。別に『何かを学ぶため、視野を広げるため、成長するため、強くなるため』に旅をするわけではないが、しかし、外国(国内でも)の文化なんかに触れて、我々の国とは違うものを見て何かを考えたいのじゃないだろうか。何らかの知的好奇心というものがあって、それを満足させるために旅に出るっていうのが普通だと思うのだが。

 それにしても、面白いのは南欧についての記述である。

『ユーロ危機で取りざたされる国には、ギリシャ、ポルトガル、スペインなど南欧の国が多いのですが、実はこういった国々は、すばらしく豊かな国ばかりです。まずは、どこも食事がすばらしいです。欧州でも北欧やドイツなど北に位置する寒い地域の料理には、保存の利く塩漬けや酢料理、根菜類が多くなります。
   <中略>
 また、太陽の光の量の違いも圧倒的です。<中略>ポルトガル、スペイン、ギリシャや南イタリアの陽差しは、おどろくほど明るくて暖かく、ひなたぼっこをしているだけでリラックスできます。
 加えて、みんなペースがゆっくりでセコセコしていません。』

 しかし、そんな国だから財政が破綻しても国民はのんびりしていて、それこそ緊縮財政を進める与党は選挙に負けてしまったりするんだな。まあ、国が破綻したって俺たち食うに困らないもんね、ってな具合なのだろう。そんな南の国を脇に見て、一生懸命働いているドイツの人たちって何なのだろう。

 これまでEUをマーケットにしてさんざっぱら稼いできたドイツとフランスである。その罪滅ぼしって訳ではないのだろうが、いまやドイツが「なまけもの」の南欧諸国を潰さないように働いている図というのは、イソップ童話『アリとキリギリス』のラストシーンが逆になったようだ。結局、アリはアリのままで、死ぬまで一生懸命働いているし、キリギリスもキリギリスのまま、歌って暮らしましたとさ、っていうお話。う~ん、何かこの方がリアリティのある話だなあ。

 大体、そういう地だからこそ古代から中世にかけて文明が発達し、ヨーロッパの中心になった来たのだろう。ギリシャ文明やローマ帝国の時代はドイツ、フランス、イギリス、北欧なんかは辺境の蛮族の地だったわけで、それが中世になってハプスブルグ家の神聖ローマ帝国の時代から、少しずつ開拓されて、そんな人が住みづらいところだからこそ、人々は生き延びる方法を研究し、食料を改善し、着るものを改善し、ついでにテクノロジーを発展させ、活版印刷術を発明し、結果として宗教改革まで実現させてしまった。人間は必要がなければ「怠け者」になるし、必要に迫られれば「働き者」になる、という典型例ですね。

 そして、結局は「働き者」は生涯「怠け者」のために働き続けるという社会構造になっていくんだろうな。

 万国の怠け者諸君、もっともっと怠けよう! 怠け者諸国、万歳!

 その他、シンガポール航空が何故世界で一番評価が高い航空会社なのかと言う事も面白かったけど、それはいずれ別の機会に……。

 ついでに言っちゃうと、ちきりんさんの「素顔の写真」が載っています。小さいけどね。

 なあんてこと考えながら家に帰ってきたら(21時30分)、なんと今日の午前中にAmazonに発注したミシマ社の本が、もう我が家に届いていた。つまり、珍しくAmazonのrecommendが私の趣向にヒットしたんだよな。当然、発送料はタダである。

 これじゃあ、リアル書店は太刀打ちできんな。あとは、いかに衝動買いができるような品揃えをするだけだ。つまり、それだけがネット書店で出来ないことだからね。

2012年5月22日 (火)

『独立国家のつくりかた』はなかなか素敵な提案だ

「0円ハウス」の坂口恭平氏の最新著である。

 早稲田大学理工学部建築学科卒の坂口氏の職業は、(0円ハウスばっかり提案している)建築家、(小説を1作だけ書いた)作家、(これが一番の稼ぎ頭かな)絵描き、(これはよく分からない)踊り手、(路上の)歌い手、で更にそこに新政府の初代内閣総理大臣という肩書きがつく。

『独立国家のつくりかた』(坂口恭平著/講談社現代新書/2012年5月20日刊)

 まあ、要はアーチストという名の何でも屋さんなのだけれども、それはそれでこの『独立国家のつくりかた』という発想は面白い。我々の世代だと、今の政府に問題がある考えたら、それは反政府運動を起こし、今の政府を変えようという方法論しかないという発想法だったわけなのだが、そうじゃなくて、今の日本経済のなかで、「別の経済」を流通させてしまい、それをもって「独立国家」という発想の中で実現させようとするのだ。

 坂口氏はそれを「態度経済」という。別にどんな言い方をしてもいいけれども、それは一種の「贈与経済」である、ということだけは言っておこう。実は「贈与経済学」という発想でモノを書いている人はいっぱいいるのだ。そこには「貨幣経済」では有り得ない経済融通の方法があるのだ。

『冷静に考えたら、土地はもともと誰のものでもないはずなのに……、と子どもみたいなことを考える』というのだが、別にそれは子どもの考え方ではない。もともと天与のものである「土地」を所有するということは有り得ないのだ。ところがその「有り得ない」ことを何故実施しているのかと言えば、それは単純に「税金」を国家が欲しがるからなのである。国は国民から税金を巻き上げる方法をいろいろ考えることで成り立っている。現在の消費増税もそうだし、所得税もそうだし、ということで固定資産税なんかも作られたのである。

 明治以前の時代には、勿論こんな制度はなかった。農民は田畑や自分の家なんかの土地を自分で持っているという認識はなかったから、当然税金なんてものは払わない。とにかく年貢米だけを納めていればよかったのである。というか、この時代までの日本は貨幣経済ですら都会の一部だけで通用していた経済なのである。国民の殆ど、それは農民なんだけれども、貨幣なんてものとは関係ない生活を送っていたのだ。

 ところが明治政府はそれまでの封建時代の政府(幕府と朝廷)に比較してとてつもなく「大きな政府」になってしまった。それは「富国強兵」という掛け声とともに、それまでは各藩ごとに勝手に「武士という暴力装置」を作っていたのを、国が「暴力装置」を作らなければいけない。鉄道や道路、電気などのインフラも国がやらなければいけない。それまでの江戸時代の政府(幕府と朝廷)は、言ってみれば徳川藩だけの経済でよかったのだが、明治政府ではそうはいかなくなってしまった。

 ということで、所得税なんかと一緒に、土地の私有制を進めて、そこから税収を得ようとしたのだ。しかしまあ、この辺からおかしくなってるんでしょうね。所得税は当然貨幣で納めることになるわけだが、併せて固定資産税もそこから何らかの作物ができるわけではないから、貨幣で納めることになる。ということで、明治政府以降、日本の経済は一気に貨幣経済への道をたどるのだ。

 で、貨幣ってなんなの? という疑問には、答えるのが難しい問題が多い。しかし、簡単に言ってしまえば「モノやコトに対する価値を表した尺度」なのだ。しかし、そこには「属人性による差異」は認められないという問題がある。つまり、ある人にとっては100万円払ってもOKというようなプラモが、他の人にとっては1000円でも高い、というようなね。まあ、プラモなら買わなきゃいいってもんだけれども、たとえば「家」だったらそうは行かないでしょ。お米だってそうは行かないよね。でも、貨幣経済というものはそういう一定の尺度をつけるものだ。

 その貨幣経済が「モノやコトに対する価値を表した尺度」である時代はまだ多少健全だった。ところが、その貨幣経済が「貨幣そのものに対する価値を表した尺度」に変貌したここ20年間の経済社会の変化が大きな問題となってしまった。まあ、結局は貨幣経済の行き着く先が今の状況なんだけれども、実はこうした大きな政府にたいする批判から「規制緩和」と、企業の要請からくる「グローバリズム」による、一般大衆に対する「貨幣経済の弊害」は、すでに1916年にレーニンが『帝国主義論』のなかで書いていることなんだけれどもなあ。

 といううことで、坂口氏の論点も、結局は昔レーニンが言っていたことの焼き直しなのだけれども、多分、マルクス&レーニンなんか読んだこともないだろう坂口氏が、結局はレーニンの発想法に近づいたと言うことは、言ってみれば歴史的な邂逅ということなのだろう。

 結局は、40年前の学生が言っていたことも、今、坂口氏が言っていることも、結局は「この国には革命が必要だ」ということなのだ。ただし、その方法論はまったく異なっている。別に声高に「革命だっ」なんて叫ばない。しなやかに、勝手に独立国家成立を宣言してしまう(それも小声で)。ただし、今の日本政府にも税金を払いながらね。

 態度として「楽しそう」だ。40年前の「自己否定」なんていらない。自らの躁鬱症なんかも気にしない。多分、この人は躁鬱症(躁期+欝期)があるからこうした考え方をできるようになったんだと思うが、それは北杜夫氏と同じようなものだろう。

 要は、「欝期」をどう過ごすかということでね。

 ああ、躁鬱症でもないじじいの私としては、こうした若者(まだ30代前半ですよ)に、無理やりついていくだけなのかもね。

 

 

2012年5月21日 (月)

川崎球場脇の奇妙なオブジェ

 川崎球場までアメリカンフットボールを観戦してきた。

 現在、川崎球場はスタンドの改修工事中である。つまり、これまではもともと野球のライトとレフトの位置に架設型のスタンドがあったのだが、その架設スタンドをなくして、そこに鉄筋コンクリート4階建てのスタンドを、2014年10月完成予定で作ろうというのだ。つまり、これで川崎球場は野球もできる球場から、完全にアメリカンフットボールやラグビー、サッカー、ラクロスなどの長方形球場になってしまうのだ。もはや、ロッテ・オリオンズの面影はない、アサヒビール・シルバースターズのホーム・グラウンドになるということなのだな。

 こうやって、アメリカンフットボールも少しずつメジャーになるのだろうか(なってくれるんだろうか)。

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 が、今日のテーマは球場ではなくて、その球場脇にある不思議なオブジェについてなのだ。

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 なんか、蒸気機関車か潜水艦が半分地面に埋め込まれたような不思議なオブジェ。

 川崎らしい、なにか工場で使われていた機械かタンクをかたどったオブジェかと思ったのだが、まあ、わけのわからないオブジェといえば、浅草吾妻橋脇のアサヒビールの「うんこオブジェ」なんかが有名だが、それに比べればこの何とも川崎らしい「黒い鉄」のオブジェではある。

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 近寄ってみる。

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 で、ぐるりと周りを回ってみたら、『私は[防火水槽]です』という断り書きが……。

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 なんだ、そうかとは思ったのだが、だけど、こんなに変な格好で地中に埋めなくてもいいでしょう。やっぱり、作った人のオブジェ志向が多分にあるはずだ。

 今度は、それを調べてみよう。

Nikon D7000 AF-S Nikkor 70-300 @Kawasaki (c)tsunotomo / Fujifilm X10 @Kawasaki (c)tsunoken

2012年5月20日 (日)

立教大学なう

 久しぶりの立教大学だ。

 息子が付属高校に通っていた頃は、野球部の父母会なんかでよく行っていたのだが、大学に入ってからは、ほとんど行かなくなってしまった。

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 裏にそれこそ裏立教通りみたいな広い道ができていたり、大学・高校ともそこここで工事をしていたり、うむ、立教大学は経営が健全なのだな、ということがよく分かる。

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 東京芸術劇場が改修中だったり、池袋ジャズフェスティバルが開催中だったり、最早、初夏の様相の池袋ではあった。

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Fujifilm X10 @Ikebukuro (c)tsunoken

2012年5月19日 (土)

いつの間にか20万PV

 気がついたら、今日の段階でいつの間にか20万PVを超えていた。

 ご愛読、ありがとうございます。

『ロンドンで学んだ女性の向上心』以上に強力な日本のおばさん

 別に女性が向上心を学ぶためにはロンドンまで行く必要はない。フランスだってドイツだってロシアだって、ということは、この日本にいたって向上心を学び、得ることはできるのだ。たまたま、井形慶子氏が行ったのがロンドンであり、そのあこがれの地、ロンドンでいろいろ学ぶことが多かったというだけのこと。

『ロンドンで学んだ女性の向上心』(井形慶子著/朝日文庫/2012年5月30日刊)

 ということなので、この本には特別なことが書いてあるわけではない。

 例えば『「新入社員で伸びる人と伸びない人はどんな違いがありますか」と聞かれることがあります。私の経験上、決定的なのは、ありきたりの回答になるかもしれませんが、「素直さと真面目さ」があるかどうかです。』というクダリ。『では、「できない人」がどんな人かといえば、何か問題が起きたときに、まず最初にできない理由をいう人です。つまりできない理由をさがす人。「できる人」は、どうしたらできるかを考えて、対策を提案してきます。相手がたとえ新入社員でも、1カ月目ぐらいで顕著に表れてきますので、大きな特徴だと思いました。
「スタッフが足りないから、あなた一人でイギリスに取材に行ってください」と業務命令を出したとします。できない人は、「いやあ、とんでもない。私は英語ができませんから会社に迷惑をかけてしまいます」と答えます。できる人は、「はい、しかし私でいいのでしょうか。英語が話せませんが、いろいろ教えていただければ」と前向きな返事をします。』というクダリなんかは、別にロンドンとは何の関係もない。というかまさに「ありきたり」の回答であって、ロンドン経験がないとこんなことも分からないようでは、最早、人生失格だ。

 つまり『本書のタイトルを「ロンドンで学んだ女性の向上心」としたのも、本書でご紹介した通り、有名無名、会ったことのない人からでさえ、自分が奮起し続ける力を十代からロンドンは与えてくれたと思うからです』という、井形氏自身の特殊な経験から、によるものだということが分かる。

 むしろ『本を書いたり、会社を起こしたり、仕事をいろいろなパターンでやってきて、その中で思うのは、第三者の客観的な目の必要性です。見えないところを指摘できる第三者の目。それが自分を天狗にせず、過ちを犯させないストッパーの役目を果たしていることです』とか、『人生は本当に計画通りにはいかないということです。向上し、キャリアが円熟し、肩書きがついてくると、人との関わりも増え、自分の時間も持てなくなり、予期せぬ差し障りさえ出てきます。向上すればするほどその先を目指すことが、時にしんどくなり、最後は何をすべきか見えなくなってしまいがちです。だからこそ、二十代、三十代では多少無理をしても経験をつむべきです』なんてことは、日本にいても十分すぎるほど、分かることなのである。

 むしろ、面白いのは『日本社会の中で強いのは、「おばさん、おじさん、若い女、若い男」の順番ですよということです。おばさんが最強と思うのは、実は日本が誇るかかあ天下の投影を日々感じるからです。ビジネスをしていて私はおばさんがこの世で一番強いのではないかと思うことが多いのです』という部分を読むと、「何やこのおばはん、典型的なにほんのおばはんやないけ」と思うのだ。

 そう、日本のおばさんはもしかすると世界最強のおばさんなのかもしれない。女王をいただき、女性首相を生んだ、男女平等が世界で一番進んでいると思われるイギリス社会だって、実は女性の平均的地位はそんなに高くない。むしろ、女性主導の米騒動があった日本の方が、むしろ女性は強いかもしれないのだ。

 ううむ、侮れないぞ、日本のおばさん。

 国王に即位した頃のエリザベス2世の写真がカバーに使われていて(う~む、典型的なアングロ・サクソン顔だな)、なんかその話も出てくるかと期待して読んだのだが、残念ながらその話は出てこない。

 残念!

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