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2019年7月18日 (木)

八幡山の八幡社

 世田谷区の八幡山へ行った。

 京王線の八幡山駅で降りるのである。「八幡」は、まあ「八幡様」のことで、分からないではないが、何故「山」が付くんだろう、っていうのがちょっと不思議で行ってみたのだった。

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 駅を降りて、赤堤通りを往くと、左側に作家で医師の北杜夫氏のお父さん、斎藤茂吉が経営していた(現在は都立病院)松沢病院がある。現在は、病院の周辺は公園になっている。開放病棟にいる患者さんたちの散歩道になっているんだろうか。

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 で、そのまま赤堤通りをまっすぐに行くと、途中、右に折れて八幡山小学校の脇をそのまま進むと、八幡山八幡社という神社がある。

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 由緒書きがあるので読んでみる。

『創立年月並びに古代由緒沿革等未詳なれど古老口碑また地名等より古社と推定さる。
 なお、奥宮(新殿に奉斎)には文化七年十月との記銘あり明治四年十月に村社に列せられ明治四十一年十一月府告示第二百十八号に依り会計法指定神社となる。
 明治四十二年三月六日許可を得て同所稲荷社を合祀す。
 昭和二十九年四月三日宗教法人法の登記完了した。
 昭和四十七年十一月三日親殿社務所並びに境内内諸施設を新築し遷宮奉祝祭を執行す。
 本来八幡神は海防守護の神であるが主神が文化や産業の振興につくされたことから繁栄と和平つまり厄除開運の御神徳をたれ給う神として一般の崇敬をうけております。』

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 八幡神社の由来はこれで分かったんだけれども、だけれども「何故、八幡?」というのは、いまだ分からない。

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 八幡社を過ぎると明治大学のラグビーやアメフトの練習場があったり、学生寮があったりする。そういえば、新宿から行って八幡山の手前、下高井戸には日大フェニックスのアメフト練習場もある。まあ、この辺りは都心に本部がある大学の「郊外キャンパス」だったんだろうな。

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 なんてことを考えながら歩いていたら、なんと「八幡山遺跡」という「街角展示」があるじゃないか。

 説明書きには

『豊かな水と緑に恵まれた世田谷区は、関東平野南西部に拡がっている武蔵野台地の南東部に位置し、埋蔵文化財(遺跡)の宝庫でもあり、その数は東京23区内で最も多い280箇所以上にも及んでいます。
 その中で、武蔵野台地の内部を流れる小河川沿いにも先土器時代や縄文時代を中心とした遺跡が多数発掘されています。
 八幡山遺跡も小河川の一つである烏山川(北烏山4丁目にある高源院の池から武蔵野面を刻んで東南に流れている)の左岸の台地に位置し、縄文中期の集落や江戸時代の炭焼窯等が調査されました。
 この調査で、遺構(住居跡・小竪穴・土坑・ピット)や遺物(土器・石器・土製品)などが発掘されました。』

 つまり、この近所に川があって、そこから少し上ったところに古代縄文期あたりの人たちの村落があったんだろう。
 要するに、そこは少し山のように他の川などというところからは上ったところにあったんだろう。で、「八幡山」である。勿論、縄文時代には八幡様なんでものはなかったはずだから、縄文期には八幡山なんて言葉はなかったわけで、「八幡山」という地名は後の時代の人たちが名付けた地名なんだろうな。

 これで八幡山の「山」の意味は分かった。

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 八幡山駅のそばに見つけた「芸能資料館」っていう「お店」。なんか、興味ありげだなあ。

LEICA M6 LEITZ ELMARIT-M 28mm f2.8 @Hachiman Yama ©tsunoken

2019年7月17日 (水)

本木ラビリンス

 私が育った足立区関原ってどういうところなのか?

『荒川放水路の土手の北側、足立区を南北に貫く尾竹橋通りに東に位置する。古くから市街地が形成されたために細く入り組んだ路地が多く、住宅地や商店が軒を連ねる下町である。隣接する地域は北は西新井栄町、東は梅田、南は一級河川荒川放水路を挟んで対岸に千住元町、西は本木及び西新井本町。』(Wikipedia)

 という場所。

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 ただし、この「関原」という地名は昔からそうだったわけではない。

『1970年(昭和45年)に住居表示を実施した際に、現在の関原二丁目に所在する関原不動院大聖寺にちなんで命名されたことに始まる。』(Wikipedia)とある通り、1970年に住居表示が変更になった際に、以前の「本木町」から「関原」になった。

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 ただし、まだ依然と同じ「本木」という住居表示の地区が、尾竹橋通りの西側に残っており、以前から変わらない「本木町」と、新たに「関原町になった本木町」がある訳である。

 ということなので、ここではそれらを一括して「本木」と呼んでいる。

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『古くから市街地が形成されたために細く入り組んだ路地が多く』と冒頭で引用したように、表通りの商店街(「関原通り」という)も、そしてその道と裏通りを繋ぐ細かい道も、みな微妙に入り組んでいたり、正確な十字路ではない斜めになった角なども多い。

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 アルジェのカスバほどではないが、それらのクネクネした裏道を知っているかどうかで、この町に住む便利さが異なってくる。

 ところが、そこに尾竹橋通りというまっすぐな道が出来たのはいつ頃のことだったろうか。
 それ以降に出来た、そして現在も出来つつある新しい道路はすべてまっすぐに、ちょうど尾竹橋通りを背骨にした、肋骨のような形で繋がっている。

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 ところが面白いもので、そうやってまっすぐな道が出来て分かりやすくなったようなんだが、実はそうしたまっすぐな道を進んでいった先がどこに出るのかは、その場所まで行ってみないことには分からないのだ。

 私などは、昔のクネクネした裏道を知っているので、この町を歩くのに道に迷ったりはせずに目的地まで辿り着くことが出来る。

 まるでそれは『アルジェの戦い』のゲリラみたいなもんである。

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 なので、私はこの地域のクネクネした道を総称して「本木ラビリンス」と呼ぶのである。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Sekibara & Motoki Adachi ©tsunoken

 

2019年7月16日 (火)

足立区・中曽根城址

 7月の寝不足の理由は、言うまでもなくツールドフランスなんだけれども、昨日は第10ステージが終わって、今日は1回目の休養日。見ている方の寝不足も今日の間に回復しないと、ってな日ではありますね。レースはまだまだ本格的な山岳コースもなかったので、マイヨジョーヌのアラフィリップのリードも30秒位。まあ、まだまだレースの趨勢は見えませんね。

 ということで、おやすみなさい。

 東武伊勢崎線の西新井駅から少し歩くと「中曽根城跡」と言うものにブチ当たる。実は、西新井より一つ北千住寄りの梅島からの方が近いらしいのだが、私としては昔西新井在住だったので、西新井駅から行ったのだ。

 昔、この周辺に住んでいた頃にはそんな城跡があることなどにはまったく気が付かなかったのだが、ただこの辺りに「中曽根」という地名があったような記憶がある。

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 現在は中曽根城跡は中曽根神社と名を変え、かろうじてその名残をとどめている。

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 まあ、それほど大きな神社ではないが、周辺の堀(があったらしい場所)の辺りまでを含めた土地の大きさを考えると、まあ「城」というのは大袈裟ではあるけれども、館があった場所であることは想像に難くない。

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 神社の境内に説明書きを記した碑がある。

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『史蹟 中曽根城跡
 中曽根城は、室町時代 千葉次郎勝胤公によって築城された。
 周囲六町四方(三十六ヘクタール)で、そのかまえに堀や土居をめぐらしていたと伝えられている。
 今も小字に、出戸、小屋の内出などの名が残っている。
 当社の境内は城の一部で、一段と高く、千葉市の信仰する妙見社がまつられていた。幾星霜の間に周辺は耕地となり、現在は都市化した。
 昭和七年、妙見社と興野の雷社と合わせて中曽根神社とし、当地の氏神として祀ったものである。
 昭和五十五年九月吉日
   中曽根神社神燈講』

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 この『当社の境内は城の一部で、一段と高く、千葉市の信仰する妙見社がまつられていた。』という記述から「周辺は一段と高くなっていると、居同じく現地の解説板に説明されていますが、現在は改変も進んでいるでしょうが、北千住から向うとやや低地に見えてしまいますし、梅島方面からではほぼ平地に感じ、南側に荒川があること以外はあまり城砦を築くのに相応しいとは思えませんでした。」と書いているサイトがあったんだけれども、荒川(荒川放水路)は明治時代に作られた人工水路であるので、この時代には「南に荒川がある」ということはなかったので、この説明文はちょっと違いますね。

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 いずれにせよ「元木囃子発祥の地」という碑とともに、静かに眠っている「中曽根城跡」なのだった。

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EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Motoki Adachi ©tsunoken

2019年7月15日 (月)

恵比寿様から布袋様へ

 麻布十番から六本木へ歩いた後は、久々の日比谷線で恵比寿まで行った。

 昔、西新井に住んでいた頃は、東武伊勢崎線から直通する日比谷線っていうのは、銀座まで出るのが実に短くなり、日常的な乗り物だったんだが、練馬や駒込に住んでからは日比谷線というのには接点がなく、あまり乗らなくなってしまった。

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 日比谷線っていうのには面白いエピソードがあって、現在、霞が関方面から恵比寿方面へ向かう日比谷線は、神谷町を出ると一度六本木方面へかなり急カーブを右折して六本木へ向かい、六本木を出ると今度は左へ急カーブで左折して広尾へ向かうという、ちょっと無理矢理路線を作っているんですね。それは神谷町を出て六本木へ向かう際に無理矢理右へカーブするために、レールと車輪からかなりおおきな「軋み音」がすることで良く分かる。

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 実は、これは当初日比谷線は神谷町を出ると次は麻布十番駅があって、そして広尾へ向かうというかなり直線的なルートを通る予定だったのだが、実は麻布十番商店街が日比谷線の導入に強力な反対意見があって、結局、六本木交差点方面へむりやりルート変更を強いられたって背景がある。

 当時は、この辺りの中心的な繁華街は麻布十番で、六本木あたりは米軍基地や防衛庁なんかがあった、かなり地味な街だったということがある。

 麻布十番商店街の反対理由っていうのは単純で、麻布という典型的な都会の下町商店街に埼玉県から大挙して「田舎者」がやってくるっていうのを嫌ったということなのだった。

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 結果として、日比谷線はむりやり六本木交差点方面へルート変更して1964年に全線開通。

 ところがその後の六本木の発展状況はご存知の通り。麻布十番商店街の地下鉄路線建設反対運動はそれを見ても後の祭り。偏屈な反対運動が如何に未来志向でなかったということが露呈してしまい、麻布十番商店街としては忸怩たる思いで六本木交差点周辺の発展状況を指をくわえながら眺めているしかなかったわけだ。

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 南北線に麻布十番駅が出来たのは2000年。六本木に「繁華街」の地位を奪われてから実に36年経ってやっと麻布十番に地下鉄駅が出来たのだった。実は「田舎者を排除」したいという麻布十番商店街の発想こそが「田舎者の発想」だっていうことが分かっちゃったわけなんですね。

「バカなことをするんじゃなかった」ってことですね。

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 広尾から恵比寿、中目黒っていうのは元々の計画にあった直線的なルート。

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 で、中目黒の商店街にあるマンションの玄関に何故かある「布袋様」の石像です。

 これで恵比寿駅前の「恵比寿様」の銅像と話が繋がった。

NIKON Df AF NIKKOR 20mm f2.8 D @Yebisu & Naka Meguro ©tsunoken

2019年7月14日 (日)

麻布で85mm街撮りスナップ

 今回の「85mmで街撮りスナップ」は麻布十番です。

 麻布十番は駒込からも東京メトロ南北線一本で行けるし、六本木にも近いので、結構、頻繁に行っています。まあ、このあたり写真ギャラリーなんかも多いんですね。ということもあります。

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 麻布十番から六本木方面へ行くには麻布十番商店街から行く方法と、もうひとつ仙台坂を上がっていく方法があります。

 麻布十番商店街から行く場合は、十番商店街からそのまま桜坂を上がって六本木ヒルズに上がる方法と、途中で芋洗坂の方に折れて六本木交差点方面へ行く方法があります。

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 麻布十番商店街はあまり広い道じゃないので、本来は広角レンズの方が撮影には相応しいんだが、敢えてそれを85mmで撮って何か意味があるんだろうか?

 って、別に意味なんかがある訳ないじゃん。広角で撮るのも飽きたので、望遠で撮るってだけのことです。

 まあ、確かに望遠レンズで撮影すると圧縮効果があるので、それなりの面白い写真にはなる。

 けど、別にそれだけのことで、それ以上の意味はない。っていうか、写真そのものに意味はないというか、写真に意味を求めてはいけないのだ。写真そのものには「意味」はない。意味はないけれども、それら写真の集積から何かを受け止めて、それに意味付与することは、別に拒否はしない。

 っていうだけのことで。

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 その麻布十番から六本木へ出るちょっと前のフォトスポットがここ。

 TSUTAYAカフェの表です。

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 久々に日比谷線の六本木から乗って恵比寿までいきました。

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NIKON Df AF NIKKOR 85mm f1.8 @Azabu Juban ©taunoken

2019年7月13日 (土)

東京地裁裁判傍聴&法務省:法務史料展示室見学ツアー

 なんだか一眼レフのカメラを構えながら、こちらに何か制止をしているようなこのおじさん。何をしているのでしょうか。

 手前の画面両サイドの下の方には、禿げ頭とチョイ禿げ頭が並んでいます。

 つまりこれ、何かの記念撮影の集合写真を撮っているんだけれども、写されている方の私が、その撮影者の写真を撮っているので、「ちょっと、お前! いい加減にせいや!」って呆れて私が言われている場面なのでした。

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 実は、一昨日はK談社のOB会の年に何回かやっているツアーで『東京地裁裁判傍聴&法務省:法務史料展示室見学ツアー」の一場面。4月5日のブログ「六義園じゃなくて、大和郷幼稚園に行った」で書いた花見の次の開催っていうわけ。

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 実はこの日、大麻取締法違反の罪に問われたアイドルグループ「KAT-TUN」の元メンバー、田口淳之介と同居していた元女優、小嶺麗奈の両被告の初公判が行われたわけだが、当然、そんな公判なんかは見られる筈もなく、我々が傍聴したのは「出入国管理及び難民認定法違反」という事件で捕まった中国人の公判。つまり、特別、日本国内で事件を起こしたこともない中国人技能実習生が仲間と喧嘩して、パスポートを持たずに実習先を飛び出しちゃって日雇いなどで食いつないでいたのだが、ある日警察官の職務質問でパスポート不所持(ついでに滞留期限を6カ月オーバーステイ)でパクられちゃった人の裁判なのだった。

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 刑事裁判なのでもうちょっと緊張感があるのかな、と思っていたんだが、あまり緊張感と言うものもなく、淡々と罪状を読み上げる検察官と、なんかあんまりやる気のない国選弁護人のやり取りが数回あって、検察官の求刑懲役1年に対して弁護人が執行猶予を求めると、「即座に」というようなタイミングで裁判官が判決を述べてしまい「求刑通り懲役1年、ただし執行猶予3年」という具合に刑が確定、被疑者の身柄は入管預かりとなり、多分、強制送還になるっていいう寸法なんでしょうね。

「えっ?」っていう感じで、とにかく1日で結審までいっちゃうのか、ってあっけにとられた思いだった。

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 民事裁判は以前傍聴したことがあって、それは作家の絲山秋子氏と脚本家の荒井晴彦氏との間で争われた絲山氏の『イッツ・オンリー・トーク』を原作とした映画『やわらかい生活』を巡る裁判で、要は映画化・及び映画のDVD化は許諾しておきながら、『やわらかい生活』がシナリオ作家協会が発行する『年間代表シナリオ集』に収録されることになったら、絲山氏が「脚本を活字として残したくない」という理由で出版を拒否した、という事件。荒井氏とシナリオ作家協会は、原作使用契約に「慣行に反する許諾拒否は行わない」とあるので、荒井氏とシナリオ作家協会は損害賠償金1円を請求して東京地裁に訴えたものだ。絲山さん、荒井さんとも私の知人だったので興味があり、第1審から結審まで見届けた。

 これには映画化とDVD化は許諾して原作使用料並びにDVD化の原著作者印税を受け取っておきながら、そりゃあ絲山さん「無理筋」ってもんじゃないかしら、と考えていたんだが、あにはからんや荒井氏敗訴ということになってしまって、まあ、「原著作者」の権利ってムチャクチャ強いんだなってことを感じさせられた思いがある。

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 それでも、第1審から結審まで半年位はかかり、その間、法廷は数回、一回の審判は15分くらい、双方の弁護士がそれぞれの証拠を巡ってムニャムニャ喋ってオシマイ、絲山氏なんかは一回も出てこないし、「次の公判はいつにしますか」という裁判長の言葉で閉廷って、なんか、それはないでしょっていうくらいの緊張感のなさっていうか、まあ、民事法廷なんかはそんなもんだろうな、と思っていたら、刑事裁判でも結構緊張感のない裁判があるってことが分かった。

 それが収穫か。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER COLOR-SKOPAR 21mm f4 @Kasumigaseki ©tsunoken

2019年7月12日 (金)

東京周縁部を往く:ポイントは登戸だったんだが……

 多摩川サイクリングロードというのは、当然、川上から見て左岸コースと右岸コースがある。
 以前かなり積極的にサイクリングをやっていた頃は、この辺りは右岸コースを走ることが多かった。

 ということで、久々の多摩サイ歩きは南武線の宿河原で降りて、右岸コースを歩いた。

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 宿川原駅を降りて多摩川沿いに至ると、まず最初にあるのが宿河原堰である。この堰で多摩川の水を一度貯めて二ヶ領用水という農業用水路に水を流すのだが、この用水が出来たのが関ヶ原の戦いの頃であり、江戸時代初期から川崎あたりの田畑に水を導入するために開かれたという、なかなかの「時代もの」ではある。

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 そのまま多摩川を遡行するとすぐに登戸につく。

 私がサイクリングをよくやっていた頃は、この多摩水道橋あたりが小休止の場所で、ここで一休みした後は、そのまま多摩川を遡行するか、あるいは多摩水道橋を渡って家へ帰るかという分岐点だった。
 多摩水道橋の下にはサイクリストや釣り客用の茶店があって、今でもそれはあるんだが、サイクリングロード自体が多摩水道橋下で分断されてしまっているので、茶店にもあまり客は来なくなってしまったようだ。

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 実は、このコースを歩いたもう一つの理由は、やはり登戸駅そばの「あの惨劇」があった場所が、今はどうなっているんだという興味なのでありました。

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 行ってみれば、当たり前なんだけれども、既に惨劇の残滓は何もないし、献花などもなくなっており、町は再び静寂を取り戻している。

 まあ、今流行りの「中年男性の引きこもり」ってまあ、迷惑をかけている対象が肉親だけなら、まあ「親の子育てが間違っていたんだよな」ですむけれども、その結果、他人を傷つけるっていうのはどんな精神構造をしているんだろうか。私なんかには、まったく理解できない。

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 ってことで、再び多摩サイへ戻る。

 この辺り、多摩川河川敷はいろいろな企業や学校のグラウンドになっているんだが、面白いのが高千穂大学のグラウンドで、野球のバックネットは張ってあるんだが、どうも内野グラウンドが草ぼうぼうで、どうも野球はやっていないようなんですね。高千穂大学の名前は東京新大学野球連盟の2部で見つけることが出来るが、一応野球部があるのなら、この草ぼうぼうは何なんだろう。野球部は別のところに練習グラウンドがあるんだろうか。

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 なあんてことを考えながら多摩サイを歩いていると、多摩川の上河原堰のある稲田堤にでる。
 こちらも二ヶ領用水の取水口で、宿河原堰の流れとはどこかで合流しているのかなあ。

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 ってことで、稲田堤で本日の多摩川遡行は終わり。

 京王稲田堤駅から帰って来たのでした。

EPSON R-D1s VOIGHTLANDER URTLA WIDE-HELIAR 12mm f5.6 @Kawasaki ©tsunoken

 

2019年7月11日 (木)

スタジオぴえろの頃

 三鷹駅の反対側、北口にもアニメ関係の建物がある……、というか、あった。

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 ここ、藤和シティコープ三鷹というマンションは一階が藤和不動産の事務所があって、二階と三階が貸事務所になっていて、その上が住居という造りのマンションだった。その三階にスタジオぴえろ(現・ぴえろ)が入ったのは1985年頃か? それまで武蔵小金井の駅から十数分歩かなければならなかったのだが、今度は三鷹の駅のそばという、かなり便利なところに移ったわけだ。

『当初は『ニルスのふしぎな旅』を作るためだけに設立されたスタジオで、布川、上梨の他、竜の子プロダクションの演出スタッフであった経歴を持つ鳥海永行、案納正美、高橋資祐、押井守らが参加した。人脈的には同プロダクションの流れにあるスタジオである。また、演出家が集まって作られたため、演出家の力が強いことも当初の特徴の一つであった。制作にあたっても設立当初はスケジュールに余裕をもって良質な作品を作る制作環境であったという。』(Wikipedia)

 というか、まあ鳥海さんのためのスタジオという位置づけだったんだろうな。押井守が世界で最初のオリジナル・アニメ・ビデオ『ダロス』を作ったのも、このスタジオだった。

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 その後、スタジオぴえろは出世して、今は、三鷹と吉祥寺の間のジブリ美術館のそばに自社ビルを建てて、ぴえろとなったわけだ。

 で、そのスタジオぴえろに注目したのが、1984年に劇場アニメ『SF新世紀レンズマン』(東宝東和配給)を作って大コケし、その後、その劇場版と一緒に企画したテレビシリーズ『GALACTIC PATROL レンズマン』(朝日放送)でも、ものの見事に2クールで討ち死にした講談社であった。

 まあ、もともと「レンズマン」というのがアメリカでは有名なSFで、『スターウォーズ』でジョージ・ルーカスが参考にしたというのは事実なんだけれども、だからといって、先行するコミックもないし、キャラクターもまったく知られていなかった作品が日本で成功するって考えていた講談社の人たちの「世間知らず」状況ってのも相当なもんでしたね。

 実は、その講談社で既に劇場版『レンズマン』の製作も大詰めになった頃に、名古屋支社から東京本社に転勤したばかりの時に、「君がテレビシリーズ『レンズマン』のプロデューサーね」って言われて、突然、制作現場では管理職、会社では一介の平社員プロデューサーにされてしまったのが、私、tsunokenなのでありました。もう、シナリオも大半出来上がってしまっていた状況で「プロデューサー」って言われてもねえ。どうすりゃいいんだ。

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 劇場版、テレビと二度にわたりずっこけた講談社が次に打ち出したのがOVA(オリジナル・アニメーション・ビデオの略なんだが、講談社だけは「オリジナル・アニメーション・ビデオ」なんだから「OAV」と言っていた。なんかバカみたい)『バリバリ伝説』だったのだ。

 しげの秀一氏のマンガ『バリバリ伝説』はOVAとしては、『筑波編』『鈴鹿編』の二作を作った。この二作がOVAとしては大ヒットしたので、日本ヘラルドから劇場公開の話があり、ではということで、それを再編集して、もう一本のオリジナル作品、楠みちはる氏の原作『あいつとララバイ 水曜日のシンデレラ』と共に公開したのであった。勿論、両作品ともちゃんと黒字にしましたよ。

 その後、私は『AKIRA』チームを率いる立場になっちゃったんで、スタジオぴえろとの直接的な付き合いはなくなってしまったんだが、今でもぴえろとの協働作業にはいろいろと勉強させてもらったという思いがあるし、その経験でもって『AKIRA』を成功に導いたと、今でも考えている。

Photo_20190708170401 ©Shuichi Shigeno Kodansha

 いやあ、しかし、この時期のアニメプロダクションって、結構、経営も苦しくて、スタジオぴえろもいろいろと苦しい時期ではあったらしい。そんな布川郁司氏の苦労を散々聞かされた三鷹駅そばの飲み屋「婆沙羅」は今でも健在だ。

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 懐かしいなあ。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G @Mitaka ©tsunoken

 

2019年7月10日 (水)

三鷹と言えばAKIRAでしょう

 三鷹の駅を降りるとやたら目に付くのが「太宰治」である。

 三鷹駅南口駅前には玉川上水に架かる橋があって、その脇には「玉川上水は、数多くの文人に親しまれてきました。昭和14(1939)年から同23年(1948)年まで三鷹に暮らし、「走れメロス」や「東京八景」などの名作を発表した太宰治もその一人です。近所には、太宰の旧居宅跡など、ゆかりのある場所が多数残っています。」という説明板がある通り、やはり「三鷹と言えば太宰治」ってことなんですかね。

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 駅からちょっと南へ行くと「三鷹市 太宰治文学サロン」なんてのがあったり……

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 ビルの壁に太宰治ゆかりの場所なんて言って

『田辺肉店離れ跡(現 三鷹の森書店)
 一九四七(昭和二二)年四月からは、「斜陽」を書き継ぐために、田辺肉店のアパートを借り、外部との連絡は若松屋を通して行ったと言われています。この店を舞台にして「犯人」が書かれました。』

 なんて説明板やら「太宰治横丁」なんて、多分、昔は呼ばなかっただろう道にも『小さな飲食店が軒を並べていて、太宰が通ったことで通称ができました。いきつけの「喜久屋」という小料理屋が三鷹駅近くにありました。』なんて説明があります。

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 三鷹駅からまっすぐ南に延びるのが中央通りなんだが……

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 その中央通りと連尺通りの交差点のそばには、太宰治の墓がある禅林寺というお寺がある。太宰の命日である6月19日には「桜桃忌」というのが毎年行われていて、太宰マニアのおばさんたちが大挙して訪れるのであります。

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 で、その禅林寺の前にあるコープみらいのコープ下連雀っていうのが、その昔、アニメーション映画『AKIRA』の製作現場であった「アキラ・スタジオ」なのであります。

 当時、スタジオ・ジブリが吉祥寺に制作スタジオを作っていたこととか、大友克洋氏が西荻窪と吉祥寺の間に住んでいたなんてことなどがあって、最初は吉祥寺にアキラ・スタジオを作るべくいろいろなビルなんかを捜しまわっていたんだけれども、なかなかこちらの条件に合う物件がなく、結局、三鷹まで行って、このスーパーマーケットの二階をアキラ・スタジオとして使用したのだった。元々は、二階も店舗だったんだけれども、結局、広すぎたようでまるまる空いていたのである。

『AKIRA』の制作現場は東京ムービー新社(現・トムスエンタテインメント)が受け持った関係で、このスタジオの運営は実質的に東京ムービー新社であり、東京ムービー新社の子会社であるテレコム・アニメーションフィルムであった。当時、アメリカのフルアニメーションの制作を請け負ていたテレコムの参加が、東京ムービー新社がこの映画に参加する条件でもあったわけで、まあ、そんなのが理由。

 勿論、東京ムービー新社はアキラ製作委員会の下請けという関係論なので、実質的なプロデューサーであった私の席はこのスタジオにも作ってもらい、講談社とアキラ・スタジオの二足の草鞋を履く生活を一年以上続けたわけである。それに伴う逸話もあるんだが、それはまたの機会に……。 

『AKIRA』の制作後、しばらくはテレコム・アニメーションフィルムがスタジオとして使っていたんだが、どうも広すぎたようで、その後はテレコムも使わなくなり、現在も、その二階全部が何かに使われているわけではない。

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『1988年7月16日、関東地方で「新型爆弾」が炸裂し、第三次世界大戦が勃発。それから31年後、2019年の新首都「ネオ東京」で……』というのが映画AKIRAの冒頭。

 2019年の東京(ネオ東京)が翌年にオリンピックを控えて都市改造中だという部分は、30年も前にそれを予言していたっていう、さすがにクリエイターの慧眼と言うしかないんだが、「1988年7月16日」というのは映画AKIRAの公開日です。で、「新型爆弾」が落ちた「関東地方」って何処だかわかりますか?

Akira©1988 AKIRA COMMITTI

 手前にあるビル群は勿論、新宿西口のビル群です。で、遥か遠方に富士山を仰ぐ、その爆心地は……?

 まさしく三鷹のアキラ・スタジオなんですねえ。

 ねえ、三鷹と言えばAKIRAでしょう。

 いやあ、アニメーション「AKIRA」の4Kリマスターとか、大友克洋氏の新プロジェクト「ORBITAL ERA」なんて話を聞いて、急に思い出しちゃいました。

NIKON Df AF NIKKOR 50mm f1.8 G @Shimo Renjaku Mitaka ©tsunoken

2019年7月 9日 (火)

小雨 谷根千 絞り開放

 毎日毎日、雨が続いて嫌になりますね。

 そうは言っても、まあ、いつもの散歩写真を小雨時を狙って実行するのだ。

 ご近所ですけれどもね。

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 小雨を狙ってきたのは、谷根千。家からバスで5停留所の千駄木、谷中の谷中銀座やよみせ通りです。

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 カメラはいつものニコンDfに、レンズは久々のAi ニッコール 50mm f1.4、これを絞り開放で撮影しようっていうわけ。

 しかし、最近はニコンDfもほとんどは超広角20mmレンズでの撮影なので、一眼レフのマニュアルフォーカスって久しぶりだなあ。標準50mmの絞り開放撮影っていうのも、合焦範囲はかなり狭いので結構難しい撮影なのだってことを思い出しました。

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 この撮影もなんか「前ピン」だったり「後ピン」だったり、撮影時には気が付かなかったんだけれども、家に帰ってきてモニター上で見るとかなり合焦ポイントを外している写真が多い。

 望遠レンズだと合焦かアウトフォーカスかというのは撮影時点で分かるんだけれども、意外と標準レンズだとかえって難しいんということを、これまた今更なんだが学んだっていうことですね。

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 まあ、最近は普通はEPSON R-D1sっていうレンジファインダーカメラにフォクトレンダー12mmなんていう超広角レンズでの撮影が、なんか普通になってしまっていたり、一眼ニコンDfでも20mmばっかりだもんなあ。

 まあ、確かに散歩カメラには広角レンズが似合うし、だとしたらやっぱりレンジファインダーだよな、っていうことになる。

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 なので、これからは広角はレンジファインダーに任せて、一眼レフは基本的に50mm以上のレンズ専用カメラということにしよう。

 散歩カメラには一眼レフは似合わない、っていうことなんでしょうね。

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 ということで……「毛さん」と。

NIKON Df Ai NIKKOR 50mm f1.4 @Yanaka & Sendagi ©tsunoken

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